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「なんであたし、こんなところに来てるんだろ」
改めてつぶやいてみた。仕方がないのだ。他に術がない。
建物の裏側に回ってみると、鉄のドアがあった。鍵はかかっていなかった。
入るとすぐに二階に上がる階段があったので、万理は足音を立てないようにゆっくりと昇った。
左右に廊下が伸びている。目の前には、『社長室』と書かれた、重厚なドアがあった。そこから右2枚目のドアが開いていて、中から複数の話し声が聞こえてきた。プレートには『従業員控え室』と書いてあった。
そっと中を覗き込むと、いち早く川瀬が見つけてくれた。
「ああ、万理ちゃん、入っておいで」
にっこりと慈悲深い笑みを浮かべる川瀬に、吸い寄せられるように万理はふらふらと歩み入った。そこには、サングラスをかけた灰根と、もう一人別の男が座っていた。でかい。立ち上がれば、ゆうに190cmはあるだろう。そして、ガタイも良い。万理は、熊、とか壁、とか巨岩、という単語を連想した。川瀬がその巨人を手で示し、万理に向かって言った。
「紹介するね。山岐巌さん。山岐さん、彼女は藤田万理ちゃん」
「はじめまして」
万理が頭をぺこりと下げると、山岐は、太い鐘馗眉の下のギョロリとした目をこちらに向け、うん、とだけ頷いた。寡黙なタイプのようだった。40がらみと見た。
「あと、社長ともう一人は今、階下で仕事中だから。もうすぐ上がってくると思うけど。他のメンバーは今日は外に出てて」
川瀬はそう言って万理に椅子を勧めた。会議机をふたつ並べたテーブルを囲む形になった。香りの良い紅茶をもてなされ、万理はもう一度頭を下げた。川瀬が微笑んだ。
「あのね。みんなには説明しておいたから。さっきの電話のこと」
「ありがとうございます」
灰根が不機嫌そうに口を開いた。
「塩はまるで効果が無かったんですか」
「あ。」
忘れてた。カバンの内ポケットに入ったままだ。そう言うと、灰根はますます眉間にしわを寄せた。
「薬も飲まずに医者にケチつけるタイプですね、あなたは」
「ケチつけにきたわけじゃありません」
川瀬が割って入る。
「まぁまぁ、落ち着いてよ。これからのことを相談しよう?」
あのね、万理ちゃん、川瀬は続けた。
「生霊っていうのはね、ただ除霊すればいいわけじゃないんだよね。生きている人間が、魂削って飛ばしてるわけだから、本人に返してやらなきゃいけない。でも、ただ返すだけじゃこんどは本人が苦しむわけ。根本的な解決をはからなきゃね。相手が誰だか思い当たる?」
「わかりません」
「彼氏とかいる?」
「はい」
灰根の声が意地悪く割り込んだ。
「実は妻帯者ってことはないでしょうね」
「初めて会ったとき、確かめました。結婚してたりしませんよね? って」
一人目で懲りていたのだ。だから確かめた。
「そんなのしてないよ、って」
「じゃぁ、二股ですね、まちがいなく。ちなみにあなたが浮気相手で、霊の方が本命なんでしょう」
カツン、と頭の中で音がした。いちいち挑発的だ。万理は灰根を睨んだ。
「そんなこと、決め付けないで。彼は実家で、両親が厳しくて……」
「彼の言うことが本当か、確かめたことがありますか?」
「……ない……けど」
「先ずはそれを確認して。生霊の本体を探さねばなりません。それまでは体力つけて、精神力で対抗する。塩は有効だと思いますけど、使うのはこちらで用意したものだけにして下さい。間違っても食卓塩など使わないように。水も用意しましょうか」
「ま、待ってください。その前に確認させてください。これって料金はいくらくらい……? 松竹梅のコースがあったりするんですか。アフターサービスつきとか」
「ありませんよ。基本的には無料奉仕です。まぁ、水を取らせていただく神社かお寺に菓子折りくらいは持参したいですからそのくらいは負担してください」
タダ? ロハ? 無料? ボランティア? 信じられない。今時そんなうまい話があるものか。
万理は灰根を探るように見た。黒眼鏡がジャマをして、目が窺えない。
「どうしました? 信用できないようですね」
「そりゃぁ……」
「そんなふうに猜疑心が強いから、霊の溜まり場になるんです。自業自得ですよ」
猛烈に頭にきた。万理は眉を吊り上げて灰根に抗議した。
