百日紅

1/1
前へ
/6ページ
次へ

百日紅

 ――生きてることが嬉しい、そう思えるんだ  ――こうして待っていてくれる君の姿を見ると  いつもあのひとはそう言った。   ヒグラシの声。 遠く、高く、飛行機の横切る響き。 私は、午睡から、醒めた。 まどろみながら、目を移せば、彼方に竜の巣のような入道雲が見えた。 ここは、どこだったかしら。 子供の頃からそうだ。たとえ住み慣れた家の、自室であっても、昼寝から覚めると、自分がどこに居るのかが分からなくなる。 ぼんやりと霧のかかった頭で、もやもやと思い巡らす。 今日は何日だったかしら。 今朝は、何を食べたんだっけ。 この花は、こんな色だった? ……やめた。私は考えることを放棄した。いつだって、考えすぎると結局はろくなことにならない。 私が、横たわっていたのは、木のベンチ。 あのひとが作ってくれた、この日除け棚の下で、いつでも私は待つ。あのひとは、連絡も寄こさずに突然現れるから。 ここからなら、あの細い坂道を登って来るすべてのものが見える。 郵便配達の赤いバイク。 パトロール中の太ったブチネコ。 そして――、息を弾ませてやってくる、あのひと。 あのひと――。 私は、小さくため息をついた。 このところ、ずっと、あのひとは来てくれない。 今回はどのくらい、待ったっけ。 二ヶ月? 三ヶ月? 考えちゃだめ。考えても良い結論にはたどり着かない。 そう、何も考えないで、ここにこうして座って、ただ待っていればいい。 また、ぼんやりとしてきて、私は、ゆっくりと木のベンチに身を横たえた。眠くなったら、眠ればいい。 ああ。この花はこんな色だったっけ。 こんちはー、という声で、もう一度私は目を開いた。 陽炎みたいに燃え立つ大気の向こうに、ゆらゆらと揺らめく姿がこちらに向かってくるのが見えた。 私は、慌てて起き上がり、腰を上げた。 待っていたのよ。待っていたわと思わず叫びそうになった。 そして、持ち上がった頬の筋肉が、力無く下りるのを感じた。 ……ちがう。あのひとじゃない。 男は、痩身をひょこ、ひょこ、と左右に、上下に揺らしながら、歩いてくる。 黒っぽいスラックスに、同色の上着を肩にかけて。Yシャツの袖を捲り上げ、襟を大きく開けて、汗を拭き拭き、男は歩いてくる。 私は、失望し、腰をすとん、と落とした。セールスマンだろうか。こんな他に民家もない、登り坂の果てまで、ご苦労様なことだ。 男が、そばまでやってきたので、私は、何も要りませんよ、と横を向いた。 「いやぁー、今日はあっついねー。君、暑くないのー?」 やけに大げさな口調と仕草で男はそう言った。 「別に」 私が冷めた声でそう答えると、男はあははー、と笑い、辺りを見渡した。 「あー。見事なサルスベリだねー」 私は、地面を見たまま、それには答えなかった。 そう、この庭には、何十本もの百日紅の木が植えられていた。あのひとが好きで、かき集めたものだ。 「筒井……文絵さんー?」 男が私の名を呼んだので、思わず見返し、はい? と答えた。 「私を知っているの? あなた、どなたですか?」 男は、目を細めて、ニコ、と笑い。その細長い顔を突き出した。 「どもー。滝井さんの代理人です」 滝井。一瞬迷って、気がついた。滝井はあのひとの名字だ。いつも下の名前で呼んでいたので、そう思いつくまでに時間がかかった。 「何の代理? 何のためにここに来たの?」 「あなたをね、こっから連れ出すために来ましたー」 「連れ出す?」 いぶかしむ私にかまわず、男は私の横によいしょと座った。 「滝井さんは、もうここには来ない。君はここにはもういられない。それを伝えにねー、来たのー」 「……」 頭の奥で、砂が崩れ落ちるような感覚を覚えた。 ……来ない。もう。 心変わりをしたと言うのか。それをこの人に、ことづけたというのだろうか。 男は、横に長い、細い目で、じっと私を見つめた。そして、唇の両端を吊り上げた。 「へぇー。愛人なんていうから、どんな男殺しかと思ったら、結構清楚なお姉さんだー」 その言葉に、一瞬全身が冷えた。 あのひとは、この男にそんなことまで……。 いや、もしかしたら……。 「それを知っているのはあなただけ? それとも……」 「そ、バレましたー。滝井さんの奥さんに」なぜか楽しそうにそう言い放つ。「奥さんどころか、お子さんたちにもねー。親類中にもバレてしまいましたー」 そうか。だから私は、ここを出て行かなくてはいけないのだろう。 ならば、この男は弁護士かなにかなのだろうか。 男の名は、シバタと言った。 シバタは、やっぱここ暑いよー、と私の手を引いて、勝手に玄関を開け、家の中へと入った。私は、ただただ力が抜け、何も考えられず、彼に導かれてソファに身体を預けた。