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かーん。かーん。かーん。かーん。
消火完了の合図、鎮火報の警鐘の音が、夜に響く。だれかが通報したらしい。
消防車が到着した時は、ほとんど火は消えていて、ささやかな現場検証の後、事情を聞かれた。早い消火活動を褒められた。
焼けたのはドア付近だけで、明日から業者を入れるそうだ。
万理の持ち出したのとは別の、赤い灯油のポリタンクが外に転がっていて、ドアの前には新聞紙が積まれていた。
放火。
もう明け方だ。昨日の今頃は山にいた。不思議な感覚だ。
――赤いものに注意して
灰根の言う赤いものとは、火事のことだったのか、赤いポリタンクのことだったのか、それとも誰かの嫉妬の炎か。……生霊
「いやいや、落ち着け、自分」
火をつけられたのは、隣の空き部屋のドアの前。うちじゃない。よって、あたしに恨みを持っているわけじゃない。そもそも生霊は、ポリタンクを担げるか? 灯油を購入できるか? 火をつけられるか? 否。断じて否。
大家が見張りとして隣の部屋に待機してくれると聞き、万理は自室に引き上げた。
山で汲んだ水が、役に立ってくれた。偶然とは言え、なんだか手を合わせたい気持ちになった。
「やーれやれ、人騒がせな。あたし今日仕事なんだからねー。少しだけでも寝よっと」
わざと明るい声を出して、再びベッドに潜り込んだ。布団を頭から被って、初めて気付いた。万理は震えていた。
『どこも怪我はないんですね?』
「おかげさまでー。お水が二本分減っただけ」
会社の昼休み時間。食堂のテーブルでAランチのトレイを前に、万理は電話をしていた。もちろん灰根に、お礼の電話である。
千鶴子が、手弁当を持ってやってきた。向かいの席に座り万理に小さく手を振った。
手を振り返しつつも、万理は灰根が気になっていた。
普通にしゃべらなきゃ。できるだけ普通に。
本当のことを言えば、気まずかった。ハイネはまだ万理の態度を気にしているかもしれない。あの「拒絶」を。
万理は、意識して高めの明るい声を出した。
「いやぁ、一瞬、アレのせいかと思っちゃったけど、実体のないモノが火ィつけられるわけないもんねぇ」
アレ、とは霊のことだ。さすがに社員食堂で「生霊」なんて単語は使えない。
『自然発火というポルターガイスト現象はありますが?』
「……ポリタンクだよ? 灯油だよ? 新聞紙の束だよ?」
『それはあきらかに生きている人間のしわざですね。だが灯油はいただけない。すぐ消えてしまう。やはり放火はガソリンを使わないと』
「あんた、どっちの味方?」
不機嫌に突っ込みながらも、万理はホッとした。
良かった、ハイネ普通にしゃべってる。
「ただ、本気で建物を焼く気はなかったみたい。火元の新聞紙はドアから放してあったし、ドア事体には灯油はかけられてなかったし」
『愉快犯か、でなければ……、脅し、忠告……』
「警察も来てた。パトロールしてくれるみたい」
『それは良かった。水は毎日飲んで。身体を清めるのにも使って。まぁ、人災は防げませんが、気力が満ちれば小さな災いは防げる』
何かあったらまた電話してください。そう言って、電話は切れた。万理はほーっと深く息を吐き出した。
「誰? 誰? オトコ? 平井くんやめたの?」
千鶴子がつけ睫毛で縁どられた目をキラキラさせながら身を乗り出してきた。
「そんなんじゃないですよー」
「だって万理すっごく緊張して話してたから」
「え……? そうですか。やっぱ緊張してました? あたし」
「うん、がっちがち」
がっちがち……。そうか。ハイネにも伝わっただろうか。
「なに? なに? 火事って放火だったの? 怖ぁー。このくそ寒いのに、真夜中に焼け出されたら堪んないわよね」
千鶴子は、眉をひそめる。
つい黙っていられなくて、朝一番に千鶴子の部署まで行き、大声で報告したのだ。
――昨日アパートで火事がでたんですよぉ!