「そりゃ、疑いたくもなるわよ! うさん臭いわよ! 部屋の中で、しかも人と話をする時にサングラスかけたままの人の話なんて信じられる? はずすのが礼儀でしょっ」
しん、と部屋が静まり返った。灰根が片方の口角を上げた。
「……これは失礼。外すと人さまから気味悪がられるものでね」
黒眼鏡を取って、顔を上げた。くすんだ灰色の瞳。明らかに健常ではない。
万理は手を口に当てて息を飲んだ。駄目だ。出した言葉は元には戻せない。貧血のような目眩を覚えた。
「……ごめんなさい」
「視力は問題ないんです。ただ、かけてないと余計なモノが見えすぎるもんでね」
余計なモノ。見たくないモノ。自分を守るための防御盾だったのだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
万理は繰り返した。声が震えた。自分が傷つきたくないばかりに、無自覚に相手の弱い部分を攻撃した。最低だ、こんな自分は。
「もういいですよ。何度も謝られるのは返って屈辱だ」
灰根は眼鏡をかけ直し、喉の奥でくっ、と笑った。
重く気まずい空気が漂った。
そんな中。
唐突に、調子はずれで素っ頓狂な歌声が聞こえてきた。
かーんかーんのーう、きうれんすー♪ きゅうはきゅうれんすー♪
階段を上がりきった辺りからだ。川瀬がガタッと立ち上がり、なぜか懐からスリッパを取り出して、声のした方にダッシュした。
さんしょならえー♪さあいほ……
スパーン! と良い音がして歌が止んだ。
「やめなさいって言ってんでしょそれは!まだご遺族いらっしゃるんだから!」
川瀬の声が響いた。
スリッパを手に、プンプン怒りながら、川瀬が戻ってきた。
「踊らせようにも、もうご遺骨になってますから」
灰根が、楽しそうに廊下に向かって声を投げた。なんのことだか万理にはわからない。だが、おそらく不謹慎なことなのだろう。
「やだなー、いっちゃん。今、ご遺族は部屋だから聞こえないってばー」
万理は、声の方を見た。入り口に一人の男がひょろりと立っていた。全体的に細長い。そして軽い。存在が。年齢は三十前後といったところか。目が合った。
「あ、君が噂のOLさん?」
男は、万理を見て、細い目をキラキラと輝かせ、うおほぉー、と奇妙な声を上げた。
「こーりゃぁ……。いーねいーね。逸材だねー。いいアスマだー」
「あすま?」
「やー、こっちのことー」
ご機嫌だ。どうしてこんなに嬉しそうなのだろう。万理は、おそるおそる自己紹介した。
「はじめまして。藤田万理です」
「うんうん、話は聞いてるよー。あ、社長の柴田でーす。よろしくねー」
社長……? およそそうは見えない。貫禄というものが皆無だ。
柴田が手を差し出したので、万理は握手した。柴田はその手をギュッと握り締めて、
「じゃ、行こーか」と引っ張った。
「ど、どちらへ?」
「社長室ー。愛欲の坩堝ルーム」
「こらこらー。違うから。その子はただ相談にきてるだけだからっ」
川瀬が止めてくれた。柴田は、人差し指を自分の顎に当て、拗ねる。
「えー? だめなのー? だって手っ取り早いじゃん」
「駄目なのっ! まったく、油断もスキもないんだから」
「それにしても、まー……」
柴田は、万理の顔をまじまじと見ていた。居心地が悪くて、万理は首をすくめた。
なんなんだろう、この人は。なんだか確実に「違う」。何が違うか説明できないけれど、普通じゃない。灰根と同じく痩せて細長いが、全然違う。灰根が陰なら、柴田は圧倒的に陽だ。明るい気を放っている。撒き散らかしている。そんなイメージだ。
柴田は、万理の額に指を突きつけた。
「ハイネぇー、これ、見える?」
言われてハイネは眼鏡を外し、目をすがめて柴田の指先を見ていたが、
「いえ、私には」
と、首を振った。柴田は、そっかー、見えないかーと笑った。
「印だよー。赤いね。古い。生まれてすぐくらいに付けられたのかなー」
万理は、額に手をやった。自分の顔にそんなものはない。柴田だけに見えるというのか。
「しるし……? 何のですか」
「生け贄のしるし」
いけにえ? 万理は頭に霞がかかったように思考がはっきりしない。
「魔に捧げられる供物の印」
柴田の声が、妖しく響く。
「魅入られたんだよ。君は」
万理は頭を振る。柴田は笑っている。
「だから寄ってくる。いろんなモノが。君は器なんだ」
いろんな……モノ? 器?
