邂逅 ~赤~

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邂逅 ~赤~

真冬の墓場って、ホント、寒々しいなぁ……。 そんなことを呟きながら、藤田万理(ふじたまり)はできるだけ左右の墓石を見ないように、早足で石畳の上を歩いた。 ちょっと遠回りでも、表通りから来れば良かったかな。 墓は墓。ただの石。 そこに私はいませんと、誰かが歌っていたではないの。平気平気。……と、出かけるまでは思っていたんだけどね。 突然、目の前の地面を、すごい勢いで何かが横切った。 「わぁっ!」 思わず大声を上げてしまった。それが飛び込んでいった草むらに目をやると、茶トラの猫の後ろ姿が遠ざかるところだった。 「もう、おどかさないでよぉ」 それにしても、驚いた時の悲鳴が、きゃぁ、じゃなくて、わぁっ!なところが、我ながら、ちと情けない気もするが。 子供のころは極端な怖がりだった。夜、離れにあるトイレに、一人で行けるようになったのは、小学校も高学年になってからのことだ。 もちろん、怖かったのは「お化け」。夜の暗闇には、それがいるものだと信じきっていた。 夜だけではない。昼間でも物陰や、光の射さない部屋は怖かった。実際にその目で見た事などは無かったのだが。 怖がりのうえに、泣き虫だった。 柳の木が怖いと言っては泣き、裏の井戸の底が暗いと言っては泣く。 ――カンの強い子やなぁ 同居していた祖母は、そう言って万理の頭を撫でた。万理はおばあちゃんっ子で、何かあるとすぐに祖母の後ろに隠れ、割烹着の裾を握った。 考えてみれば、当時よく遊びに来ていた、何の仕事をしているのかもわからない俊樹(としき)叔父が、会うたびに万理に幽霊だの、妖怪だのの話を無理矢理聞かせては面白がっていた。極端な怖がり方をする姪を、からかっていたのだ。 「っていうか、あのおじさんのせいであたし、怖がりになったんじゃないのかなー?」 いつもトイレについて行ってくれたのも祖母だった。万理は、いつもトイレの中から、おばぁちゃーん? いるー? ちゃんといてくれてるー? 大声で呼びかけていた。祖母は、はいはい。いるよー。と返事をしてくれた。 そんな祖母は、万理が小学校五年生の時に亡くなった。 亡くなる間際に、祖母は万理の手を取り、 ――泣き虫のマリが心配だよ。死んでも死に切れないよ と、何度も繰り返した。万理は約束した。 ――あたし、もう泣かないから。心配しなくていいよ 祖母はうんうんと笑い、万理の手を握ったまま、眠るようにこと切れた。 生まれて初めての死別を目の当たりにして、万理は強く決意した。 あたしは強くなろう。もう、泣かない。お化けを怖がったりしない。おばあちゃんを安心させてあげなきゃ。 そう、幽霊なんて居ない。世間でよく言う怪奇現象も気のせい。 まずは、怖さの正体を知るために、妖怪や幽霊の出てくる小説や本を読み漁り、同時に、オカルトを解明する内容の本、心霊現象否定派の本を読んだ。 万理は一人でどこでも行けるようになった。夜のトイレでも、いわくつきと噂される学校の準備室でも、「出る」と噂される高架下のトンネルでも。 実際、中学生の頃にコックリさんが流行った時も、きゃぁきゃぁ盛り上がる女子達を、 「馬鹿みたい。自己暗示にかかっちゃって」 冷めた目で言い放ち、興醒めさせ、ひんしゅくを買った。あげく、クラスの中央の派閥からは弾かれたが、それはそれで気楽だった。 修学旅行の時、アミューズメントパークで、男子生徒に「恐怖の館」なるお化け屋敷に誘われ、別にいいけど、と付き合った。予想外に出来の良い作りに、男の子は腰が引け、律儀に声を上げていたそばで、万理は、 「こんな作り物でよくもまぁ、そんなに怖がれるもんだね」 と、呆れて言い放った。