その途端に、周りの注目を浴びたので、すぐに万理はすごすごと席に戻ったが。
「ほんとですよねー」
万理はうな垂れた。火事より、灰根の方が気になる。
「そう言えば先輩。メールの件ってどうなりました?」
「ああ、平井くんの住所? それがさぁ、庇ってんのかなんなのか知らないけど、吐かないんだよねー。他のメンバーが」
「直接聞いた方が早いか。気が重いなぁ」
「ていうか、どうすんの? 別れるつもりならもう放っておけば?」
「うーん……。だって、嫌いな訳じゃないし……」
「だったら、知らん顔して続けんのね」
「それが……、そうも行かなくて……」
「らしくないわねー。あんたそんな子だったっけ?」
「実は……」
辺りをはばかりつつ、万理は千鶴子に耳打ちした。
「はぁっ? 生霊?」
「しーっ! 先輩、しーっ!」
「あんたそれ騙されてんのよ。上手いこと言いくるめられて、貯金全部持ってかれるよ?」
「それが……、そういう訳でもないらしくて……」
顔を寄せ、今までの事情を説明した。千鶴子になら言ってもいいだろう。
「なんか……、えらいことになってるのね。でも、やっぱり怪しいよ。そういうのとは関わりにならない方がいいって」
そう。これが普通の反応だろう。ちょっと前までは自分だってそうだったのだ。
「でもあたし、見ちゃったんですもん。自分の目で」
「それ、催眠術とかじゃないの?」
そういう可能性もあったか、と万理は目を丸くした。だが、営利目的で無い以上、そんなことをして何の得があるというのか。
やはり分からない。何か裏があるのだろうか。
万理は、白身魚のフライをつついた。食欲は無かった。
昼一番で、課長に呼ばれた。課長は、万理を小会議室に連れて行った。
「社の人事あてに、封書が届いてね」
「はい?」
テーブルの上に、並べて置かれた紙を、万理は断ってから手に取った。
「なにこれ……?」
告発文だった。活字で打たれていた。
『業務課の藤井万理は不特定多数の異性と肉体関係を持ち……云々。』
『学生時代から窃盗癖がぬけず、万引きを……云々。』
『貴社の不利益となる前に藤井を解雇……云々。』
万理は課長の顔をまっすぐに見て、文書をつき返した。
「これは何かの間違いです。まったくの事実無根であります!」
あまりの出来事に、微妙に語尾がうろたえた。
「まぁねぇ、差出人不明のこんなチクリに大げさなことはしないさ。でもなぁ、こんな悪意を持たれる本人にも問題があるんじゃないのかっておっしゃるわけだ、上は。嘘だという証拠もないしねぇ」
「そんなっ」
課長は、口元を歪めていやらしく笑った。
「君さぁ、周りともあんまり上手く馴染めてないみたいだし、会社勤めとか向いてないんじゃないの」
……まぁ? そうかもしれませんね。あなたとも、とても馴染めそうにありませんしね。
厄日だ。一体誰があんな根も葉もない中傷をしたのだろう。万理は、その日一日、世の中の人間すべてが自分に悪意を持っているような気がして、疑心暗鬼な時間を過ごした。
水曜の夜。万理が、危なっかしく湧き水をポリタンクから鍋に移している時、携帯が鳴った。陽一から、いつもの定期連絡メッセージ。
『金曜、行くから』
万理は、画面をじっと見つめた。ちょうど一週間前だ。『死ね』というメッセージが送られたのは。そして、それを打った人間は、もしかして今も陽一のそばにいる……?
万理は、ひとつ深呼吸し、よし、と気合を入れた。正面から突っ込んでやる。今すぐ電話かけて、本人に聞きただそう。
「同棲してるって本当なの? もう三年もっ!」
練習してみた。本番で噛んだら情けないから。
唾を飲み込んで、アドレス帳から通話の番号を選択し、発信ボタンを押した。
呼び出し音が一回、二回、三回……。心臓が高鳴った。
このまま、無視されるかもしれない。となりに誰かがいるのなら。
ずいぶんと待たされて、繋がった。
『もしもし』
「あ、もしもし、陽一?」
『はい』
「あのね、話があるんだけど」
『はい? いいえ、違いますよ』
「えっ……?」
『いえ、どういたしまして』
ツー。ツー。……切れた。
今のはどう理解すればいいのだろう。いや、考えるまでもない。
装われた。間違い電話を。
頭の血が、すう、と下りてゆくのを感じた。そばには確実に誰かがいた。多分ずっと一緒に生活している本命か。だからあんな誤魔化し方をしたのだろう。
「……もういい。わかった。……もういい」
終わりにしよう。こんどこそ。
疲れた。立て続けに起こる理不尽な出来事に疲れた。もう対抗する元気も無い。
泣いてもいいよね。こんな時くらい。もう、いいよね。
万理は、のそのそと畳みの上を這って、ベッドに突っ伏した。
哀しい。切ない。自分の喉から、子犬の鳴くような声が出た。
とたんに携帯が鳴った。
「陽一っ?」
……ではない。着信音が「その他一般」用だ。
誰だよう、せっかく人が久々に、負け犬気分を満喫しようとしてたのにっ。
携帯の画面を見る。「ハイネ」という文字が読めた。そう、改めて登録したので名前が出る。どうしてこの人は、泣かせてくれないのだろう。思い切り不機嫌な声で出てやった。
「……もしもーし」
『泣いてやしないでしょうね』
あんたは千里眼か。電波でも飛ばしてんのか?
