邂逅 ~赤~

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陽一の希望通り、夕食は鍋を囲んだ。 満腹になって、いつもなら二人肩を寄せてTVを見る。 でも、今日は違う。 「陽一、ちょっとこっち向いて。話しよ」 万理は正座をして穏やかに言った。 「なんだよ、改まって」 「聞いて欲しい事がある」 陽一は、きょとんとして、万理の前にあぐらをかいて座った。 「なに?」 「終わりにしよ」 何を言われたのか、陽一には理解できていないようだった。万理は笑んだ。 「いままでありがと。陽一のこと、好きだった。」 「過去形かよ。理由とか……、いや、聞かない方がいいか」 思ったとおりだ。この人は、いや、この人も、泥沼は嫌なタイプなんだ。プライドが高い一方で、現実に直面するのは怖い。責められたくないのだ。 初めて付き合った教授も、二人目の社内恋愛の相手も、同類だ。 「ううん。ちゃんと言う。陽一、別の彼女と同棲してるでしょ?」 「……バレたか。思ったより早かったな」 陽一はさほど悪びれる様子もなく、言った。 いずれはばれてしまうことを承知で付き合ってたんだね。 それとも、付き合った内にも入らないのかな。これって。 陽一は、どこでもないどこかを見ながら、身体を揺すった。 「こえーな女って。別れるつもりの男とメシ食って、笑ってんだもんな」 「最後だから、少しでも一緒に長く居たかったんだよ」 これは嘘。時間稼ぎ。そう、怖い女で結構。腹くくりましたから。 それでも陽一は、その言葉を鵜呑みにしたようで、少しだけ切ない顔をした。両腕を万理の身体に回して、髪の毛に口づける。 「最後なら……、なぁ、いいだろ?」 万理は、そっとその腕をほどいて、首を振った。 「それは嫌。ごめん」 陽一は、苛立ちを見せた。 「もういいよ、帰る」 「待って」 ここで帰られたら困るのだ。 「なんだよ、もうオレに用はないんだろ」 陽一の袖を引く。 「……もう少しだけここにいて」 陽一は、口元をゆがめた。 「なんだ。そういうことか」 万理を抱き上げて、乱暴にベッドに放った。上にのしかかり、 「わざと拗ねて気を引こうってんだな」 「ちがうっ! やめてっ! ヤダっ! ハイネっ!」 無意識に名を呼んだ。陽一の動きが止まる。万理はハッとして、陽一の顔を見た。 冷えた目が、怖い。沈黙が怖ろしい。 「……はいね、って?」 その時、ドアが鳴った。コンコン、と高い音。 「はあーいっ! 今開けますーっ!」 万理は声を張り上げ、陽一の身体を押しのけて逃れた。おいっ、と投げつけられる不満の声を背に受け、すくみそうになった足を励まして、ドアノブに飛びついた。 ドアを押し開けると、その先できゃっ、と声が上がった。わぁっ、では無く。 その女と目を合わせるには、万理は顎を上げねばならなかった。 見たことのある顔のような気がした。夢で万理に刃物を振るったあの女に似てはいないか。 スラリと背が高い、真っ黒な腰までの髪。上がったまなじり。 その存在が放つ気。女としての重心が、万理とは段違いだ。 一瞬で悟って、万理はああ、と胸の内でつぶやいた。 あたしは陽一にとって、本当に、遊びの対象だったんだなぁ。 「ようちゃん、居るんですよね」 女はどこか痛そうな顔で尋ねた。万理は、頷いた。 女の背後に灰根と山岐が居た。灰根が真顔で万理に聞いた。 「呼びましたか? さっき」 そうだ。思わず呼んでしまったのだ。彼の名を。万理は、来てくれて良かった、と言いたかったが、 「遅いよ」 と、憎らしい口を利いておいた。 万理は背中で、哀れな程うろたえながらベッドから降りる陽一の気配を聞いた。身体を引いて、女に入室を促した。二人の男が続く。 「なんだよこれっ!」 裏返った声で、陽一は取り乱している。女は落ち着き払った様子で、小テーブルの前に正座した。ようちゃん、と平坦な声で呼びかけた。 「座って」 「なんで……聡子がここにいんだよ……」 陽一は、その場にへたり込んだ。ギッと万理を見上げる。万理は二人から少し離れて座った。 