それ以来その男子生徒は話しかけてこなくなった。自尊心を傷つけられたのだろう。それはそれで、せいせいした。 万理は立派な、現実主義者になっていった。短大を卒業した後、就職で実家を出た。一人暮らしも二年目ともなれば慣れたものだ。最近、今までの人生で三人目の、新しい彼氏もできた。 順調なOL生活を送っていると、自負していた。 それなのに……。 ついこの間までは、ただの石に文字が刻んであって、下にただ人骨が埋まっているだけの存在だった墓。今は、単純にそれだけではなくなってしまった。 「あいつのせいで。あの悪魔~」 万理は、ようやく墓地の敷地を抜け、広い駐車場の向こうに立つ建築物を見た。 白を基調にした三角屋根の可愛らしい建物。一見、教会のように見える。だが、十字架はその屋根の先端には無い。ペンションか大きめの喫茶店のようでもある。 駐車場をグルリと回って敷地の正面まで歩いた。巨大な庭石のような岩に、屋号が彫ってあった。 『セレモニーホール紫雲』 そう、ここは私営の葬儀会館だ。万理は手にした名刺を確認した。間違いなくここだ。 「なんであたし、こんなところに来てるんだろ」 脇に植えられている南天の赤い実を、指で弾いてみた。目を伏せて、そもそもの発端を思い出す。 そう、それは、ちょうど一週間前の土曜日のこと。 金曜の夜、いつものように万理のアパートに訪れて夜を明かし、土曜の早朝にそそくさと帰り支度をする平井陽一に、万理はベッドから出ず、不満げに尋ねた。 「どうしてそんなに急いで帰るわけ?」 陽一は、さっさと身支度をしながら、面倒臭そうに答えた。 「言ったろ。ウチ実家だから、親がうるさいんだって。朝んなっていないとぐちぐち説教くらうんだよ」 「ふうん」 二十四にもなって、親の顔色窺わなきゃいけないなんて大変だね。よっぽどの箱入り息子なんだね。 皮肉りたい気持ちを抑えて、布団から手だけを出して振った。 本当は、引き止めたい。腕を引っ張って、帰らないでって言いたい。 週末はいつも一人なんて、なんか、寒い。でも、きっとそんな風に言ったらウザがられそう。 「別に、いいけどね」 自分に言い聞かせるように一人ごちた。 一人になってみると、改めて殺風景な部屋だなと思う。暖色がない。飾り気も、愛想もない部屋だ。 男友達んちみたいで、気楽だよなと、陽一は言う。彼がいいならいいか、とも思う。 「寝よう」 毛布と羽根布団を被って、眠ることにした。ゆうべは寝かせてもらえなかったのだ。 ここんとこ体調が悪いから嫌だって言ったのに。 ――風邪だろ。汗かけば良くなるさ そう言って、半ば強引に押し切られた。案の定、最中に胸が痛くなった。最近の自覚症状。 胸、痛い、そう陽一に訴えても、面倒くさそうに、 ――運動不足だろ。心配なら医者行けよ と、返された。彼にとっては、欲情を削がれて気分が悪かったのだろう。 実際、痛みは唐突に引く。突然やってきて、突然去っていく。 一人で布団にくるまっていたら、何も考えられなくなった。万理はことん、と眠りに落ちた。 目が覚めると昼近くになっていて、万理は空腹に急かされベッドを這い出た。 冷蔵庫は空に近い。外出着を身につけ、軽く化粧をして表へ出た。天気は良かった。陽に当たりながら食べるのもいい。 最近開店したばかりのデリでローストビーフのサンドイッチとコーヒーを買って、公園で食べることにした。ベンチにすわって膝の上にショールを広げ、サンドイッチのパックのフタを開けた。 ふと、視線を感じて顔を上げた。万理の正面に立っていたのは、 「……神父?」 それとも牧師か? 万理には区別はつかない。だがそれは見間違いだった。