「いずれその魂は何者かに貪られ、肉体は取って変られる」
これは夢だ。悪い夢だ。
万理は、椅子の上に崩れた。そんな……、力ない声が発せられた。
「そんな、わけの分からないこと……。いいかげんにしてください。生霊だとか、生け贄だとか、そんなオカルトじみたこと……」
柴田は、眉尻を下げて、万理の頭を撫でた。まるで子供にするように。
「そっかー。自覚ないかー。そうだよねー。信じられないよねー。突然そんなこと言われてもー。ハイネぇー?」
「はい」
「見せたげてー。この子に」
「は……、いや、しかし……」
「やっぱ真実は知っておかないとねー」
柴田は、やはり飄々と言い、それでいて強い視線を万理に向けた。
灰根が硬い表情で、手招きした。万理はふらふらと立ち上がってそちらへ向かった。
怖い。何を見せるというのか。でも、真実だと言うのなら、確かめたい。
灰根は部屋の隅にある姿見の覆いを捲り、その前に万理を立たせた。従業員が服装をチェックするための鏡だろう。ごく普通のものだ。
「深呼吸して。心を落ち着けて」
灰根の声はやはり硬い。万理は言われたとおりにした。
灰根が後ろに立ち、片手を回して万理の額に置いた。もう片手を胴に回し、固定するように力を込めた。
「ちょっ……、何を」
「静かに。鏡を見なさい」
その声の静かな迫力に押され、万理は鏡を見た。見えてきた。少しずつ。自分の背後に……。
「ひっ……!」
無数の顔が。知らない他人の顔、顔、顔。そして、人でないモノ。獣や正体のわからないモノまで。
「これが全部、あなたに憑いているものです」
灰根の平坦な声が遠くに聞こえた。そしてそのまま、意識は闇の中に沈んだ。
読経の声が聞こえる。人々のざわめきが聞こえる。ここはどこだろう。私は死んだのだろうか。これは、私の葬儀なのだろうか。だめだ。何も見えない。真っ暗だ。ああ、棺の中に横たわっているのだ。この後、どうなるのだろう。そうだ。霊柩車に乗せられて、火葬場へ行くのだ。そして焼かれる。火葬炉で。三昧の炎で焼かれれば、徳も業も燃え尽きて無くなる。何も残らない。それはとても幸せなことなんだよ、祖母がそう言っていた……。
「ちょっと待ったぁーっ!」
いや、まだ早いからっ! あたし生きてるからっ! やめて止めてやめて止めて! まだこの世にざくざく未練ありますから。連れてかないでぇーっ!
自分の声で目が覚めた。暗い。本当に読経の声が聞こえてくる。
がんがん痛む頭を振って、そっと立ち上がる。空中に手をさまよわせると、電気の紐らしきものが当たったので引いた。
「うわっ! まぶしっ」
顔をしかめて辺りを見れば、四畳半ほどの部屋だった。布団に寝かされていたらしい。部屋は独身者のアパートのように、TVや本棚、小机がある。
万理は理解した。まだ葬儀会館なのだ。ここは、従業員が夜勤で泊まる部屋なのだろう。
だから階下から読経が聞こえる。夜だから通夜なのだろう。深いため息をついた。今見たのは夢だ。だが、あれは夢じゃない。鏡の中で蠢いていた無数の存在。
そして、右肩のすぐ後ろにいたのは、祖母だ。見てしまった。もう否定できない。
何が三昧の炎だ。何も残らないだ。しっかり孫が心配で居残ってるじゃないか。
「おばあちゃん」
心配しなくていいよって言ったのに。あたし、ちゃんと強くなったじゃない。孫離れできないんだから。万理は右肩を握った。泣いてはいけない。祖母の前で。
守ってくれていたのだ、ずっと、あの怖いモノたちから。
読経が止んで、人々のざわめきが大きくなり、まもなく静かになった。
万理は、ずっとその間、布団の上で正座していた。すぐそばにあの怖いモノたちの息遣いが聞こえるようで、今すぐ走って逃げたかったが、ぐっとこらえた。
どこに逃げれば良いというのか。どうにかする手があるとしたら、どうにかしてくれる誰かがいるとしたら、ここだ。この建物の中にいる。だから、耐えた。
引き戸がノックされた。はい、と答えて、万理は急いで戸を開けた。
化粧っけのない、少し大柄な女性が、笑顔で立っていた。黒いパンツスーツ。従業員だろう。
「気がついたかい。良かった良かった。まだ休んでおいで」
万理を布団へと促し、女性はバインダーを片手に部屋に入ってきた。万理は深々と礼をした。
「あたし、気を失っちゃったんですね。すみません。……重かったでしょうに」
「ああ、嬢ちゃんを運んだのは山岐くんだから大丈夫だよ。子供みたいにひょいと担いでた」
あの、見越し入道みたいな人か。良かった。ハイネだったら後で嫌味を言われそうだ。
「あの……、失礼ですが」
「アタシは海野。海野美雨。さっそくだけどね、ここに名前と生年月日、電話番号と現住所書いてね。あと生まれた場所の住所も」
万理は、差し出されたバインダーを受け取った。
「生まれた場所? 何故ですか?」
「何か参考になるかも知れないだろ? アンタの災難の種が何なのか」
額に刻まれた、赤い印。
「海野さんにも、見えますか」
万理は、自分の額を指差した。海野は、んにゃ、と首を振った。
「アタシは、そういう特別な力? みたいなのはないね。できることっていやぁ、社長の尻を叩くくらいさ」
ははは、と豪快に笑った。凛々しくてたくましい。山岐より、少し上くらいか。「くん」付けで呼んでいたし。
「あの……、聞いていいですか。ここは葬儀社なんですよね」
「そうだねぇ」
「あの方達は何者なんですか。どうしてその、あたしみたいな見知らぬ者を助けてくれようとするんでしょう」
「嬢ちゃんは、道に迷って困っている人がいたら、助けてあげようと思わないかい?」
「え? そりゃあ知っている場所なら教えます」
「それと同じだよ。あたりまえの事だよ」
分かったような、分からないような……。
「宗教団体とかじゃないんですよね」
「そういうのとはちょっと違う……。まぁ、天の配剤、とでもいうのかねぇ」
記入したバインダーを返す。海野は、目を細めた。
「万のことわり……。いい名前だねぇ」
「そ、そうですか」
「若いねぇ。これからだわ」
「はぁ……」
そういえば、生年月日って必要だったのだろうか? いらなくないか?