今、駅だから、という陽一からの電話を切った後、万理は灰根に連絡を入れた。灰根と山岐はその頃は、すでに女に会っていた。 川瀬に教えた陽一の携帯電話の番号から、名義人……つまり陽一の住所を裏ワザで調べたのだと、昨日の内に万理は教えられていた。 「えっと。さとこ……さん?」 万理は、陽一が聡子と呼んだ女の顔を真っ直ぐ見た。 「あたしとこの人は、さっきお別れしました。今までごめんなさい」 聡子は万理と目を合わせない。 「あなたが謝ることじゃないじゃない。知らなかったんでしょ」 「でも、憎かったんでしょう? あたしのこと」 「……」 電話で灰根に聞いていた。彼女は自宅のクローゼットの中に、あるものを隠していたのだと。本邦古来からの典型的な呪具。五寸釘の突き刺された、藁で作られたヒトガタ。陽一が、コートの肩にうっかりつけて帰った万理の髪の毛を施したのだ。 ――そんなもので、呪いって効くの? 電話で万理がそう尋ねると、灰根は感慨深い声で答えた。 ――それだけ念が強かったのでしょう。正式な儀式などしなくても、飛ぶものなんですね恨みは。笑えますよ、この藁人形、雑誌の通販で買ったそうです ――笑い事かいっ! 呪いの藁人形。 子供の頃に、俊樹叔父に聞いた……、いや、無理矢理聞かされた話ではこうだ。 丑の刻参りとは、顔を丹で赤く塗って、赤い装束に五徳を逆さに被り、その三本の足に蝋燭を立てて火を灯す。一本歯の下駄を履き、人の形に作られた茅に、名前の書かれた白い紙。 ――神社の御神木にな、こうやって打ちつけんのさ。コーン。コーン。恨みはらさでおくべきかぁ~ 半ベソの万理に、叔父はそうやって、いかにもおどろおどろしく語ったものだ。 のちに万理自身が文献で触れたところによると、叔父は新旧いろんなものをごっちゃにしていたようだったが。 聡子の恨みは、裏切った男ではなく、その先にいる女に向けられた。それが万理には理解できない。女の敵は女。彼女は、万理よりもはるかに「女」なのだ。 適わない、と万理は思う。 「どうするの? ようちゃん」 どこかしら開き直った感のある聡子の声に、陽一はハッと、顔を上げた。 「どうする、って……」 「私と一緒に帰る?」 陽一は、しばし奇妙に歪んだ顔をしていたが、重力に負けたように頷いて、ふらりと立ち上がった。 終わったな、と万理は息を吐き出した。 お待ちなさい、と灰根の声が止める。 「今のままでは良くありません。聡子さんが飛ばした生霊を、本人に返さねばなりません」 「はぁ? 生霊ぉ?」 陽一は甲高い声を上げた。 「なんだよそれ。聡子、こいつら危ねえよ。電波じゃねぇの? 帰るぞ」 大慌てで上着とコートを着てカバンをつかむ。聡子の手を取り、逃げるように部屋の出口に向かった。が、そこには壁があった。山岐だ。鴨居を越す大男が、行く手を阻んでいた。 「平井陽一。動くな!」 巨人が、そう腹に響く声で一括すると、陽一は不自然な姿勢のまま、固まった。 「……ぐ、……がっ?」 言葉にならない声を出す陽一をしり目に、 「山岐さんの禁呪は、相変わらず効きますね」 そう灰根は言いながら、聡子と呼ばれた女性を奥へと促した。 「ようちゃん。いいのよ」 聡子は、陽一の手を離して万理の前に戻って座った。万理に向かって手を差し出す。 万理は、灰根を見上げた。 「あの……?」 「返しておあげなさい、彼女に。欠けた魂の一部を」 そう言えば、川瀬が言っていた。返してやらねばならないものなのだと。聡子は手順を聞いているのだろう。だが、万理は戸惑うだけだ。 「どうやって? あたし、何も聞いておりませんけれども?」 昨日灰根に教えられたのは、彼女をここに連れてくるから、三人で話をつけなさいと言われただけだ。 「聡子さんの手を取って。右手で左手を、左手で右手を。横から見て8の字になるように……、そう。それで、気の通り道が出来る」 言われて万理は、そのようにした。 「事前に言っておくと、雑念が入るかと思いましてね」 灰根はそう言って、万理の背後についた。 「嫌でしょうが、我慢してください」 そう言っていつかのように、片手を回して万理の身体を引き寄せ、もう片手で今度は両目を覆った。