「……なんで? どうして泣いちゃいけないの?」
『負けるからです。嘘でも平気なふりをしなさい。得意でしょ?』
見透かすような物言いだ。
「負ける? 誰に?」
『分かっているでしょう?』
……生霊? ……悪いモノ?
どうして自分ばかりこんな目に会うのか。ふいにまた、つらい気持ちがこみ上げてくる。
「そんなこと……言ったって……」
もう、……ムリ。万理は、喉をつまらせた。
『わかりました。もう少しだけ我慢して。部屋で待っててください』
「はい?」
『いいですね。待ってるんですよ』
通話が切られた。これから来るというのだろうか。何しに? 泣いても負けないように? ここに……。ここにっ?
「わぁっ!」
泣いてる場合じゃないじゃん。部屋散らかりまくりじゃん。いつも木曜の夜に掃除してるから油断してたよ。片付けなきゃ片付けなきゃ。
万理はバタバタと、部屋中に散らばっている衣服や雑誌をまとめ始めた。
はっ! 化粧とかした方が……?
いや、それはちょっと違う気がする。不自然だし、それってなんかあざとい気がする。それにどうせハイネにはすっぴんをたっぷり見られてるのだし。
「そもそも……ハイネだよ? なんだってあの人にいいカッコする必要があるの」
そう言えば、キッチンまでだが部屋にも入られたのだ。掃除もそこそこやればいいだろう。万理は、冷蔵庫を開けて、ペットボトルを取り出した。湧き水を移し変えたものだ。コップに注いで一気に飲み干した。身体にしみわたる。そう言えばこのところ体調はいい。胸の痛みも感じないし。運は悪いけど。
ハイネが来たら、この水でお茶を入れよう。きっと美味しい。
そしたら、ハイネに対するこの緊張した距離感も少しは弛むかもしれない。
現金なものだと思う。さっきまで何もかも投げ出したい気持ちだったのに。
コンロに湯をかけていると、ドアがノックされた。ハイネだ。
「はいはーい」
わざとダルそうな声で答え、ドアを開けた。
「あ。」
「こんばんは」
「あああっ!」
ハイネじゃない!
そこに立っていたのは、白いダウンジャケットを着て微笑む天使だった。
「川瀬さん……」
「ハイネは今日宿直だから。ピンチヒッター」
ひどいハイネっ! それならそうと先に言ってよ! 眉毛が……。部屋が……。
がっくりと肩を落とした万理を、川瀬が心配そうに覗き込んだ。
「ボクじゃダメかな」
「いえ、決してそんな……。どうぞお入り下さい。今、お茶入れます」
コーヒーを淹れ、脚を折りたためるタイプの小さなテーブルに、チョコレートを添えて出した。向かい合わせに座る。
「あ、嬉しい。チョコだ」
「甘いもの、お好きかと思って」
初めて会ったとき、川瀬はファミレスでパフェを注文していた。
コーヒーを飲んで、一息ついてから、川瀬が唐突に言った。
「火事の話は聞いたよ。大変だったね。その後何があったの? ハイネがね、気にしてた」
「気に、してた?」
「とてもね」
万理はうつむいて、ぽつりぽつりと話した。会社に届いた密告文。陽一へ電話をして、ごまかされたこと。二人の仲を終わりにすると決心したこと。話しているうちに、また悲しくなってきた。それでも、川瀬を前にして泣くわけにはいかない。だから笑った。
「いやぁもう、ふんだりけったりですよねー。あははは」
川瀬は、柔らかく微笑んで万理を見る。
「それで結局、彼が彼女と住んでいる場所がどこかはわからないんだね?」
「……はい」
「彼氏の電話番号、控えさせてもらっていいかな」
