2 新任太守

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 ある晩、足を洗うためにお湯を持ってきた周江は言った。 「あの、俺にも術を教えてもらえんでしょうか」  楊碧は主人としては実に仕えやすい。  本当に王府で育ったのかと問い詰めたくなるほど、大抵のことは自分でこなす。  確かに桶に水を汲み、火鉢にかかている薬缶の湯を加えて足をつけるようにするのは、周江の一日の仕事の最後である。  しかし、楊碧は決して足を他人に洗わせることはない。それどころか、袖からのぞく手と、襟から伸びる首から上の他には、決して体を見せない。  どうやら、楊碧は足のみならず、布に湯をひたし、全身を清めてから眠るようだが、それは周江の憶測に過ぎない。  この時間しか、二人きりで、楊碧が暇そうにしているのはないのだから、ここで周江は言うしかなかった。  石帯を解こうとしていた楊碧に、周江が手を出して言った。 「お手伝いいたします。弟子にしてはいただけませんでしょうか」  楊碧は、微笑んで答えた。 「術を使うには、対価が必要なのだよ」 「対価、ですか」  楊碧は頷き、側の椅子に腰掛けた。 「ある人は最高の術を習得するために、命を差し出し、習得したと思ったらすぐさま雷に打たれて死んでしまったという」  周江はぶるりと体を震わせた。  ぷふっと楊碧は笑った。 「誰にも愛されず、一生孤独に過ごすと誓って、学ぶ人もいる」  周江は首を傾げた。 「妻子を得ぬという意味ではないのだよ。友も弟子もない人生になるのだね」  周江はそれも嫌だと首を振った。 「ならばどうだ。一生貧しいってのは」 「今と変わらんじゃないですか」  くつくつと楊碧は笑った。 「府君は何を対価にされました?」 「毛」 「は?」 「だから、毛。手伝ってくれるのだろう?」  周江は、はあ、と要領を得ぬまま、楊碧が脱ぐのを手伝った。 「見てみるが良い」  楊碧は、内褲を脱いでみせた。  布を湯につけ絞っていた周江が頭をあげるとらそこには寒そうに鳥肌をたててはいたが、成人男性ならばあるだろう毛が、足どころか股間にもなかった。 「もうわかっただろう」  くしゃみをしながら楊碧は衣を閉じ、周江から受け取った布で体を拭いていった。  周江の目は、楊碧の豊かな髪の毛にあった。  それに気づいた楊碧は、触ってみよと頭を傾けたのである。  髪の毛はあるようだ。 「つまりだな。足の指の毛から始まって、術を使うたびにどんどん抜けていくことを対価にしたのさ」 「えー」 「そのうちまた生えるが、足は何度も抜けていて、もう産毛しか生えなくなった。今回、開封から歩いてくる間に自らと、そして最後にそなたに術をかけ続けたゆえに、初めて股間まで全部抜けた」  周江は絶句した。 「ゆえに、私には大した術は使えぬし、使い続ければ頭まで坊さんみたいになるのさ」 「えー、府君がつるピカ頭になるんですか!」  楊碧は微笑んで答えた。 「ああ。その前に、髭に鼻毛に耳毛にまつ毛、眉毛を失うだろうね」  下を清めて、楊碧は布を変えて上を脱いだ。  周江は、薄暗い中でも、楊碧の脇に毛が生えているのはわかった。周江は、また布を絞って楊碧に渡しながら聞いた。 「じゃあ、お禿げさんたちは、みんな術を使ったんです?」  つるピカ頭に、お禿げさんとくると、もう楊碧は笑い転げた。 「あはは、全員が全員そうじゃあるまいけれど、中にはいるだろうね」  夜着に着替えた頃には、楊碧はひとしきり笑い終えたところだった。最後に足を湯につけて周江に聞いた。 「何を対価にできるかい?」  周江は考えあぐねた。 「何をしたいんだい?」  楊碧は聞き直した。 「空を飛んだり」  もとより、大したことをしたいわけではない。  周江の答えににっこり笑って、楊碧は言った。 「命を差し出したり、孤独を耐えたり、貧しさに喘がねばならぬよ、きっと。つるピカ頭のお禿げさんになっても、空を飛べるかわからぬ」  楊碧は続けた。 「おそらく、対価にすべきものなどないよ。私は文人で、あまり体を使って何かすることはできないからね。身を守るのに毛なら良いかなあと思ったが、失い始めると人にはあまり見せたくないような気がするからね。術など頼らず、剣術でも使えるようになって、その剣の持ち主に恥じない使い手になっても良いのではないかい?」  なるほどと周江は説得された。 「この剣、やっぱり高いんですか?」  知らないのかい?と楊碧は聞き返したのである。 「その剣について、どう聞いている?」  周江は、この剣は生みの母親のものだと聞いた、父親と息子を捨てて、生みの母は消え、今村にいる母親とは、育ての母だと説明した。 「お父さんはいないんだね?」  周江は口籠った。  何しろ相手は、長安を落とした夏の皇族である。 「長安攻城戦かい?」  そんなことだろうと、楊碧は察したのだ。 「あれから、帰ってこねえんです」  ようやく周江は答えたのである。
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