万理の身体がビクリと震えた。灰根の立てた人差し指が、万理の眉間の少し上を、軽くつついた。 「ここです。ここに集中。落ち着いて。あなたの中の世界をイメージして。わかりますか? あなたの器としての領域が」 灰根の冷たい手が、万理を冷静にさせた。暗い。黒い。湿っている。微かに白い靄の架かる中、何かがいる。蠢いている。人の顔……。いくつも。 「あっ……」 万理はおののいた。そうだ。いつか見たあの光景。恐怖がわきあがってくる。 万理を抱く灰根の腕に力が込もった。耳元で安心させるように囁く、深い声。 「大丈夫です。彼らはただ居る、それだけです。何もしません。何もできません。なんにもね」 万理は乱れる息を、納めた。 大丈夫。ハイネがそう言っているんだからきっと大丈夫。 灰根は続ける。 「聡子さんを探して。もう、分かるでしょう?」 すぐそばにいる人なのだ。手をつないでいる相手なのだ。万理は懸命に探す。ちがう、ちがう、この人も違う。万理は弱音を吐く。 「ここ……、広いよハイネ」 「それがあなたの「器」としての容量です。大丈夫。彼女を感じて」 手から伝わってくる気を頼りに万理はさまよう。名前を呼んでみる。彼方から何かが近付いてきた。ぼう、と光っていてかすかに熱を伴っている。 「あっ……」 「見つかりましたか?」 万理は頷いた。今でははっきりと見える。聡子の顔が。 「彼女の様子は?」 寄せられた眉根。思いつめたような眼差しが目の前に現れた万理を戸惑うように見た。 「怒ってるのかな……。困ってる?」 「では、語りかけて。本人のもとに帰ってもらいなさい」 万理は、彼女の顔を覗き込むようにして言った。 ――聡子さん? もう終わりにしましょう 万理の中の聡子は、道に迷った子供のような顔になった。夢で見た、恨みや嫉妬の面差しはすでにない。 ――帰りましょうね。自分のもと居た場所に 聡子の頬に、一筋涙が伝った。 「聡子さん、返しますね」 万理は声に出してそう言った。 「はい」 手をつないでいる実体の聡子がそう返事をした。 イメージの聡子はぽう、と消えた。分かる。手を伝って今、本体の元に帰ったのだ。 万理の頭がグラリと後ろに傾いた。すべてを灰根に預けるように、倒れかかった。 万理は意識を失った。 再び目覚めた時、万理はベッドに寝かされていた。時計を見ると、もう日付が変っている時間だった。 すぐそばに灰根の背中があった。あぐらを組んで、腕を組んでいる。眠っているのか。 他に人気はない。万理はそっと呼びかけた。 「ハイネ……?」 灰根は振り向いた。眠ってはいなかったらしい。 「おつかれさま」 「……帰ったんだね。聡子さんのところに」 万理に憑いていた聡子の一部も、そして、陽一も。 灰根はベッドの縁に肘をついて頬杖をつき、万理を見下ろした。 「よく頑張りました。褒めてあげます」 ハイネに褒められると、変な感じだ。落ち着かない。万理は目を泳がせた。 「そっか。帰っちゃったんだ」 改めて口にすると、胸がちりりと痛んだ。また、一人なんだなぁ。 「寂しいですか?」 灰根は万理の言葉の意味を汲んでいるようだ。 「ちょっと。ホントにちょっとだけ」 万理は思いを巡らせた。なんだかわかった事がある。 「考えてみるとね、あたしってちゃんと恋愛したことないなぁって思う。あたしね、聡子さんほど陽一のこと好きじゃなかった」 灰根は黙って聞いている。 「あたし、本質的に女じゃないのかも知れない。だからいつも、つまみ食いの対象なのかなぁって」 今回のことで痛感した。聡子は女だ。全身で。 「前に言われたことがある。君は強いから一人でも大丈夫だよって」 そう言ったのは、初めてのひと。そうしてその人も帰っていった。 「強い?」 灰根が馬鹿にしたように鼻先でふっと笑った。 「あなたは強くなんかないでしょう」 万理は、口を尖らせて灰根を睨んだ。 「ハイネだって言ってたじゃん。肉食で凶暴で……」 「やたらと他人を攻撃するのは、自分を守るためです。自分の弱さを覆い隠すため。時には自分自身を騙してでもね。言ったでしょう。