私は、一人の時は、夜になるとここで眠っていた。 小さな白い家。あのひとが私に与えてくれた。あのひとを待つためだけに、私はここに棲息していた。もう何年も。 私は、自分が座っている場所の隣を、そっと撫でた。ここにいつもあのひとは座っていた。 何故だろう。悲しみも怒りも感じない。 シバタは勝手にエアコンをつけ、冷蔵庫を開けて中を探っていた。本当ならなんて図々しくて非常識な人だと怒るところだろうが、私にはそんな気力は残っていなかった。ただ、ああ、終わったんだな、とそれだけ。 シバタは缶ビールを2本持って、私のそばに来た。そして、当然のように、あのひとの場所……、私の隣に座った。 景気よくプルトップを開けて、一気にビールを傾け、喉を鳴らした。よほど渇いていたのだろう。ふぃー、と息をついて、私の前に置いた缶に向けてあごをしゃくった。 「飲まないのー?」 私は、首を横に振った。今はアルコールも、冷たい飲み物も、欲しいとは思わなかった。 「今日が見納めだから。この家も。そのつもりでねー。あ、ビール、も一本ちょーだいね」 のんびりとシバタはそう言った。なんて調子の良い人だろう。 どういう経緯であのひとの家族に私のことが知れたのかはわからないし、どうでもいいことのような気がした。なにはともあれ、私はここを出なくてはいけないのだ。 「もう、ここに、彼は、来ない、のね」 シバタは、こく、こく、こくと頭を上下した。 あのひとを待つ、という使命が、終わってしまった。唐突に。それなのに、涙も出ない。 シバタは、ふー、と息をついて、缶をテーブルに置いた。 「あのさー。フミちゃん。オレ、今日中に東京に戻らなきゃいけないんだー」 言わんとするところは分かった。 「つまり、早く準備をしてこの家を出て行けって、ことね」 「準備ったって、何もないでしょーに」 その通りだ。この家にあるものはすべて、家具からなにから、あのひとが買い与えてくれたものだ。それこそ歯ブラシ一本まで。私にそれを持ち出す権利は無い。 「……わかりました。その前に家の中を、もう一度だけ見てもいいでしょう?」 「どーぞ」 「シバタさん、あなたはもう帰っていただいて結構よ。気持ちが落ち着いたらちゃんと出て行くから」 「そーゆーわけにはいかないんだなー。オレは君をここから送り出すまでは帰れない」 なるほど、信用できないということか。それでも、彼の家族と顔をつき合わすことを考えれば、ただ出て行けというのは、ありがたい気がした。人と争うのも嫌だし、権利を主張する気も無い。裁判にでもなれば、一方的に悪者にされるだろう。 私は、煙草を吸い始めたシバタを置いて、ソファを後にした。 小さな家。2階も無い。あのひとはここを『安らぎの巣』と呼んでいた。 私は廊下に出て壁や天井を見渡した。 小さな額に納まった絵。あのひとのお気に入りだったドイツの古城の絵。 この廊下を、寝室へ運ぶ夜食の盆を持って何度も歩いたものだった。 ベッドルームの扉の前まで来て、私はノブに手を伸ばせずにいた。 この扉を開けられない。 幾夜も重ねた二人の時が、この向こうには今も残っている。身を寄せて、熱を絡ませて、この世の何もかも忘れて交じり合った、その思い出が、いや、想いが、行き場も無く留まっている、そんな気がして。 怖い。この扉を開けてしまったら、私は二度と立ち上がることさえできなくなってしまうのではないか。そんな気がする。私は、なすすべもなく、その場にうずくまった。 「見ないのー?」 頭上から、声がふわりとかぶさるように降りてきた。 シバタがニコニコと笑いながら、私を見下ろしていた。 そして、ノブを握って、扉を押し開けた。 「やめて! 開けないで!」 私の静止を気にもとめず、シバタは大きく扉を押し開いた。 一瞬私は目をそむけ、そして、その静寂に、おそるおそる目を向けた。 何も無い。 何も無かった。 もちろん、ベッドやタンスはある。ただ、部屋いっぱいに渦巻いていると思われた、二人の想いや、思い出や、なにかしらこう、思念のような塊、そういったものは、何も感じられなかった。 しん、と静かな空間。 整えられた寝具。 ベッド脇の小さなテーブルには、うっすらとほこりが見えた。 ああ、私は待つことばかりに気をとられて、掃除すらずっと怠っていたのか。 「なにも……ないわね」 他人のような自分の声を聞いた。 「そだねー」 シバタも軽くそっけなく、そう言った。 部屋の窓へ寄り、角度を変えて、もう一度部屋を見渡した。少しも印象は変わらない。おかしなものだ。初めて来たホテルの部屋のように、他人行儀な空間。 追いついていないのだろうか。感情が。 終わりだとか、別れだとか、そんな感傷的な気分になれないのは、ショックが未だに脳まで到達していないのだろうか。 