その男は肩を覆うケープのついた、マントのような黒いコートを着ていただけなのだ。インパネスと言ったか。もちろん黒いハットは被っていないし、十字架などどこにも身につけてはいない。濡れたようなウエーブのかかった髪。黒くて小さい丸メガネ。青白い頬はこけていて、万理は磔のキリスト像を連想した。それで、神父なんて言葉が出てきたのだろう。聖職者にしては陰気な雰囲気だが。 男は、険しい顔つきでこちらに歩いてきた。そして右手の人差し指をビシリと万理の左胸の前に突きつけた。 「死にますよ、あなた」 闇を思わせる黒い声だった。 膝の上のサンドイッチが地面に落ちた。 万理は、見えない誰かにつかまれたように動けない。男も指を突きつけたままの姿勢で微動だにしない。 「あ……」 万理は懸命に金縛りを解こうと、声を出した。男の指が下ろされた。 「あーっ! あたしのサンドイッチー! なんですかあなた、いきなり」 解放された万理の口から出たのは、食べ物のことだった。 男は、呆れたように片方の眉を上げた。 「私が言った事……、聞いてました?」 「だからなんなんですかっ。失礼じゃないですか。いきなり死ぬとか脅して。宗教なら間に合ってます神父さん。それとも、牧師さん?」 万理は未練がましく土のついたサンドイッチを拾って眺め、そばのゴミ箱に放った。 「私は神父でも牧師でもありません。そもそも、神父と牧師は違います。神父はカトリックの聖職者であり、牧師はプロテスタント信者の教職者です」 「そんなことはどうでもいいわよ。誰が死ぬって? あなた医者?」 「医者でもありません。ただ、見えるんですよ。あなた……」 男は、万理の耳に顔を寄せた。 「タチの悪いモノが憑いています。放っておけばあなたは取り殺されます」 万理は、唇を引き結んで男を見返した。悪質な霊感商法ってヤツにちがいない。 「タチの悪いのはあなたでしょう? そうやって弱ってる人たちを脅して騙して財産巻き上げてるんでしょ。最低ね。おあいにくさま、あたしはそういうの全っ然信じないから」 「どうしたの? ハイネ」 少しハスキーで、それでいて甘さを含んだ声が聞こえた。そちらへ顔を向けると、白いダウンジャケットの下に黒いスーツを着込んだ小柄な人物が、小走りで近寄ってきた。 わぁ……、と、万理は思わず声を上げそうになった。 美人だ。麗人だ。 ボーイッシュなショートヘア。茶色の髪が、冬の陽に透けて、大きな目が潤んでいて、頬は薔薇色で、唇は花びらのようで……、ああ、こんな美人見た事ない。 見とれる万理を尻目に、黒メガネの男は、美人さんに耳打ちした。 その人は、眉根を寄せ、ハイネと呼ばれた男を見返し、万理を見た。 「そう……。それはいけないね」 そう言って万理の前にかがんで、顔の高さを合わせた。 「あのね、落ち着いて聞いてくれる? ボク達は怪しいものじゃないんだ」 ボク? ボクタチ? あなた男なんですか? 考えたことが口に出たらしく、うるわしい人は照れくさそうに笑った。花がほころぶようだった。 「うん。よく間違われるけどね」 そういえば、スーツの襟が右前だ。男だ。万理は、複雑な気分だった。 うう。あたしより十倍きれい……。 男に見えない男は万理の手を取って続けた。 「悪徳商法でもないから安心して。ただ、君が心配なだけ。話を聞いてくれるかな」 暖かい手。なんだか安心する。手のひらから、気持ちの良い熱が流れ込んでくるようだ。 それに……。 あうう。こんな美人……、もとい美男……、ちょっと違和感ある言い方だけど。に、潤んだ瞳で見つめられて、切実に訴えかけられて、心動かされない人間がいるだろうか、いや、いまい。 ちょっとくらい、騙されてもいいかも……。万理はカクカクと頭を上下した。 