あなたは覚悟が足りないんです」 「覚悟?」 「あなたが強さだと思っているのは、表面のバリアであって、真の強さじゃない。本当は怖がりで泣き虫のくせに」 万理の顔が一気に赤くなる。自分でも見失っていたことを言い当てられたような気がする。そう、灰根は川瀬に言ったのだ。泣かせてやってくれと。返す言葉が見つからない。 「それでも、その思い込みのおかげで、あなたはなんとか負けずにやってこれたんです。だから決して無駄じゃない」 負けずに……。万理の中の怖いモノたち。意識下で必死に抵抗してきたのかもしれない。守ってくれている祖母と一緒に。 「けれどこれからは少しずつでも中身を強化しなくてはね。協力は惜しみませんよ」 「ハイネぇ……」 万理の口から弱々しい声がこぼれる。灰根は子供に向けるような微笑を浮かべ、万理の頬に手を伸ばした。その手が触れる寸前で止まった。迷うように。 万理は思わずその手を両手で握り締めた。迷うことなく。 「……あれ?」 「どうしました?」 何も見えない。万理は目を丸くした。灰根に触れることで、見たくない世界が否応なしに見えてしまうものだと思っていたのに。 そう口にすると、灰根は、呆れたような、気の抜けたような顔になって、 「アレをあなたに見せるために、私がどれだけ精神力を使ってると思ってるんですかっ」 「知らないよそんなの! だったら最初からそう言ってよ!」 「それこそ知りませんよ! 私は心が読めるわけじゃないんです。わたしはただあなたが……っ」 「……あなたが?」 「ただ、私に触りたくないのだと……」 「なんで?」 なんでって……、灰根は万理に手を握られたままで、顔を背け、そしてぼそぼそと語り出した。 子供のころからそのグレーの目は、他人に見えないものを認識して、幼い灰根は周囲の大人にそれを訴えた。子供の戯言、妄想だと思っていても、それが他人の秘密を見透かすような言動をとり出すと、人々は灰根を恐れ、忌み嫌うようになり、実の親でさえ遠ざかった。伸ばされた手は文字通り、はねのけられた。 ――触らないでっ そう言った母の目は、如実に心の中を表していた。 この子は普通じゃない、と。 灰根は、施設に送られた。現実にあるものと、灰根にしか見えないものと、区別がつくようになった。だから、他人に怪しまれることは口にしなくなった。 それでも他の子供達は、無邪気な残酷さで、灰根の目をみると口々に言った。 ――きもちわるーい それは、大人も同じだ。たとえ口に出さなくとも、その表情が語るのだ。警戒、嫌悪、好奇……。 「あなたが、心のどこかで私を……、気味悪がっているのだと」 万理は、胸が締め付けられるのを感じて、そっと灰根の手を離し、その顔にかけられたグレーのサングラスを外した。灰根は、万理の視線を避けるように目を閉じた。 「見せて。ハイネの目」 「なぜですか」 灰根の声には苦痛が混じっている。 「見たいから」 灰根は、怯えるように目蓋を開け、万理を見た。万理は灰根の頬に両手を当てた。 「気味悪くなんかないよ。きれいだよ、灰根の目」 本音だった。くすんだ薄鈍色。万理はこの色が好きだった。 万理は微笑んだ。出会ったころ、まるで死神みたいに見えていたこの男は、今、万理の前で戸惑ったり、愁いたり、安堵したりしているのだ。 うん。ふつぅー、だよね。 万理とさほど年齢も違わない、普通の男だ。 灰根は、うつむいてふっと笑み、右手を、頬に当てられた万理の手に重ねた。 お互いのぬくもりをしばし感じあった。 唐突に万理は、あ。と声を上げた。 「車は山岐さんが乗って帰っちゃたの?」 「ええ。あの二人を乗せてね」 「ハイネ、どうやって帰るの?」 電車はもう走っていない時間だ。 「帰れませんねぇ、朝まで」 ちょっと待て! 万理は慌てて手を放した。 男と別れたその晩に、別の男を部屋に泊めるってのはどうなの? いや、だからどうだってことじゃないんだけれどもっ? なにするわけでもないんですけどっ? 「寝かせませんよ。今夜は」 ちょっ! どっ、どういう意味ですかぁーっ? 顔を真っ赤にして、慌てる万理を尻目に、灰根は真顔で言った。 「いや、冗談ではなく。