まぁ、相手を知るという意味では、あった方が確実か。
「ふんふん。O県」
生まれた場所だ。災難の種……?
「何かご存知ですか?」
「んにゃ。桃太郎くらいかねぇ」
ですよねぇ、と万理はうなだれた。
出入り口から、川瀬がひょいと顔を出した。
「万理ちゃん、気がついたんだ。良かったね。ハイネに車で送らせるから」
はい、と答えて万理は立ち上がった。だが、気は重かった。
灰根のそばに寄るのが怖い。あの手に触れられて、見てしまったのだ。あれを。
上ってきた階段を降りてドアを開けると、横腹に社名の書かれた社用車の前に、灰根が立っていた。サングラスを黒から薄いグレーに替えていた。周囲の明るさに合わせて選ぶのだろう。
「早くしてください。住所は?」
万理は、灰根を見ないように、アパートの場所を答え、後部座席のドアを開けて座った。車は夜に走り出る。
万理は、うつむいたまま、
「お世話をおかけします」
と殊勝に言った。まったくです、という答えが返って来て、むっ、と口元を曲げた。
「だったらそもそも声をかけなければ良かったでしょ」
そうすれば、見なくてもよいものを見せられることもなかったのだ。
「見殺しにするのは、寝覚めが悪いですからね」
「……あたし、死ぬの?」
「人はいずれ死にます。一人の例外も無く」
「そういう意味じゃなくてっ! 胸が血で染まるって……。あなたは先のことが分かるの? 予知能力があるの?」
「未来のことなど私には分かりませんよ。一秒でも先のことはね。ただ、そうしたいと思っている人間がいる。それが判るというだけのことです」
信号待ちで止まる。車内は静まり返った。
メールの着信音が鳴った。万理はそっとスマホを覗いた。千鶴子からだ。文面がやたらと乱れている。エクスクラメーションマークがいっぱいだった。憤慨しているようだ。
『あっちの幹事に連絡取れたよっ! 信じられない! 知ってて黙ってるなんて! あんたのカレシってば……』
画面に映し出された文字が歪んで見えた。
「……そんなぁ……」
小さく声を上げた。灰根がルームミラーを覗き込んだ。
「どうしました?」
万理の声が震えた。
「陽一は……、彼は別の女性と同棲して……いると。もう三年も」
灰根はふん、と鼻先で笑った。
「予想通りの展開じゃありませんか。何今さらショック受けてるんです。あなたは覚悟が足りなさ過ぎる」
言い返す気力が、万理には無かった。なんとなく予想はしていたことだ。ただ、改めて事実を目の当たりにし、力が抜けた。それだけだ。ただ――。
「かなしいなぁ……」
つい、そう口を突いて出てしまった。
タダ、カナシイ。ソレダケ。
灰根は、苛ついた声を上げた。
「なにのん気に悲しんでるんですか。すぐ相手の所在を確認して。あ、勝手に会いに行ってはいけませんよ。準備がありますから」
「なによっ! 失恋したんだから少しくらいブルーになったっていいじゃない。わかりましたよ、ふん!」
危なかった。もう少しで泣くところだった。もしハイネが気を利かせて黙り込んだりしていたら、もう確実に泣いてた。この男が冷血漢で良かった。
万理は、千鶴子に依頼の返信を打った。どうせ陽一に問い正したって、ごまかされるか逆ギレされるに決まっている。回りくどいけど、この方が確実だ。
怒涛のハイスピード入力の後、送信を押した。ふー、と息を吐いた。
「今、失恋って、言いました、ね?」
灰根は一言ひとことを区切って念を押した。
「言いましたが何か?」
「奪い取ってやろうとか、自分こそが本命なのだとは思わなかったわけですね?」
「……だって、三年も一緒に暮らしてる人……だし」
「彼にとっては、あなたが本命になるべき新しい恋人なのだ、とは思わないわけですね」
陽一の気持ち……? そう、彼の気持はどっちなのだろう。同棲している彼女と、万理とではどっちが大切なのだろう。気持ちの上ではもう終わっているとか、そういう事もあり得るのだ。それを初めから投げていた。
「そんなこと……言ったって」
「あなたって人はよくわかりませんね。無神経で傲慢な言動をすると思えば、時に一気に自信を無くして折れてしまう」
「無神経で傲慢なのは、お互い様でしょ」
「おや、自覚はあるわけですね。なるほど、わかってきました」
「わかったって何が?」
「いえ、こちらのことです」
