1 一枝の恩

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 夜になった。  村人たちは、暗くなる前に大切なものを一つだけ持って、竹藪の中に身を潜めた。大抵は食料である。  周江は村の中で、建物の陰で楊碧の側にいた。  隼を使って楊碧が呼んだのは、兵士の小隊であった。秦王府の私兵団の中から、楊碧の護衛に与えられた小隊である。 「殿下、どうなりますかね」  周江は半ばわくわくしながら、楊碧に聞いた。  楊碧は真面目くさった顔で指摘した。 「殿下というのは、皇子もしくは、王に封じられた皇族に用いる敬称であるぞ。確かに私は秦王殿下の第三子として生まれた。しかしながら、将来秦親王もしくは秦郡王に封じられるのは、我が二兄の世子であり、この末弟ではない。この末弟は、生涯通じて候にも封じられまい。太守としてであれば、閣下という敬称になる」 「…来ました」  護衛隊の隊長が楊碧に報告した。  指さす方に、ゆらゆらと火が揺れる。 「長安城守隊がいるようです」 「周江を捕縛するつもりだな」  楊碧は、淡々と言ってのけた。 ー扉口の扁額に気づいて通り過ぎればよし、中に入るもよし   一団は村の入り口の扉を蹴り倒し、声を張り上げた。 「周江!出てこい!書生もつれて出てこい!」  周江を出させた。  何かのときのために、楊碧は再び周江に術をかけてある。  周江はゆっくりと一団の方に歩いて行った。 「貧乏書生はどこだ!」 「誰だ」  そう答えたのは楊碧である。しかし、その姿は見せない。 「誰だとはなんじゃ」  少し甲高い声の小太りの男が現れた。しゃなりとした歩き方と声から、楊碧はこれは長安の前朝に仕えた宦官だろうと踏んだ。   長安落城は激戦であったと聞く。最後の皇帝の劉議はなかなか降伏せず、孤軍奮闘したが、最後は最側近の宦官に絹の枕で窒息させられて死んだと言うではないか。皇子皇女の中に逃げ延びた者がいるが、未だ見つからない。  長安落城は、統一という偉大な仕事を成した今上に残る唯一の汚点である。  おそらく、大夏の武帝と諡されるであろう、偉大な帝王は、武のみをもって良しとはしなかった。  懐柔も積極的に行い、降服した国主には一代の侯に封じて皇帝と同格の扱いをさせ、陛下と呼び、朕と自称させた。  魏の文帝が後漢の献帝より禅譲を受けた故事に倣ったのである。  当然ながら、最後の戦いになった、長安攻城戦においてもそのようにするつもりであったのに、劉一族はすでに宦官によって処刑されていた。  今上は怒り、亡き皇帝を丁重に葬った。褒美がもらえると思い、擦り寄った宦官を不忠の者として処刑したが、宮中に仕えた宦官の全てを処刑したわけではない。 ー生き延びた一人がこの宦官か  そう踏めば、楊碧が躊躇をすることはなかった。 ー出方次第では、殲滅を目指す 「最近長安に出てきたものでね。誰が誰だかわからぬ」  楊碧は腹の中とは違い、のらりくらりと答えた。 「だから、教えて欲しい。そなたは誰だ」  ふんと男は鼻を鳴らした。その様子はどう見ても宦官ではないか。 「先朝の太監、河良」 「それが、どうした」 「今朝がた、うちの養子に手を出してくれたじゃないか」  十中八九、自らの財産を継がせることを餌にして、年若い愛人を常日頃そばに置くために養子にしたのだろう。好きでもない男の性の餌食にされれば、あの荒れ方も納得できなくはない。 「養子ねえ。そなたのお気に入りのおしゃぶりのことかな」  楊碧はますます煽る。  なに!?とばかりに背後の男が一人刀を抜きかけた。  何良はそれを制して言った。 「かわいそうにうちの子は、手足を折られてしまい、もう二度と立ち上がれないと言われたのだよ」  およよと泣き真似をしながら河良が言うので、楊碧は煽った。わざと真面目腐った声で言う。 「良かったではないか。これからは外に出ないのだから、いくらでもしゃぶりたい放題だな」  矢が飛んできて、周江はひらりと避けた。 「この周江を同じ目に合わせなければ、気が済まぬ」 「だから、先に俺にちょっかいを出したのは、お前のおしゃぶりだってば。自業自得ってのはこのことだろ」  周江がおしゃぶりという単語を気に入って使うのが、楊碧はおかしくてならない。誰が誰の何をしゃぶってるのだか、このガキは知っているのだろうか。  真面目にやらねば面白くないのに、ついついくすくすと笑ってしまう。 「その、通り、正当防衛で、あったと、私も、言おう」  笑い声で楊碧の言葉も途切れ途切れになった。  家将たちも笑いそうになり、手をかけている弓の弦を離しかけた者がいた。 「この周江の腕は、知っているだろう。早々に引き取られよ」  楊碧の言葉に合わせて、周江が尻をぺんぺんと叩いた。  