ハイネが、肩をすくめた。 「まったく、のんきに食べ物の心配してる場合じゃないんですよ。あなた」 万理は、きっ、とハイネを睨んだ。人間は空腹時には気が立ち易いのだ。 「だって、今朝から何も食べてないんだもの。弁償してよ、サンドイッチ」 ハイネは、ため息をついて、いいでしょう。なんでもご馳走しましょう、と言った。 「そのかわり、ちゃんと私の話を聞いてくださいね」 三人で連れ立って近くのファミレスに行った。 「怒ったらよけいお腹すいた」 そう言って、万理はカツカレー大盛りを注文した。 「そんな小さな身体のどこに入るんだか」 ハイネは呆れているようだ。 二人の男は、それぞれ名刺を万理に差し出した。 『セレモニーホール紫雲』と会社名が入っていた。セレモニー……葬儀社か。 どうりで、防寒着を脱いだ二人とも、黒いスーツに黒いネクタイなわけだ。 陰気な痩せた黒眼鏡が、灰根健。女と見まごう美形が、川瀬一流。 「ハイネケン、カワセイチル……」 万理がフリガナを読み上げた。灰根が片頬を引き上げた。 「初対面なんだから、さん、くらいはつけていただきたいですね」 「まぁ、そうカリカリしないでハイネ。で、君の名前を教えてくれる?」 万理はしぶしぶ名乗った。 「で、タチの悪いモノって、なんですか? ハイネ! ……さん」 「助けてさし上げようと言っているんですがね。悪いモノは悪いモノです。念です」 「念?」 「もっとはっきり言えば、生霊です。ちなみに女性です」 万理は、お冷のコップを持ったまま固まった。 「いき……りょぉ……?」 生霊ってのは、あれですか? つまり、生きている人間の霊ですよね? 「私には見えるんです。あなたの左胸が、このままではいずれ血に染まる」 心臓がドキンと跳ねた。原因不明の症状……。 万理は頭をひとつ振って、灰根に食ってかかった。 「あたしが、誰かの恨みを買ってるとでもおっしゃる? お言葉ですけど、そんな後ろめたい生活送ってませんが?」 「恨みなんてものは、本人が気付かないうちに持たれているものですよ。まぁ、あなたの場合、強い守護霊が付いていて、必死にかばってくれてますけど、それも限界が近い」 「しゅ……守護霊ですかぁっ?」 うっさんくさぁ。万理はじっとりと灰根を見た。 目の前にカツカレーがごとりと置かれた。ウェイトレスが、怪しげむような目つきで万理を見ている。 あ、あたし違う。この人、この人たち。怪しいのは。 目で必死に訴えかけたが、ウェイトレスは、足早にその場を去った。逃げるように。 万理は、苦い気分で、早速スプーンを握り締めた。 「へ、へえぇぇぇ~。じゃ、あたしの守護霊ってのは、どんな人なんですかね? ちなみに」 川瀬の前には、デラックスチョコレートパフェが、灰根の前には、アイスミルクが置かれている。 「小柄な老婆です。心配そうにあなたを見てますよ。私は声までは聞こえませんから判りませんが、あなたの実のおばあさまでは? 丸顔で眉間に大きな生きボクロがありますが」 灰根がそう言って、ストローも使わず、アイスミルクのグラスを傾けた。万理は絶句した。 特徴から言えば、そう、万理を可愛がってくれた祖母そのままだ。 「う、うそだぁ……。はは、あは、はは……」 人間本当に信じられない事態に会うと、声が出ないか卑屈に笑うものなのだなぁと万理は思った。ちょっと失礼、そう言って万理は目の前のカレーをかき込み始めた。 食べなきゃ、食べて栄養つけて、気力出さなきゃ。負けちゃだめだあたし。信じちゃだめだあたし。 灰根は、冷たい目線を万理に向けている。 「ま、それだけ食欲が旺盛なら、まだしばらく大丈夫かもしれませんけどね」 おおかたカレーを平らげたところで、万理は、改めて灰根を見た。 