灰根は、薄く笑って、ハンドルを切り、交差点を右折した。
万理は、ひどく居心地の悪さを感じて、身体を左右に揺すった。
何それ。わかってきた、って、妙な言い方。不愉快だ。
頭の中を、いや、胸の内をのぞかれたみたいでなんか嫌だ。
「アパートはこの辺りですね。指示してください」
灰根の声に、万理は顔を上げた。
「あ、もうこの辺りで……」
「駄目です。きちんとアパートの前まで送らせてください」
夜道は危ない、とでもいうことだろうか。確かにこの辺りは住宅街で薄暗い。
自分の住んでいる場所を、よく知らない人間に知られるのは気持ちの良いものではないが、どうせ住所も電話番号も控えられているのだ。万理は細かく指示を出した。
社用車は、アパートの前で止まった。
「古い木造アパートですね。火事でも起きればあっと言う間に全焼だ。気をつけてくださいよ」
悪かったわねっ、そう言い返して、万理は後部座席のドアを押し開けた。お待ちなさい、と灰根に呼び止められた。
「明日の予定は?」
「明日?」
明日は日曜だ。特に予定はない。そう伝えた。
「では、朝5時に迎えに来ます。出かける準備をしておいてください」
「はぁっ? 5時ぃ? そんな朝早くから何するの?」
「水を汲みに行きます。清い水をね。ご心配なく。容器はこちらで用意しておきます」
そういえば、水がなんだとか言ってたな。それにしても5時なんて起きられるだろうか。
「やっぱり、あたしが行かなきゃダメなのよね」
「当たり前じゃないですか、あなた何様ですか」
万理はしぶしぶ了解した。もう一つ、と背後から声をかけられた。
「これからしばらくの間は辛くても泣いちゃ駄目ですよ。気をしっかり持ちなさい」
「しばらく……?」
謎の言葉を残して、灰根は車を発進させた。万理は取り残されたような心細さで、立ちすくんだ。
部屋へ戻って一人きりになると、不安が襲ってきた。後ろから誰かに見られているような気がする。いや、いるのだ。無数に。あれは……、なんなのだろう。
――気をしっかり持ちなさい
うん、万理はうなずいた。見えないものは、いないのと一緒。そう自分に言い聞かせた。
「さぁってとー。おなかが空いたなぁ。なんか食べよっかなぁー」
わざと大声で独り言を言った。とたんに携帯が鳴って、ビクッと飛び上がった。
陽一専用の着信音だ。メッセージじゃない。一瞬ためらったが、深呼吸をして通話ボタンを押す。慎重にもしもしと答えた。
『万理。大丈夫か? 病院行ったか』
声色は優しい。万理は、唇を噛み締めた。千鶴子からのメッセージが、間違いであったらいいのに。
「うん、なんでもないって。ストレスでしょうって」
『そっか。良かったぁ。心配したんだ。ホントに』
嘘には聞こえない。心配してくれたんだ、本当に。
「陽一。あたしのこと好き?」
『なんだよ急に。好きだよ、決まってんだろ』
「あたしも好き。今すぐ会いたい」
そばにいたい。いてほしい。
『……今は無理だよ。また来週な』
「どうして無理なの?」
『なんだよ。珍しいな、そんなに会いたがるなんて。さみしいのか?』
珍しくなんかない。本当はいつでも会いたかった。口に出さなかっただけ。
今、どこにいるの? 近くに彼女がいるの? そう言ったらなんて答えるだろう。
じゃぁ、またメッセする。そう言って、陽一は電話を切った。
ツー、ツー、という音を聞きながら、万理は自嘲気味に笑った。
ハイネには、失恋した、なんて言ったくせに、まだ終わった気にはなってないんだ。どこかで期待してるんだ。自分の方を選んでくれるって。
鼻の奥がつんとして、このまま丸まって泣きたい気分だった。灰根の声が蘇ってきた。
――これからしばらくの間は辛くても泣いちゃ駄目ですよ
これからしばらくは……。つまりハイネはこういう展開を予測していたのだろうか。
泣かないよーだ。あたしは泣き虫じゃないからね。
その場に居ない灰根に言い返し、ふん、と力をこめて拳を作った。
「平気平気ー! そうだ、体操しよう体操っ。第二までっ。いいかっ。ラジオ体操は、世界最強の格闘技だっ!!」
平気ではないようだった。
携帯の着信音で起こされた。
「ううぅ~~~~~」
唸りながらしつこく鳴る電話を手にとり見ると、登録していない番号だった。
切ったろか。間違い電話かもしれないし。今何時?