まだ問題は片付いてはいないんです」 「はい?」 「嘘をついているのでなければ、聡子さんは放火犯じゃありません」 「いや、それは隣の部屋のドアだったんだから、あたしとは関係ないんじゃ……」 「それだけじゃない。彼女はあなたにメッセージを打ってはいないんです」 「あ……、あの『死ね』メッセ? だって、あれ陽一の携帯から……」 「そして会社に告発文書を送りつけたのも別の人間だ」 どういうことなんだろう。万理は、頭を抱えた。他にも自分を恨んでいる人間がいる? 「あたし、そんっなに嫌な人間なのかなぁー。もお、泣きたい」 「泣くんなら私がいる前でにしてくださいよ。後が面倒だから」 いや、あの、面倒って……。 それにしても……。誰なんだろう。火事……、メッセージ……、告発状……。 「あ。」 「なぁにぃ? 日曜に呼び出すなんて。まぁ、別にヒマだからいいんだけど?」 燃えるような赤いジャケットを着た千鶴子は、ファミレスの薄いコーヒーをすすった。万理が電話で呼び出したのだ。 「先輩。単刀直入に聞きます。ウチのアパートに火つけたの、先輩ですか?」 千鶴子は、カップをガチャンとソーサーに置いた。 「はぁっ? なによいきなりやぶからぼうに。そんなわけないでしょ」 「そうですかぁ。じゃ、なんで知ってたんですか? 火事が起きたのが真夜中だって。あたしはあの朝、「昨日火事が」としか言わなかったのに」 ――このくそ寒いのに、真夜中に焼け出されたら堪んないわよね 千鶴子は、目を見開いた。 「そりゃ……、だって……。放火なんでしょ? 真夜中に決まってるじゃない放火する時間なんて」 「なるほど。じゃぁ、会社にある事ない事……、いや、ない事ない事満載の告発状を送ったのは?」 「そんな話は聞いてないけど? そんなことあったの?」 「うーん、最初は社外の人を疑ってたんですけど、よく考えてみると親にも陽一にもあたしの部署名までは教えてないんですよね。「業務課」だって。だから知っているのは社内の人間だけ」 「じゃぁ、社内の誰かなんでしょ。だってあんた嫌われてたじゃない」 口調に険が含まれている。万理は、悲しげに千鶴子を見た。 「わかりました。その件はもう追求しません。最後にひとつだけ。私に『死ね』ってメッセージ送りました?」 「メッセージ? 何のこと言ってるのかさっぱりわかんないわ。言いがかりつけるんならもう帰るから」 「先輩……。すみません。ウラ、取っちゃいました。あの日、メッセージが送られてきた時間、先輩は陽一と会ってましたよね」 聡子には内緒にしておくという条件で、灰根に聞き出してもらったのだ。陽一に。 千鶴子の顔は蒼白だった。万理は、彼女が口を開くまで、辛抱強く待った。 「……なんで、あたしが水曜なのよ」 「先輩?」 「なんで水曜の終電までなのよ。なんであんたが金曜なの? なんで始発までなの? こんな地味でチビでさえない子なのに」 「それだけの理由……?」 比較していたのか。同じ浮気相手同士なのに。いや、だからか。だから許せないのか。 同じように周囲となじめない、同じように一人暮らしの……、だから返ってそのわずかな差が、優先順位として浮き彫りになってしまったのか。 ここにも「女」がいた。女を許せない女が。万理は千鶴子にも勝てない。 「そうよ、全部あたしよ。あたしがやったの。訴えるなら好きにすればっ」 「しません。大家さんにはちょっと気の毒だけど、ドア一枚だし。それにあたし、先輩好きだし……」 ただ、哀しい。それだけ。 「なによそれ。一人だけいい子ぶって。そういうところ、あたしは大っ嫌いだったわよ。自分だけ悟ったような事言って、周りを見下してんでしょ」 悟ってなんかいない。諦めてるだけだ。どうせ上手くなんてやっていけないと。 「あの……」 とにかく何か言わなくては、そう思ってあても無く口を開いたその時。 「聞ーいちゃったぁ、聞いちゃったぁー♪」 万理の頭の上から、脳天気な歌声が降ってきた。見上げると、背中合わせの席にいたらしい人物が、仕切りを越えて顔を出していた。 「柴田さんっ?」 『セレモニーホール紫雲』の社長が、なぜここに。