「で? あたしにどうしろと?」 「このまま我々について来て下さい。上の者と相談して、それなりの対処をします。早い方がいい、あなたに憑いているのは、その生霊だけじゃないんですよ」 冗談じゃない。このままマンションの一室かどこかに監禁されて、洗脳されて、人生台無しにされるかも。万理は皿の残りを残らず片付けた。 「ごちそうさまぁ~、面白かったわ。じゃ、あたしはこれで」 片手をぴし、と上げ、荷物を持って立ち上がった。灰根は口元をひん曲げて、ふー、とため息を吐いた。川瀬が、待って、と万理の動きを止めた。胸ポケットから何かを取り出し、差し出した。 五角形に折られた白い和紙の包み。万理は、川瀬の目を見返す。 「これは……?」 「あら塩。このまま持っていてもいいし、水に溶かして飲んでもいい。身体にかけてもいいよ。少しは霊障が防げるかもしれないからね」 真剣な目だ。 「川瀬さんも……、灰根さんと同じ意見なんですか?」 「ボクは見えない。けど、ハイネがそう言うなら、まず間違いないと思う」 ずいぶんと信用されたものだなハイネ。どうやって丸め込んだ? ああ? 万理は包みを受け取った。 「もし、困ったことがあったら、名刺の携帯番号に電話してね」 「はぁ……」 まずそんなことにはならないだろうけど。川瀬さんに二度と会えないのは残念かな。まぁ、さよならだけが人生だ。万理は、二人を置いて、店を出た。 週の真ん中水曜日。いつものように、会社のオフィスでパソコンに向かって、会議資料の作成をしていると、やけにまた胸がキリキリと痛み出した。 「あ痛たたた……」 心臓のあたりに手を当て、擦る。 「何? 肋間神経痛?」 派手な赤いセーターを着た、先輩社員の今田千鶴子が、万理の顔を覗き込んだ。万理より四つ年上だが、気の置けない同僚だ。万理は、心配をかけまいと、冗談めかして答えた。 「持病のシャクが……」 千鶴子は首を捻って肩をすくめた。 「あんたって、言動がいちいち昔臭いよね。時代劇マニア?」 「おばあちゃんっ子ですもんで」 「地味だもんねぇ」 「先輩はいつも派手ですよね」 今日の万理は、グレーのスーツを着ている。つい、黒だとかダークブラウンだとか、年寄り臭い色の服装をしてしまうのは、祖母の影響だろうか。 「いたた……。心臓も年寄りなのかな」 「最近、よく痛がってるよね。大丈夫?」 「やっぱストレス……なのかなぁ。確かに最近ちょっと社内の風当たりキツいけど」 女子社員にも派閥がある。このフロアの中で、大きく二派に分かれていた。実に面倒な話だ。万理は、争いごとが苦手なのでどちらの派にも入らないでいたら、なんだか最近どちらからも無視やキツイ言葉遣いなどの仕打ちをされるようになった。今朝など、出勤してきて席に着いたら、ディスプレイの中央に『コウモリ女』と書かれた付箋が貼り付けてあった。呆れた。 ……イソップ童話ですか! 誰がやったかはまったくわからない。そんなことはどうでもいい。だが、仕事に支障が出るのは勘弁していただきたいものだ。 最近では、仕事以外の会話が出来るのは、千鶴子だけになってしまった。彼女もはぐれコウモリの一羽だ。 痛みが急に治まった。 「あ、もう大丈夫痛くない」 「医者行きなよ。放っとくとこわいよ?」 万理は、おっくうだなー、とつぶやいた。基本的に面倒くさがりなのだ。 風向きを変えようと千鶴子に向き直った。 「で? 何か面白い話題でも?」 千鶴子の部署はフロアーの中でも離れている。直接仕事での関わりはあまり無い。わざわざ万理のそばまで来る時は、千鶴子は世間話をしに来るのだ。 「特に収穫はないんだけどさ。どう? 平井くんとは?」 千鶴子は、にやりと探るように訊いた。 そう。