午前5時10分っ! 信じられない。こんな時間に電話かけてくるなんて、なんつー非常識な。……あれ?
朦朧とする頭で、懸命に考えた。何か大切なことを忘れている。この電話は出なければならないような気がする。着信を押した。
「……………………………………………………はい」
『お目覚めですか? お嬢様』
「……………………………………………………だれ」
『いい態度ですね。カーテンを開けて外を見てごらんなさい』
のそのそとベッドから這い出して、電気をつけて窓際に立ち、カーテンを、当たり散らすように、力任せに引っぱった。
「……………………………………………………あ。」
『おはよう』
「……………………あああぁーーーーーーーっ!!」
窓の向こうに見えたのは、携帯片手に、ハイエースワゴンに寄りかかっている灰根の黒い姿だった。街灯に照らし出され、いつぞや見た二重回しのコートを着て、歯を剥き出して笑っている。いや、あの眼鏡の下の目はきっと笑っていない。うそ寒い光景だ。
『ずいぶんと色っぽい夜着ですね』
言われて己を見る。灰色のスウェット上下。しまむ〇価格、998円。
しまった。やはり女の一人暮らしの部屋は二階を選ぶべきだった。
『5分で準備しなさい。でなければ押し入ります』
プツッ。返事も待たずに切られた。
あわあわあわ。怒ってるよあれは。すんごい怒ってる。静かで穏やかな声って、こういう時に出されるとかえって怖っ!
とにかく一番近くで手に届く服をつかんで着込み、冷たい水で顔だけ洗い、カバンを引っつかんで表に飛び出た。灰根は腕時計を見つめていた。
「4分47秒。…………チッ」
舌打ちしたよこの人っ! 押し入りたかったのか? もしかして。
「眉毛書いてきていいですかぁー?」
「だめです。すぐ乗って」
もういい。この人に薄い眉を見られたところで、失うものは何にもない。
万理は観念して助手席に乗った。ワゴンの後部座席には、新品の水用ポリタンクが五つほども並んでいた。
灰根は無言でアクセルを踏んだ。万理は、とりあえず謝っておくべきだと判断した。
「誠に申し訳ありませんでしたぁー」
「誠意のない詫びほど、聞いてて侮辱を感じるものはありませんね」
そうですか。そらごもっともで。
万理は、無言で窓の外を見た。暗い。早朝、なんてものじゃない。まだ夜だ。
灰根は無表情でハンドルを握っている。
「着いたら起こします。寝てなさい。隣で寝ぼけられるのも迷惑です」
反論するほどに、身体は目覚めていなかった。万理は素直に目を閉じた。10秒で意識を失った。
万理さん、着きましたよ。そう声をかけられてぱっと、目が開いた。
夢も見ずに熟睡していたようだ。ここ最近の眠りが浅かったせいだろうか。気分が良い。
空がしらじらと明るくなっている。停まっているのは神社の駐車場だった。神社の背後には、黒いシルエットで山がそびえている。
灰根に促されて鳥居をくぐった。
「ポリタンクは持って来なくていいの?」
「先ずは水を確認してからですよ」
境内の奥に、水場があった。たいそうな細工の龍の口から水が流れ落ちていた。
柄杓を手渡され、水を汲んで口に運ぶ。
「どうですか」
どうですかと言われても。
「いや、特に……。水だな、と」
「あなたの体質に合わなくては意味がありませんからね」
それで、本人が来なくてはいけなかったわけだ。
灰根も手にすくって飲んだ。
「うん、そうですね。ここは水質が落ちた。もっと上に行ってみましょうか」
駐車場に引き返して、乗車した。
対向車とすれ違うのが辛い幅の、くねくねと曲がった山道を登り、上へ上へ。
「本当は、貴船あたりの御神威の高い水が欲しいところなんですが」
世間話、という風に、灰根は自然に話し出した。
「山の湧き水を飲むのは、今くらいの時期が一番いい。大寒のころがね」
ふうん。万理は黙って聞いた。なんだか灰根がいつもより穏やかな顔をしているように見えたので、邪魔をしたくなかった。
小さな庵のような建物が見えて、丸く開いた空き地のようなスペースにワゴンを停め降りた。ずいぶん昇ってきたのだ。見下ろせば、先ほど寄った麓の神社が小さく見えた。
いかにもな水場は見当たらず、諦めかけていたところに、庵の中から人が顔を出した。
「どうされましたか」
意外なことに、若い男性だった。作務衣を着て、手ぬぐいで頭を覆っていた。
湧き水をさがしているのだと説明すると彼は、ああ、と笑って、庵の裏側へ案内してくれた。無造作に積み上げられた岩の隙間に竹筒が差し込んであり、先からちょろちょろと水が細く流れ出ていた。