周江は、相手がどのような身体をしているのかわかってやったのだろうか。何良はとうとう怒った。 「捕まえよ!生死は問わぬ!」  長安城防衛隊だろうか。火矢の用意を始めた。  ひらりと周江は、近くの家に飛び込んだ。もちろん逃走経路は確保してある。 「焼け!村ごと焼き殺せ!」  入り口近くの家に、火矢が打ち込まれた。  竹て作った家というよりも、小屋である。  季節は、乾燥した冬だ。  またたく間に小屋は炎上した。  周江を追って、兵士が家に飛び込んだ。入れ替わりに、周江は、飛び込んだ小屋の裏口から飛び出た。中には何人か何良の手下が入っている。外から周江は竹の柱を蹴った。  小屋の主な柱にはすでに傷がつけてあった。支えていた最後の一本がゆらりと動いたので、小屋は崩れた。  中の囲炉裏には竹炭が燃えていた。そこに、乾燥した竹の山が落ちてきたのである。こちらも炎上は必須である。 「貧乏書生を捕まえろ!」  何良が金切り声を上げた。  深夜を、炎上する小屋が煌々と照らした。 ーそろそろ良いだろう  楊碧の建物の影から、秦王府の護衛隊が旗をはためかせた。  もっと明るければ、その地に合歓の木の意匠が布と同じ色で織り上げられていることがわかっただろう。一枚には、秦の字があり、もう一枚には、夏の字があった。 「長安太守よりー。長安防衛隊に命じるー。長安太守の別院に火を放った者を捕縛せよー」  最も声の大きな者が叫んだ。  長安防衛隊に動揺が走る。 「偽物だー!」  何良が金切り声を上げ、ある者が火矢を国旗に射かけた。  慌てて護衛隊が旗を下ろして消したが、絹の旗は燃えやすく、夏の文字の一部を焦がした。 「本朝のー!国旗にー!射掛けるかー!」  護衛隊の弓矢が一斉に河良と長安防衛隊に向いた。  新しい長安の太守は、ごく数日前に秦親王の第三子、楊碧と伝えられているが、まだ本人は到着していない。  長安防衛隊は弓矢を向けられて動揺した。 「貴隊はー、どこのー、所属かー」  動揺しながら、長安防衛隊が叫んだ。 「長安太守ー、楊叔翡さまであるー。疑うならばー、壊した門の上のー、扁額を見よー」  叔翡とは、楊碧の字名である。  防衛隊の隊長は、新任太守の諱も字名も知る。震える手で火を掲げて扁額を見た。扁額と言っても、竹を半分に割ったものを並べて墨で書いてあるだけだ。 ー楊家山荘  楊は国姓である。  楊碧の父の秦親王は、今上の最も信頼する兄皇子である。  今上は古代の聖なる周の武王にもなぞられる。  対して、今上の親征を裏から支えた秦親王は、周公旦にも例えられた。  はるかかなた、江南からこの中原の果てまで兵を進め、今上は統一を成し遂げた。それは、秦親王あってのことである。一時期、秦親王の言葉は今上の言葉と見なされるほどであった。  功臣にもたらされる不幸な結末を避けるためか、親王本人は五十になった数年前にすべての官職から退き、今は数日に一度、今上に挨拶に行き、若い東宮の学問上の父になるだけであった。  それでも、秦親王は今上と近く、同時に東宮と最も仲が良いのが庶子の楊碧。  今度こそ、長安防衛隊は動揺した。 「城門で」 「合歓の木の佩を」  城門で、楊碧が見せた玉佩の話が出た。  何良は後ろに下がりながら、慌てて、かかれー!嘘に違いない!と金切り声で叫んだ。  何良本人に仕える荒くれ者たちが護衛隊に襲いかかった。  荒くれ者たちは、長安攻城戦を守備側で戦ったかもしれない。しかし、護衛隊の方は、今上に従い、転戦を繰り返した元精鋭部隊である。忠誠を誓うのは、秦親王家ではなく、今上とこの国土である。 「長安太守に弓を引くか!」  荒くれ者集団と、元精鋭部隊では装備も違う。  護衛隊は赤子の手を捻るが如く荒くれ者たちを制圧した。  そしてようやく、楊碧の出番である。  朝服をつけて、貧乏書生ぶりを捨て去り宣言した。 「大夏帝国、長安太守、楊叔翡ここにあり」  河良はさっきまでの声の主が朝服を着て現れたのを見た。  長安防衛隊は河良を捕まえ、前に引き摺り出した。  楊碧は慇懃に言ってのけた。 「我が別院に、それも、我がいるときに火を放ちおったな」  護衛隊は焦げた「夏」の字の旗を楊碧に差し出した。 「この旗を掲げる部隊に火矢を向けたな。これが謀反以外の何者でもありまい」  河良は震え上がった。  見上げた先の小童の顔からは、感情を読み取ることはできない。  その隣にいる悪戯小僧の顔には、ざまあ見ろと書かれていた。  河良は憎しみを持って小僧を睨んだ。目は小僧にはふさわしくないような剣に向いた。 ーあの剣は!  河良は声を出せなくなった。  何を始めるかと、楊碧が護符を飛ばしたのである。
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