陽一とは、千鶴子がセッティングしたコンパで知り合ったのだ。週に一度、金曜日に繁華街でのデートを重ね、四回目に会った日、部屋に行きたいという陽一に同意した。それが三ヶ月前のこと。 「どう……って、どうなんだろ。自宅だからって、クリスマスも正月も会えなかったし、土日も一緒にいないし。これって上手くいってるんでしょうかねぇ……。家にもよんでくれないし」 「なにそれ、ひどー。二股かけられてんじゃないの。あたし連絡とってみるよ、男がわの幹事に」 「そんなぁ、それはないでしょう。なんか家が厳しいみたいだし。仕事、忙しそうだし」 そう言いながら、万理はふと、思いいたる。 そっかぁ……。もう、三ヶ月経ったんだ。 初めてお付き合いした人は、大学時代の教授だった。そして不倫だった。向こうが早々に身を引いた。あれはちょっと堪えたなぁとしみじみ思い出す。二人目は社内恋愛だったが、これも付き合って二ヶ月目くらいに海外出張で日本を離れ、自然消滅。 考えてみれば、三ヶ月って最高記録なんだぁ。へぇー、と自分でも感心した。 結構このまま淡々と続く仲なのかもしれないなぁ、そんな事を思いながら、パソコンに向かう。 例の付箋は、捨てずにディスプレイの縁に貼り付けておいた。堪えていないよという意思表示に。 大丈夫だよ、おばあちゃん。心配いらない。 そう、心の中でつぶやく。そういえば……、守護霊。 ――丸顔で眉間に大きな生きボクロが…… 偶然にしては、的確な答えだ。本当に見えていたのだろうか。 まさか。では、こういうのはどうだろう。彼は実は遠い親戚で、幼い頃に会ったあたしをお嫁さんにしたいと思いストーキング行為を……。無いな。 まぁいい。もう会うことはないだろう。この胸の痛みはきっと先輩の言うとおりストレスからくる神経痛だろう。そうに違いないそう決めた。 その夜、陽一から携帯にメッセージがあった。水曜の夜には必ず送られてくるのだ。 『いつもどおり、金曜空けといてくれよ。部屋行くから』 わかった。待ってる。そう返信して、ふふ、と一人で笑い、金曜、夕食何作ろうかなぁと思い巡らせる。料理は決して得意ではないし、普段はあまり自炊をしないが、陽一のおとずれる金曜だけは、特別だ。前日から本や雑誌を見ながらじっくり検討するのが楽しい。 明日の木曜日は、会社から戻ってきたら、部屋の掃除もしなくては。普段はとても他人に見せられる状態ではない。 「よぉし! 明日は、頑張って定時退社だ」 仕事に備えて、早めにベッドに入った。 そして、夢を見た。悪夢だった。 抱き合う陽一の顔が見知らぬ女になった。その表情が見る見るうちに憎悪と殺意で醜く歪んだ。その手に握られたナイフを大きく振り上げ、万理の左胸に突き立てた。 激痛に悲鳴を上げて飛び起きると、とたんに携帯が短く鳴った。メッセ―ジを知らせる着信音。 画面を見て凍りついた。そこには、 『死ね』 とだけ書かれてあった。送り主は、陽一になっていた。 「なに、これ……」 女性の生霊。たしかそう言わなかったか? ハイネは。 まてまて、霊は携帯でメッセージを打てないだろう。ていうか、いない、いない。生霊なんてそんなもの。あれは詐欺! 「じゃぁ、このメッセージはいったい誰が……」 陽一のアドレスなのだ。だが、陽一が送ったとは考えにくい。仮に万理を嫌いになって、別れたいと思ったら、連絡を一切絶って自然消滅をはかるタイプだと思う。 たった今、陽一の携帯を手に取れる場所にいる人物が、彼の目を盗んで……。 万理は布団に潜り込んだ。自分を抱くように丸くなった。 そのまま朝まで眠れなかった。 金曜日の夜。 『今、駅だから』 いつものように、電車を降りた時点で一旦連絡を入れ、15分後に陽一は部屋に現れた。 「ひぇー、疲れた疲れた。