その思いを読み取ったかのように、 「ごめんねぇー。ハイネに無理矢理聞き出しちゃったぁー。今日は仕事でみんな体が空けられないからオレが出ばって来ましたぁー」 席を回りこんで、柴田は千鶴子のそばに座る。 「ども始めましてー。柴田雅彦でーす。まーくんって呼んでね」 「なんなんですか? あなた」 壁際に追いやられ、千鶴子は焦りと怒りがない混ぜの顔になった。柴田は、千鶴子の肩を抱き、空いた片手を、顎に添える。 「オレ? オレは愛の狩人。悪いけど聞いちゃったよ。そんな男捨てちゃえ」 ……うへー。狩人ですかっ! 愛のっ! 何やってるかなこの人は。 万理は、「あ」の字に口を開けてそのまま閉じられなくなった。柴田は、万理の視線などいっこうに構わない。 「いいねぇ。君、タイプだよ。ほら、オレの目、見て」 別人のように、とろける美声で千鶴子に迫っている。驚くべきことに、普段ならこんな時、ビンタの一つでも食らわせるタイプの千鶴子は、身動きひとつせず、柴田の目を見つめ返している。そして、熱い吐息をひとつ、ついた。 「忘れさせてやるよ」 そう熱く囁いて、柴田は千鶴子にねっとりとキスをした。舌を絡める濃厚なキスを。 何が起こっているのだろう。目の前で。 万理は、硬直したまま動けない。ただ、口を開けて見ていた。 柴田が、音をたてて唇を離した。顎を反らして流し目で千鶴子を見つめ、どう? と欲情がしたたるような声で問えば、千鶴子は、ああ、と息を漏らし、自分から柴田に絡みついていった。唇を押し当て、身悶えながら顔を動かしている。柴田の手が、タイトスカートの腿を撫で回す。 万理はハッと、周囲を見回した。見ている。隣の席の客が、ウエイトレスが、いや、店中の人間が、突然の濡れ事に呆けるように見入っている。これは非常にやばい。 「むっちゃガン見されてますけどっ!ちょっと! 二人とも」 柴田は妖しく微笑って、万理を見た。背筋がゾクリとして、万理は千鶴子に目をやった。 だめだ。魂、持ってかれてるよ。 目は虚ろ、喘ぐように息を荒げて、完全に酩酊状態に陥っている。 柴田は、千鶴子を抱きかかえて席を立った。行こうか、と腕の中の女に囁けば、女はうなだれるように頷いた。 「じゃーね」 千鶴子のバッグを拾い、柴田は、万理にそう言い残して、千鶴子を連れ店を出て行った。その場にいた誰もが、その姿が店の外に消えるまで動けなかった。 二人の向かう先は分かっている。例の社長室。愛欲の坩堝ルームだ。 「……せんぱーい?」 万理は、会社を辞めた。別に悪いことをした覚えはないのだが、事務仕事に未練もないし、のちのち後悔もしないだろう。 今回の生霊騒ぎは決着をみたが、万理にはまだまだ解決しなければならない事があるのだ。額に残された印。見通しは付かない難問らしいが、放っておくわけにもいかない。柴田の言葉に従って、三月から『セレモニーホール紫雲』で働くことにした。 今は溜まった有給休暇を消化している状態で、実にのんびりとすごしている。 今日は、お礼かたがた、菓子折りを持って会館に訪れた。 と、言っても、今夜の通夜の準備中なので、二階の従業員控え室で、代わる代わる入ってくるメンバーに、挨拶し、少しおしゃべりをする程度だが。 最初に海野と言葉を交わし、入れ替わりに入ってきた川瀬と笑いあい、山岐に重々頭を下げて、またぽつねんと一人になった時、灰根が入ってきた。 「おやおや、生霊が去ったと思ったら、またいろいろ増えてますね」 「嫌なこと言わないでよぉーっ」 「大丈夫。ここで鍛えられたら、ザコくらいは祓えるようになるし、寄り付かなくもなります。ま、それなりに厳しいですが、ついて来てくださいね」 灰根は機嫌が良さそうだ。万理は気になっていた千鶴子の事を話した。灰根は、さほど問題視していないようだった。 「そうですか……。それなら大丈夫でしょう。もうあなたに危害を加えることも無くなります」 「それなら、って何? 何が大丈夫なの? ていうか、あれって何? 洗脳っ? 催眠術みたいなもの?」 あんなに簡単に千鶴子が誘惑されるなんて。妖しい術でも使ったとしか思えない。 