「はぁ……。なにするんですか? 電話かけるんですか?」
かけないよ。川瀬は首を振って言った。任せて、と。
番号を控えて、川瀬は万理に携帯を返した。
「胸が痛くなるのは、彼氏が部屋に来ている時なんだよね?」
「はい。あとはバラバラの曜日と時間に時々」
ふんふんと伏せ目がちに川瀬は頷いた。長いまつげだな、と万理は見とれた。
「あのね、万理ちゃん」
川瀬が目を上げた。
「金曜日に、もう一度彼に来てもらって。お別れするつもりなら、きちんと顔つき合わせて話して。いいね」
「そう……、ですね。うやむやなの嫌だし。メッセージ、入れときます」
「まだ、別れたいなんてことは書かないで。ただ、来てとだけ伝えて。そしてね、他の誰にもこのことは教えない。いいね?」
「誰にも? 」
「そう。友達にもね」
万理はうなずいて、陽一にメッセージを打った。
『金曜日、待ってるからね』
送信した。コーヒーを飲み干して、ふー、と吐息をついて、川瀬を見た。遠慮がちに訊いた。
「川瀬さんは、その……、ハイネみたいに何か特別な力……みたいなものがあるんですか? 」
「ボクは視えないし、聞こえない。ただ、感じることはできる」
「感じる? 」
「そばにいたり、身体に触れたりすれば、その人の弱っているところが分かるし、ちょっとだけどヒールができる。後は、物に触れた時に、それが良いものか良くないものかを感じる。それくらいかな」
「ヒール? ヒーリングのヒール?」
まぁ、靴のかかとや、悪役のことではないだろう。
気功みたいなものだろうか。そういえば昔かかった鍼灸師の先生も、指先を肌にかざせば弱っているところが分かると言っていた。
「うん。それでね、ボク、ゲイなんだよね」
「はい?」
……それはまた……、意外性のない。てか、ベタな。
川瀬は、万理の瞳をじっと覗き込む。
「気持ち悪い?」
「いいえ?」
唐突に言われたので、ちょっと驚いたけれど、気持ち悪いとは思わない。それは川瀬の中性的な雰囲気のせいかもしれないけれど。全く抵抗感がない。
川瀬は、にこりと微笑んだ。
「そう。ちょっとだけ個性的かもしれないけど、後は普通の人と同じ」
「そうですね」
何が言いたいのだろう。万理は、首を傾けて、つられるように笑った。
「ハイネもさ、ふつぅーの人、なんだよね」
「あ……」
胸がズキリと痛んだ。これは霊障のせいじゃない。
「彼……、何か言ってました?」
「ううん。でもさ、日曜からこっち、なんだか変だし。君との電話の後はなんだか体温低くなってるみたいで」
そうか、やっぱり伝わっていたのか。
携帯が鳴った。陽一からのメッセージだ。
『行くよ、金曜。鍋がいいな』
ふぅ、と小さく息を吐いた。
「彼氏? 来るって?」
「はい……」
来る……最後の……ハイネの手……鍋がいいな……普通の……陽一…………。
万理は、取りとめのない思考を、懸命に整理しようとした。
「あたし……あたしは……」
「万理ちゃん。ボク、今日、ハイネに頼まれたんだ」
万理は、顔を上げた。
「何を?」
川瀬は、正座した自らの腿をポンポンと叩いた。
「おいで」
「はい……?」
「膝枕、してあげる」
「ひざ、まくら?」
「いいから」
そう言うと、川瀬は万理の頭を、膝の上に導いた。
「な、ななななんで?」
「しっ……。大丈夫だよ」
覆うように万理の頭を撫でた。
「泣かせてやってくれ、って。ハイネが」
ハイネが?
「もういいよ、泣いても。その間、ずっとこうしててあげる」
負けないように?