晩メシ何? ……なんだこれ」 散らかり放題の部屋の真ん中に、万理はぺたんと座っていた。 万理は、力無い目で陽一を見返して、今日はピザ取ろう、と言った。掃除をする気力も、食事の支度をする元気も無かったのだ。 「ええー? 万理のメシ、結構楽しみにしてんだぜ毎週」 不満げな陽一に、無言で例の携帯メッセージを見せた。 「……なんだよこれ……?」 陽一の顔がザッと青ざめた。 「あたしが聞きたい。誰これ。怒んないから言ってみ。二股してんの?」 陽一は知らないと言い張った。弟がいたずらでやったんだきっと、そう言い、慌ててそのメッセージを勝手に削除した。 嘘かもしれない。本当かもしれない。 追求するのはやめた。問いただせば、今日、二人は終わってしまうかもしれない。 そう、終わりにはしたくない。先に意思表明したのは向こうだけど、自分だって、この人が良い、と思って承諾したのだ。 「アイツ。シメとくよ。しょうがねえなぁ」 そう言って、陽一は、万理を抱きしめる。髪を撫でる。 この手がなければ生きていけないわけではないけれど、いずれ終わるのならもう少し……、もう少しだけでもこの温もりを手放したくない。 宅配ピザを取り、ワインを開けて、TVを見ながら、たあいない会話で笑い合う。 陽一の顔を改めてじっと見つめた。 少し垂れ気味の目尻と、泣きボクロがかわいいと思う。ちょっと自分勝手でわがままだけど、それは自分に気を許している証拠だろう。 陽一が、耳元で優しく囁く。 「万理……、オレ、万理が好きだよ」 万理の口元がほころぶ。あたしも、と言おうとした瞬間、 「あっ!」 その唇が歪んだ。左胸を押さえ、痙攣するように身を縮めた。 「まり? 万理! どした?」 「いいいいい痛いい!」 こ、これはちょっとヤバいかも。 いつもより五割増しの激痛が襲ってきた。 万理は、足をバタつかせてもがいた。奥歯を噛み締めて、陽一にしがみつき、胸に額を押し付けた。陽一は、おろおろと万理の背を擦った。 「きゅ、救急車……?」 「待って……! いい。こうしてれば治まる。多分」 そう。この痛みは長くは続かない。耐えていればいつか終わる。 しばらくじたばたともがいて、痛みはふっと、突然治まった。ぜいぜいと息を切らし脂汗を手の甲で拭った。 「万理……、あした」 万理は、陽一の言葉を遮った。 「お医者さん行く。明日一番で」 これは病気だ、絶対。特に幼いころから心臓疾患があったわけではないが、きっと成人してから弱ることもあるのだ。 陽一は、万理の背を擦り続けた。なぜか悔いるような面持ちで。 「明日は、ずっと一緒にいる。一緒に病院行くよ」 嬉しい、と万理は微笑んだ。みぞおちのあたりが、ほわんと暖かくなった気がした。 それでも、陽一を帰した方がいい。なぜかそう思った。帰したくはない。そばにいて欲しい。でも、ダメ。誰かがそう警告しているような気がした。 「ありがと。でも大丈夫。帰って。一人で行ける」 明け方。いつもの時間に陽一は、ふり返りふり返りしながら、部屋を出て行った。 日が昇り、万理は近所の個人病院へ行って診察を受けた。 心電図を撮り、エコー検査をし、レントゲンを撮り、血液も取り、問診もした。 「異常は見当たりませんが」 医者は軽く言った。 「でも痛むんです」 「多分ストレスでしょう」 こらぁ。医者が多分とか言うなぁ。それでもプロかこの藪医者! 雀医者! 竹の子医者! 土手医者! 内側で思いきり毒づきながら、万理は、そうですか、とうなだれた。 安くない現金を受付で払って、万理は病院を後にした。 ファーストフード店で、ポテトをつまみながら、ぼんやりとウィンドウの外を眺めた。 「ストレス……、ですか。あの紐医者」 そのこころは、引っかかったら確実に死ぬ。