万理はしびれるように冷たい水を、手ですくって飲んだ。灰根が覗き込む。
「どうですか?」
「美味しい……」
水なのに。ただの水なのに。味がある。甘い滋味。身体中に染みわたるようだ。
身体を育てる養分が含まれているような……。水なのに。
「そう。良かったですね」
言って微笑む灰根の背後から、光が射してきた。日の出だ。朝日にきらきらと光る水をポリタンクに溜める。しゃがみこんでそれを眺めながら、万理はつぶやいた。
「不思議。昇る太陽に照らされた水がなんだか神々しく見える」
「そのためにこの時間に来たんです。この水には陽の力が込もっています」
「そういうものなの?」
「そう思えればそうなります。思い込みは時に力になる」
科学的根拠は無いのかい。
それでも、さっきから、ハイネの顔つきが、柔らかくなっている。今朝一の悪魔みたいな顔が嘘みたいだ。なんだ、できるんじゃん、そんな顔。
冬の空気はきりりと冷たくて、吐く息は白いけれど、万理は胸がじわじわと暖まるのを感じた。
青年に招かれて、庵の中へ二人は入った。床敷きに四角く、古い囲炉裏が切ってあり、湯気の上がる鉄鍋が下がっていた。その鍋の粥を振舞われた。
笹井と名乗ったその青年は、自然物を使って生物を形作る作業をしているのだと言った。
河原へ出かけては石を拾い、その形を活かして動物を描き出し、倒木を見つけては、仏や人を掘る。庵は、工房と生活空間を兼ねていた。
「ここにあるのは小さいものだけですけどね。大きいものは別の小屋を借りているので」
笹井の顔は、素朴で清々しかった。万理は、なんとなく羨ましかった。
好きなことをしていない人間は、顔が歪むのだと誰かが言っていたのを思い出した。自分の顔は、歪んではいないだろうか。そして、魂の一部を飛ばしてしまうほど、万理を恨んでいるという女。彼女の顔はどうだろう。
棚に並べられた、片手に乗るほどの大きさの、石でできた動物達を見せてもらった。万理は目を輝かせた。
「うわぁ、かわいい」
見事だった。まったくのリアルではない、彼なりのデフォルメが、性格を表している。良い意味で間の抜けた、愛嬌のある微笑ましい表情の動物達。犬や猫。ネズミ、馬、猿、狐、猪。
「これ、あなたに似ていますね」
そう言って灰根が指差したのは、とぼけた顔で上を見上げている小さな豆ダヌキだった。
「あ。ひどっ。」
「タヌキではないですが、子供の頃、近所にアライグマを飼っている家がありましてね、よくからかいに行ったものです。いつも平和な顔して、そのくせ肉食で凶暴で、よく引っかかれました。あなたを見ているとそいつを思い出す」
「くっそー。ハイネ似のも探してやる」
そう言って、万理は身を乗り出して、ひとつひとつじっくりと見つめた。
「あ、これっ! そっくり!」
とぐろを巻いた白い蛇。意地悪そうに細めた目がそっくりだ。
「ほお。そりゃまた、縁起物ですね」
少しも気分を害していない。ちぇっ。万理は口を尖らせた。
笹井がそばへ寄って来て、石のヘビを撫でた。
「この辺りには、白ヘビの伝説があるんですよ。正体はにょしょう……女の人ですけどね」
聞けば、もっと山頂に近い場所にある、姫池という池にまつわる悲話なのだそうだ。
灰根は、タヌキを指差して、青年に話しかけた。
「笹井さん、これ、気に入りました。売ってはいただけませんか」
笹井は、タヌキと白ヘビを棚から取って、灰根に手渡した。
「気に入っていただいたようなので、差し上げます」
「そんなわけにはいきません」
「いいんです。そのかわりと言っちゃなんですが……」
笹井は、ほんの少し照れくさそうに笑った。
「……またお二人で遊びに来てください。伝説を詳しく話してさしあげます」
灰根と万理は、顔を見合わせた。
笹井に手を振り、二人はワゴンに乗り込んだ。灰根は笹井に貰ったタヌキとヘビの石を、あなたが持っていてください、と万理に手渡した。
「このまま帰るというのも芸がない。その池とやらに行ってみましょうか」
灰根がそう口にした。機嫌は良さそうだ。
「いいけど……」
なんだか、ふたりで遊びに来たみたいだ。陽一とはしたことがない、休日のデート……。万理はぶんぶんと頭を振った。
こらこらこらーっ! それどころじゃ無いでしょーが自分! そもそも今日、ここに来た理由はもっと深刻な……。
――死にますよ、あなた
そう。言ったのだ、この男が。万理に突きつけたのだ。死の宣告を。
山道はどんどん細くなり、車一台がやっと通れる幅になった。もし対向車が来たらどちらかがバックしてすれ違える場所を探さねばならない。それほどの。