「そんなのじゃないですよ。彼女はそれだけ苦しんでいたのでしょう。自分がしたことにね。自分の意志でついて行ったんです。間違いなく」 「救いを求めていたってこと……?」 灰根は頷いた。 「あなたは、誘惑に乗らなかったんでしょう。社長、ぼやいてましたよ」 「誘惑なんてされてな……。あ。」 ――落としてあげるよ。オレに身を任せてくれればね されたのかっ? 誘惑だったのかアレ? うーん、もしかしてあたしって鈍感なのか。 そして。 「もうひとつ、聞きたいことがある」 「なんです」 「ずっと不思議だった。どうして、ハイネはこんなにあたしに親身になってくれるのかなって。何か理由があるのかなって」 灰根は、うーん、と天井を見上げていたが、万理に視線を戻し、真顔で言った。 「ひとつには、社長命令です。逸材を逃がすなと」 ああ、カブトムシ採集のためにね。 「ふたつめ。川瀬さんに言われました。一度拾ったら最後までちゃんと面倒をみろと」 あたしは、捨て犬か。川瀬さん、きれいな顔して結構ひどい。 「そして、個人的には……」 「個人的には?」 灰根は額に手を当て、わざとらしく嘆くようにうつむいた。 「例のアライグマですが……、しばらく遊びに行かない間に、病気で死んでしまっていたんです。だから今回も、目を離すとうっかり死んでいるのじゃないかと思って心配で心配で」 「わかりましたもういいです」 窓の外は雪だった。山は積もっているだろう。ねぇ、と灰根に声をかける。 「笹井さんのところ、いつ行こうか」 二人でまた来てくださいと言ったのだ。彼は。 「そうですね。あそこは桜の山なんです。花盛りのころにでも行ってみましょうか」 こんな風に、約束が出来ることが、万理は嬉しい。笹井が作ったタヌキと白ヘビは、万理の部屋の棚に並んでいる。 千鶴子から電話があった。 すとんと力が抜けたような声で、ごめん、と千鶴子は言った。 『どうして、あんなことしたのか……、今ではわからないのよ。どうしてあんなに、万理のことが憎かったのか』 「そうなんですか」 万理もつられて、すとんと返した。 『平井君とも、別れたし。どこが良かったのかしらあんな軽薄な男』 気になっていたことを、聞きにくそうに万理は尋ねた。 「あの……、柴田さんと……、えっと、あの後……」 『うん、寝たの』 「そ、そうですか」 『……すごかった』 電話の向こうから、深いため息が聞こえた。 「は、はぁ……」 『そしたら、なんだか思いつめてたことが、何もかもどうでも良くなって』 落ちた、ということか。しかし、そうしたら千鶴子は、陽一に傾けていた執着を、今度は柴田に向けることになるのではないのか。 しどろもどろでそう聞くと、千鶴子は、 『それが……、そんな気は起こらなかったのよねぇ、まったく。あの人は……、柴田さんはそういう恋愛の対象にはなりえない、別次元の人間って感じ。不思議ね』 一種のカリスマみたいなものか。きっと、会館で会った和風美人も、そう感じているのだろう。柴田は「天分」だと言っていたが、それは本人にとって幸せな事なのだろうか。 また、連絡するわねと、罪のない声で言って千鶴子は通話を断った。 それでも……、と万理は思う。 千鶴子は、本来の自分が変ったわけではない。聡子も、もちろん万理もだ。 生きている限り、また、人と出会い、関わり、泣いたり笑ったり怒ったり、嫉妬したり憎んだり憂えたりするのだ。念が生まれる。澱は溜まる。 万理は、自分の中の、深い広い冷たい暗闇を思い出す。 そして、その資質がまたどんな問題を抱え込むかはわからない。 今は、支えてもらおう。あの優しい人たちに。 そしていつか、自分が誰かを助けてあげられるようになればいい。 雪の下に、芽吹こうとしている生命が春を待っている。 新しい季節の到来に、万理はほのかな期待をよせ、微笑んだ。 だが、この時万理は、灰根の再三にわたる忠告を忘れていた。つまり、覚悟が足りなかった。 それはまた、別のお話。 (了)
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