「川瀬さん、私、泣きたくなんか……」
「だめだよ。ボクに嘘ついても。こうしてると君の中から、かなしい、かなしいって声が聞こえるもん」
その言葉に折れた。万理は目を閉じた。人の膝って暖かくて心地良い。
川瀬は、呼吸を合わせてくれているようだった。吸って。吐いて。吸って……。なぜだか安心した。
暖かいものが川瀬の手からしみこんでくる。氷がとけるように、万理の強張った心が融解する。溢れた気持ちが涙になって、川瀬の膝を濡らした。
万理は嗚咽し始めた。
結局その後、川瀬の暖かい気に包まれて、万理は小一時間泣いた。子供のように。
泣きやんだとき、心も身体もすっかり軽くなっていた。不思議だった。
身を起こした後、自然に微笑み合った。川瀬は本当に天使なのかも知れないと万理は思った。
「明日の夜は暇? だったら会館に遊びにおいでよ。宴会するから」
帰り際に川瀬はそう言った。社長が会いたいって、とも。
友引の前日は、通夜の仕事を入れないのだそうだ。友引は火葬場が休業するので。
万理は素直に頷いた。ハイネに会いたい。会って、謝りたい。
そして今、会社帰りにそのまま『セレモニーホール紫雲』に来て、白い建物を見上げている。万理はしばし逡巡した。
社長が会いたいって、何の話だろう。
――生け贄のしるし
そう言ったのだ。柴田は。忘れていたわけではないが、考えないように意識の隅に追いやっていた言葉だ。万理は、額に手を当てた。
怖いけれど、いつかは向き合わなくてはいけないのだろう。
では、少しでも早い方がいい。先方もそのつもりで呼んだのかもしれない。
そう思いながら、万理の足は進まない。靴先を眺めた。
ハイネに会ったら、まずなんて言おう。
「アナタ」
「えっ?」
声をかけられて振り向けば、いつの間にか背後に一人の青年が立っていた。
長髪。金髪。だが、西洋人ではない。黒いTシャツに穴あきジーンズ。一見、バンドマン風。
「アナタ、ここに用アルのひとか?」
片言? 日本人じゃない?
しかも、そのTシャツに描かれているのは……、
「え、ええ」
「そか。なら、ダイジョブね。安心放心」
……美少女萌え絵だった。
「あの……」
今日は、会館に遺族がいないと聞いていた。では、この人は関係者か?
「アナタ、懐かしニオイするね。きっとまた会う」
キャラが渋滞を起こしている青年は、再見! と手を上げて去って行った。
「……ざい、ぢぇん?」
茫然と見送る万理に、
「邪魔なんですけどね。そこにボーっと立たれると」
すぐ後ろで声がして、万理は飛び上がった。
黒衣の男が、両手に膨れ上がったスーパーの袋をいくつも持って、立っていた。
「ハ、ハイネっ」なにか言わなきゃ、なにかっ。「い、今の痛Tの人って……」
「ああ、あの木っ端役人」
「役人? 今のが?」
「あなたは知らなくていいです」
無表情のハイネの声は、冷ややかだった。何か言わなきゃ、何か。
「ふ、ふくろ、もつっ!」
「いいですよ、すぐそこですから」
「いいのっ。持ちたいのっ」
万理は強引に奪い取る。
肩を並べて、歩く。両開きのガラス扉を押して、万理は、ハイネを先に促した。
そうだ。言いたい事があるのだ。伝えたい気持ちがあるのだ。
通り過ぎようとするハイネの横顔を見ながら、消え入りそうな声で。
「あの時はごめんなさい」
ハイネは万理の顔も見ずに、少しだけ唇の端を上げて、何のことですかね、とつぶやくように言った。
ほぅ、と万理は息をついた。
「会食室」というプレートのかかった食堂らしい部屋に荷物を運び込んだ。
すでに仕込みなどは進んでいたらしい。部屋中にほんのりいい匂いがしている。
ハイネは、さて、と腕まくりをした。
「できたら呼びますから、従業員控え室で待っててください」
「ハイネが料理作るの?」
「ご不満ですか?」
不満というより、意外だ。
「何か手伝う」
「駄目です。今日はこちらが招待した方ですから、主賓は出ていてください」
ちぇー。と口に出して万理は向きを変えた。あ、と灰根が声を上げた。
「言い忘れていました。今日は、雰囲気がずいぶんすっきりしてるじゃないですか。川瀬さんはうまくやってくれたようですね」
万理は顔を赤らめた。川瀬本人の前ではなんともなかったのに、灰根に物知り顔で言われると、なんだかいたたまれない。
「あ、あの水ちゃんと飲んでるし、塩も……。だからじゃないの?」
そう言って、逃げるように会食室を出た。ガランとしたホールに立って、万理はどうしたものかと目をさまよわせた。
広いホール。葬儀が入れば、椅子が並べられるのだろう。正面奥にステージがある。位置的には社長室のちょうど下あたりか。ここに祭壇が組まれ、花が生けられるのだ。よくテレビドラマで見るように、菊の花でいっぱいになるのだろう。
エントランスに出て、万理は、壁際のソファに座った。二階の従業員控え室にはもう誰かがいるのだろうか。そう思って階段を見上げた。
草履を履いた足が見えた。着物の裾が、帯が、現れた。
「わ。」
女がゆっくりと階段を降りてくる。えんじ色と鶯色が相まって、薄い白い花が染め抜かれた上品な着物。着ている本人も、着物に負けずハッとするほど美しい。万理は口を開いて見ていたが、目が合って、慌てて会釈した。