幸運なことに、「姫池」と書かれた朽ちかけた木の看板を見つけるまで、下りてくる車はいなかった。もっとも、観光地でもないのに、朝早くから山頂に上っている人間がいないのは当たり前だが。
脇の草原に車を停め、獣道のような細い土の帯の上を歩いて、木々の間を抜けると、靄のような気体が水面から湧いている小さな池があった。
「池……というより、沼ですね」
「嵌まると浮かんでこれなさそう」
湿った空気にぶるっと身震いし、万理は己の両肩を抱いた。灰根は、しばらく黙って池を見渡していたが、万理を振り返って言った。
「好奇心は満足しました。帰りましょうか」
頷いて、もと来た道を引き返す。足元がもやってよく見えない。ごろごろと大小の石が転がっていて、歩きにくい。
「わぁっ!」
万理が大声を上げて、草の中へ倒れこんだ。石につまづいてしまったのだ。
「痛ったぁー、もお」
あははは、と灰根が声を上げて笑った。
「きゃぁ、じゃなくて、わぁ、なんですね。あなたの悲鳴は」
本当に可笑しそうだ。灰根は、尻餅をついたままの万理に、ほら、と手を伸ばした。
「もおー、そんなに笑わなくても……」
そう言って、万理はその手を取りかけ、ハッとした。弾かれるように身を引いた。
「じ……」
声が震えた。この手を取ったら……。灰根から目を逸らせた。
「自分で……立てるっ」
伸ばされたままの、寒々しく行き場を失った青白い灰根の手を、万理は盗み見た。
自力で立ち上がり、服をはらい、おそるおそる顔を上げた。
灰根の顔に表情は無かった。黒い丸眼鏡の隙間から見える灰色の目は、何も見ていないようだった。
灰根は無言で歩き出した。万理は少し離れてついて行った。やはり何も言えず。
気付いてしまったのだ。灰根は。万理が彼の手に怯えたのを。怖れたのを。
万理は、うつむいて顔を歪めた。
だって。また、見えてしまう。忌まわしいあのモノたちが。
必死に自分に言い訳しても、罪悪感は払拭されることはなかった。
初めて灰根が声を上げて笑うのを聞いた。万理に気を許したのかもしれない。それなのに。
駐車していたワゴンに乗り込み、来た道を下る。下界に降りて街が見えても、アパートに帰り着いて、キッチンにポリタンクを運び込む間も、ずっとささくれ立つような沈黙が続いた。
最後の一つを運び込み、背を向ける灰根に、万理は搾り出すように言った。
「あの……。今日はありがとう」
灰根は薄い笑みを顔に貼り付けて、ゆっくりと振り返った。
「赤に注意してください」
「……あか?」
「そう、赤い何か、それしかわかりませんが」
そう言って、片手を上げた。
ドアがパタンと音をたて、滲みるような静けさが万理に降りた。ペタリと床に座り込んだ。両手で顔を覆う。
なんと言えば良かったというのか。あの時、もし謝ってしまっていたら、返って深く彼を傷つけてしまったかもしれないのだ。それでも、
「ごめん……なさい」
誰もいない空間に、万理は語りかけた。
夜半。草も木も眠りにつくころ。
万理は、せき立てられるような胸苦しさを覚えて目を開けた。
おかしい。何かがざわめいている。動悸が激しい。
目の前が霞んでいる。そしてこの匂い。
「煙……?」
ベッドを降り、覚束ない足取りで歩く。部屋とキッチンを隔てる襖を開けた。
キッチンに火の気配は無い。しかし、確実に煙はどこかで発生している。
玄関ドアを開いて、万理は、あ! と叫んだ。
あかい。赤い。紅い。
「……か、かかかかかか……」
火事だ。燃えている。隣の部屋のドアの前。
万理は、震える脚を落ち着かせようと、拳でバンバンと腿をぶった。
落ち着けーっ! 落ち着けーっ! 大丈夫。燃えているのは扉の前だけっ!
消火器? そんなもんは無い! ああ、詐欺だと思って追い返した消火器の訪問販売の人! 来て下さい今すぐっ! 百万払うから! いや、そんなに貯金は無いから一万でどうかひとつっ!
埒も無い思考を繰り広げている間にも、炎は大きさを増してゆく。
何か、とキッチンの中に視線を巡らせば、
「あるじゃん! 」
ポリタンクの群れが目に飛び込んできた。万理は一つのキャップを回し、取っ手を両手で握って引きずった。肩が抜けそうな重みに耐えて、運び出す。
このまま水をかけては危険かもしれない、と一瞬、頭によぎった。
部屋にとって返して、ベッドの毛布をひっつかみ、再び外へ。
じゃぶじゃぶと水で濡らした毛布を、
「南無三っ!」
そう叫び、文字通り、火事場の馬鹿力で炎に向かって翻した。
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