お後がよろしいようで。 ふざけてないで、初めから整理してみよう。 この心臓の痛みは、一ヶ月くらい前から始まって徐々にひどくなってきている。医者はストレスだろうと言った。ストレス……。さて、思い当たることと言えば、会社の人間関係くらいで、それはもう諦めてるから対して苦にはなってないと思う。そもそも、自分の場合、ストレスは心臓ではなく胃にくる。胃が痛くなったら生活改善。それを繰り返してきた。では、陽一? たしかに会える日が少ないのは不満だ。でも、週に一度は必ず来てくれる。ストレスというのとは違うだろう。 夢を思い出した。憎悪の塊の女。おぞましい顔だった。だが、夢は夢。潜在意識の現われであって、事実とは違うのだ。おそらく先輩が言った「二股」という単語が引っかかって、あんな夢を見たのだと思われる。 そう、決して誰かの思念が侵入してくることなどありえな……。 生霊。 あの女が、生霊なのだとしたら……。 「あははは……ははは。あはは……」 生霊っていやぁ、あれですね。六条の御息所ですかね。葵の上をとり殺した、アレですかね? 「そんな理不尽な」 ではまぁ、痛みの原因がストレスだと仮定してだな。 痛みは生霊云々と聞かされる前から……、陽一の二股疑惑が浮かび上がる前からのことだ。それはどう説明する? こういうのは、どうだろう。陽一の、普段何気ない言動や雰囲気から、無意識に多情の匂いを察知し、不安になった。感じる必要もない罪悪感が生まれ、それが育って誰かが自分を恨んでいると潜在意識で思い込み……。マイナスプラシーボ効果というやつだ。 「ん~?」 自分でも怪しくなってきた。 食べなきゃ。万理はフィッシュバーガーに噛り付いた。コーラで胃に流し込む。 いずれにせよ、何か手を打たねばなるまい。医者にスルーされてしまった今では、思い当たる先は……。万理は重い気分で、カバンからカード収納ケースを取り出した。 ずっと意識から遠ざけていたもの。そう、名刺だ。 『セレモニーホール紫雲』。灰根の顔を思い浮かべた。 ……うわ。黒い。黒いよ。 万理の中で彼はすでにいろいろと改造されて、まるで死神のようなイメージとなっていた。 「川瀬さんの方にしよ」 宗教画の天使のような、川瀬の花のかんばせを思い浮かべ、うんうんと頷いた。 個人別の携帯電話にかけてみた。コール三度で相手が出た。 潜めた声で、もしもしと返ってきた。万理が名乗ると、川瀬はちょっと待ってね、と言った。移動しているらしい。 『お待たせ。ごめんね、今、式の最中だから』 「式?」 そうだ。葬儀屋なのだ。葬式に決まっているではないか。 「すみません、かけなおします」 『大丈夫。外に出たから。どうしたの? あれから何かあったの?』 親身な川瀬の声は、万理を安心させた。なぜか目頭が熱くなった。 万理は、たどたどしく説明した。胸に刺すような痛みがあって、最近それが激しくなったこと。夢の内容とそのすぐ後に送られてきたメッセージ。医者で検査したこと。川瀬はうん、うん、と一つひとつ飲み込むように答えてくれた。 『あと二十分くらいで式は終わるから。その後でいいなら会館においで。相談しよ。ご遺族がいらっしゃると思うから、裏の従業員入り口から二階に上がって』 「わかりました」 『良かった。電話くれて。だめだよ。一人で抱えこんじゃ』 よろしくお願いします。そう言って、万理は携帯を切った。とたんに泣きたい気分になって戸惑った。改めて気がついた。 なんだ、結構まいってたんだ。あたし。笑える。 そうして、今、その葬儀会館の前に立っているのだ。
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