女は、はんなりと笑み、うつむいて万理の前を通り過ぎた。
あんな人、いるんだ。本当に。
まるで日本画の美人が抜け出してきたようだった。現実感がない。夢を見ていたのかと思う。
しばらくの間、余韻の中で浮遊していると、今度は、ずる、ぺた。という引きずるような音がした。見上げると、白い着物を着た男が足を引きずるように降りてきた。
「あー……。マリちゃん、やっほー」
柴田だ。よれよれだ。まるで激しい肉体労働の後のように、顔も身体も疲れきっている。
「どうしたんですか? へろへろじゃないですか」
「あー、うん。も、ドロドロ」
柴田は、一歩歩くのもしんどいといった風に息を切らせている。万理の隣にどっさりと身を預けた。白衣のたもとに手を突っ込み、煙草を取り出して火を点け、深く吸った。
肺の中の空気を残らず吐き出して、柴田は目を閉じた。目は窪み、頬がコケて、唇はカサカサ、髪はぼさぼさだ。
「大丈夫ですか。何やってたんです」
「んーとね。えっちしてたー」
万理は10秒ほど固まった。
「はい?」
「朝からずっーと、えっちしてたのー。もうへとへと」
目頭に指を当て、へひうー、と妙な声を出しながら押している。
「……えーと、今通った着物の女の人と? 」
「あー、加賀友禅のー? そうそう」
「……どこで?」
「社長室」
――愛欲の坩堝ルーム
万理はしばらく口がきけなかった。
社長室で? この人は会社を私物化しているのか?
「……今朝は葬儀が入って無かったんですね」
「いやぁ? 入ってたねぇー」
ということは、尽きた命を、この世から送る儀式を執り行っている正にその真上で、生命の営みそのものの行為を繰り広げていたと、そういう訳か。
それは、あまりにも不謹慎で、容赦の無い仕打ちでは、と言いかけて、万理は口をつぐんだ。
考えてみれば、どちらも生物にとって、呆れるほど当たり前の事象なのだ。
「あの……。さっきの方は奥様ですか?」
「んーにゃ」
誰かの返事の仕方に似ている。
「では恋人?」
「んーにゃ」
これ以上は尋ねまい。なんだか面倒なことになりそうだ。
そう思っていると、少し落ち着いたのか、柴田は煙草をもみ消して、にかっと笑った。
「落としてあげたんだよー。澱を」
「おり……?」
「澱みが溜まるのさ、年がら年中お客と寝てるとね。男はさ、女の人の中にいろんなモノを吐き出していく。欲も、業も、情も。いろーんなモノをね」
「お客……ですか。では今の方は」
「そ。春をひさぐヒト」
「……で、その……柴田さんと……すると、「それ」が落ちる……と」
「そ。それがオレの、うーん、天分?」
よく分からないが、オーディオの汚れを落とす、クリーニングCDみたいなものだろうか。万理は腕を組んで唸った。柴田は、ニコニコしながら片手を万理の肩に回し、もう片方の人差し指を顎に当てた。
「万理ちゃんは落とし甲斐ありそーだねー。予約、入れとく? 今日はちょっともう無理だけどー」
「落ちるんですか……? あたしの……」
無数に蠢く怖いものたち。
「落としてあげるよ。オレに身を任せてくれればね」
柴田は、甘い声で囁きながら、人差し指で顎から耳につつとなぞる。
万理は、一瞬グラついたが、顎を引いて柴田の指をぺちんと叩いた。
「遠慮しときます」
柴田は、あははやっぱりー? と上向いて笑った。
「まぁーねー。生霊はちょっと無理だし? 一掃してもあっと言う間にまた溜まるからねー。君の場合」
万理は、目の前がどんより薄暗くなるのを感じた。
「あの印っていうののせいですか。赤い」
こくこくこくと、柴田は三回頷いた。
……あたし今までよく無事に生きてこれたよねぇ。
万理は額に手を当てた。
「この印は、消せないんですか?」
「うん無理」
「即答ですかっ!」
「知り合いに調べて欲しいって頼んではあるけど……。難しいよねー。本体がそばにいないし。憑依してからだと遅いかもねー。廃人になるかも」
「じゃぁ、あたしはどうしたらいいんですかっ」
「方法が見つからない限りはねー。その場しのぎでなんとかするか、本人の能力上げていくしか無いよねー」
「能力……、って?」
「抵抗力つけるっていうかー。負けない精神力つけるっていうかー」
「それは、どうすればいいんですか?」
「そう、そのことで今日は呼んだんだけど、万理ちゃんここで働きなよー」
「はい?」
「そうすりゃオレらが何かとケアしてあげられるしー? オレならいつでも優先的に身体空けてあげるしー?」
「いや、それは謹んでご辞退します。でも、どうしてですか?」
「何が?」
「どうしてそこまでしてくれようとするんですか。なんの得もないじゃないですか」
「得って何?」
「そりゃ……、うーん、お金とか」
「金はさ、働けば入ってくるじゃない。オレにとっての得は、君のその体質」
「体質……?」
「例えるなら、そーだねー……。上等の樹液が溢れ出る大木?」
「よくわかりませんが」
「朝になると、わんさかとカブトムシがたかって……」
霊とカブトムシが一緒の扱いっ?
「で? そんなにカブトムシを集めてどうしようってんですか」
「本来いるべき所に放してやる。今いるところよりもっといいところにね」
「成仏とか……、そういうことですか?」
「簡単じゃないけどねー」
そうだろう。今の柴田は異常に消耗している。
「だから、ね? 考えといてねー」
「はぁ……。考えてはおきます」
今すぐにはちょっと返答はできない。
「あ、柴田さん。そう言えば、あたしの額の印って、どんな形してるんですか。お寺でみかける変な文字とか、一筆書きの星が逆さまになったヤツとかですか」
「どっからそんな知識拾ってくるの」
「えっと……、マンガとか、映画とか」
「梵字に逆ペンタ? そんな正体がはっきりしてるもんなら苦労しないよねー。そうだなー。獣が前足で引っかいた傷、みたいな感じかなー」
「ツメ跡みたいな?」
「そ。斜めに三本走ってる」
……本陣殺人事件?
いやいや、獣と言ったはず。
「まさかタヌキとかじゃないですよねぇ?」
柴田は膝をバンバン叩きながら、似てるー、そうかもねー、と言いながらゲラゲラ笑った。タヌキの呪い……。今ひとつ深刻味が足りない。
額に紅い爪跡……か。「肉」とかじゃなくて良かった、なんとなく。
さてと、と柴田は立ち上がった。
「上にいっちゃんたちいるから、遊んでもらっといでー。オレはハイネに特製にんじんジュース作ってもらうからー」
そして、あー、と万理を振り返った。
「O県だって? 出身」
「はい」
「育霊神社があるよねー」
「ああ、聞いたことはあります。たしか猫神様を祀ってる」
「有名だからさー、『丑の刻参り』で。今はやってないらしいけどー? ま、それだけ」
そう言って、またよろよろしながら会食室に向かって歩き出した。
丑の刻参りっ? 万理は胸を押さえた。
従業員控え室に入ると、海野、川瀬、山岐、そして初対面の青年が一人。
「伊砂と申します」
若い。好青年だ。フレッシュマンという感じ。爽やかな笑顔。
「あ、藤田です」
「さっそくですが藤田さん、撫でまわしてもいいですか?」
「………………」
前言撤回。変態さんだ。
「駄目に決まってるでしょっ!」
川瀬が割って入ってくれたので、難を逃れた。さっきの金髪といい、今日は初対面運が変だ。
小一時間、雑談をしていると、内線電話が鳴った。会食室からの呼び出しだった。
会食室の扉を開けると、テーブルには、色とりどりの料理が並んでいた。
「うわ……。中華? いい匂い」
肉料理やスープ、炒め物に粥。
「薬膳です」
ハイネが席に促し、めいめいが座った。
匂いを嗅ぐだけでも、身体に良さそうだ。
「いただきまーす」
と、元気に言って、隣の灰根を見ると、彼は、手を組んで一言ボソリとつぶやいた。
なんと言っているのかは万理には分からなかった。食前の祈りのようだった。
万理は思わず、両手を合わせて、もう一度いただきます、と小声で言った。
まずはスープをいただく。きくらげと……、
「ハイネ、これはなに?」
「金針菜です。ユリ科の花のつぼみです。鉄分やカルシウム、ビタミンBが豊富です。あなたはたくさん取っておいた方がいい。神経の緊張がほぐれて、安眠できます」
「へぇー。これは?」
大きな丸く白いボウル状の器にいっぱいの粥。
「羊肉粥。羊肉は身体を温めるし、附子や当帰や山椒が入ってますから、身体にはいいです。血の巡りが良くなる」
「ふうーん。じゃぁ、これは?」
「これは、鶉の……」
ハイネは、いちいち万理の質問に答えた。嫌な顔もせず。味は絶品で、滋味が身体に行き渡り、万理は幸せな気分になった。
食後に、ハイネがブレンドしたという茶を飲んだ。陳皮・白鶴霊芝草・高麗人参葉などが入っていると言う。
「すごいねぇ。ハイネ。こんな特技があったんだ」
「みっちり教えてあげますよ。自分で作れるようにね」
「いや、それはさすがにちょっと……」
あははと笑ってごまかすと、ハイネは眉をひそめた。
「何言ってるんですか、今日の料理は全部あなたに必要なものを揃えたんです。食は命ですからね。心しておきなさい。あ、まさか、夕飯を作るのが面倒だからってジャンクフードで済ませたりしてないでしょうね。ダメですよ。添加物や防腐剤の入った食品はなるべく避けて……」
「わーん、川瀬さん助けてぇ。ここに小姑がいるよう」
川瀬に救いを求めると、
「しっかり聞いといた方がいいよ」
とすげない答えが帰ってきた。柴田はゲラゲラ笑いながら、
「そんなに心配ならハイネが作ってあげればいーじゃーん? 毎日」などと言う。もうすっかり体力が回復したらしい。顔にツヤが戻ってきている。「めんどくさいからくっついちゃえばー? ねー、ミウミウ、この2人って、相性とかどお?」
ミウミウとは何ぞやと思っていると、なんと海野が返事をした。そうか。美雨か。
「アタシはね、人様の色恋に、余計な口出しはしたくないのさ、もう」
もう? その言葉の意味を探るべく、他の従業員たちに目をやってみた。
山岐は、黙々と食している。伊砂は……、食された後の、鶉の骨をじっと見つめていた。役に立たない。
ハイネはうんざりした顔で、抵抗した。
「嫌ですよ、こんな危なっかしいタイプは。目を放すと何しでかすか分からないから寿命が縮みます」
こっちこそ、こんな口うるさいタイプはご免被ります、と言いかけてやめた。不毛だ。
「だったらしっかり捕まえとけばいいんだよー」
無責任に柴田が言い放つ。
万理は、ハイネを見てハッとした。彼は、己が手を見つめていた。
伸ばされたままの白い手。
「それは……」
ハイネは静かに言った。
「……難しいですね」
万理は、手元に目を落とした。ハイネは、忘れてはいない。
食後に片づけを手伝うため、万理はハイネと二人食堂にいた。他のメンバーはそれぞれ帰っていった後だった。
「お客様が手伝わなくてもいいのに。助かりますが」
ハイネは皿を拭きながらそう言った。万理は、その手を見つめた。
あの時、差し出された手を取っていたら……、どうなっていたのだろう。やはりあの鏡の中に見たような光景が、襲ってきたのだろうか。
そう思うと、忘れよう忘れようとしていた事実を突きつけられる。そう、今、この時にも自分の背後にいるのだ。
いや、と思い当たる。目を閉じれば見えない。触れた途端に目をつむれば大丈夫かもしれない。
……いや別に、積極的に触りたいわけじゃないんだけどね。
ただ、置いてきぼりのような手のビジュアルが、やけに頭から離れてくれないのだ。
片付け作業が終わって、ハイネが熱い緑茶を入れてくれた。
テーブルに置かれた手に、どうしても視線が行ってしまう。万理は緊張しながらそっと、自分の手をテーブルの下から出した。じりじりとハイネの手に近づける。
ちょ、ちょっとだけ。何か言いながら自然にぽんって叩けば、ぽ、ぽぽぽぽん……、
「ああ、そうだ」
ハイネがそう言い、手が動いた。人差し指を立てる形に。
あああー。もうちょっとだったのに。何? わざとっ?
「あなたに伝えておかねばならないことがありますね。いいですか……」
立てた指を、びしりと万理の鼻先に向けて、話し出した。
結局、手には触れられなかった。
帰りは車で送ってくれたが、ハンドルを持つ手に触れるわけにはいかない。
万理はアパートの部屋にぽつんと座った。
明日は金曜だ。本当だったら今日一日、そのことばかりを考えて過ごしていただろう。
それなのに、セレモニー会館にいる時は、陽一のことを思い出しもしなかった。
「もしかして、そのために……?」
いや、それは無いだろう。友引の前だからと言っていた。
それでも、万理の心は落ち着いていた。
うん大丈夫。明日は、きちんとさよならが言える。
「あ。掃除しなきゃ」
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