ご感想は? とシバタに問われ、私は別に、とつぶやいた。 自分の感慨をつかみきれないまま、私はあきらめて部屋を出ようとドアに向かった。 目の前に細長い腕がにゅ、と突き出され、行く手を阻まれた。 「そう急ぐことないじゃーん。ここでゆっくりしよーよ」 シバタはへらへらと笑っている。私は無言で彼を睨みつけた。 彼が、少しも悪びれずニヤニヤしているので、不愉快になり、彼に背を向けた。 「早く出て行った方がいいんでしょう、私」 「どこ行くつもりー? あてがあんの?」 「ないわよ」 両親はとうに他界していた。親戚を頼るつもりもない。 「だったらオレに任せなよー。身も心も」 シバタが、やはりなんでもないように言った。その言葉に私は、かっ、と熱くなった。 このどくんどくんと全身をかけ巡るものはなんだろう。血か? 怒りか? 私は震える背で、シバタの存在に抵抗した。 「……あなたは誰? 弁護士じゃないの?」 「オレ? オレは愛の狩人」 「ふざけないでっ……」 振り返りざまに、シバタの両腕が、私を抱きすくめた。と、思う間もなく彼は、それー、と声を上げて、私ごとベッドに飛び込んだ。 私は、吃驚してきゃぁ、と声を上げ、シバタは、あはははー、と大声で笑った。 「ここでの最後の思い出、二人で作ろっかー。調度ベッドもあることだしー?」 「冗談やめてっ。大声出すわよ」 「あははー。出せばー? 誰にも聞こえないよーん」 私はぎり、と唇を噛み締めた。確かに、この辺りには、民家も無い。だから彼は、ここを選んだ。都会の喧騒から逃れたいのだと、そう言った。ここに来るとホッとする。生きてる気がするんだ。そう言った。 シバタはケラケラ笑いながら、私ごとベッドの上をごろごろと転がったが、ピタリ、と声と動きを止めた。 覆いかぶさる格好で私を見下ろし、長い指を私のあごに当てた。そして、別人のように、低く妖しく囁いた。 「天国に連れてってやるよ」 その目は、さっきまでのシバタのものとは思えなかった。私は、その視線に絡み取られて、動けなくなった。 「……私は……」 「もう、未練もないはずだよ」 未練? あのひとに? この家に? 私たちは終わってしまった。 終わった……。無くなった。この部屋にも、もう何もない。まるで初めから何も無かったかのように。 「何年、愛人やってた?」 問い詰めるような声だった。 「もう忘れたわ」 そう、年月を数えることすら忘れていた。 「教えてあげるよ、4年。4年と2ヶ月。君が彼と出会ってからね」 そんなにもなるのか、世界から忘れられたようなこの場所に棲みついて。 「そう……、4年……」 違和感を感じた。2ヶ月……? 瞳を移ろわせる私の頬を、シバタの手がそっと撫でた。 「ひとつ、聞かせてくれるかい?」 「なにを」 「君は、滝井さんのこと、愛してた?」 私は、思わずシバタを見返した。 「何を聞くの、今さら」 「大事なことだよ。考えてごらん、あのベンチに座って待ってた間、君は幸せだったかい?」 「そんなこと……」 「待つ、という行為自体に、執着してただけじゃないのかい?」 私は言葉を失った。 そんなの馬鹿げてる、そう言いたかった。 言えなかった。 透明で柔らかな檻に、捕らわれたまま、私は時を過ごしていた。 いつか、誰かが連れ出してくれることを待ってたのではないか。この心地良い牢獄から。 それが、この男だというのだろうか。 私はやりきれない思いで、激しく頭を振った。 「ちがう……。ちがう。愛してた。だから待てたのよ。あのひとのこと」 出会った途端、なにもかも捨てた。悩む間もなくこの家の虜になった。ただここで待つ、それだけに年月を費やした。執着だけでそんなことはできないはずだ。 シバタはゆっくりと顔を傾けて、私を覗きこんだ。 「そう。滝井さんもね、君を愛してたよ。死ぬほどね」 「……そう、なの?」 「すごく、身勝手に」 「どういう意味?」 「だって、そうだよね? こんな片田舎のこんな家に君を閉じ込めて……」 「私は納得してここにいたのよ」 「いや、身勝手だよ。間違いなく。彼の愛し方は」 「あのひとのこと、悪く言わないで」 瞬間、シバタの顔に、痛みのようなものが走ったように見えた。彼は弾かれたように、私の頭を押さえつけ、強く口接した。私は混乱した。 強引で、乱暴で、まるで私の身体から、何かをえぐりだそうとしているようだった。ズキン、と私の体の奥が疼き、同時に、耐えられない哀しみのような痛みが私を襲った。 私は、彼の胸を押し戻し、思い切り頬を打った。 「愛人してた女だからって、誰とでも寝るわけじゃないのよっ!」私は、絶叫に近い声で言った。身体中の血が騒いでいるようで、怖くなったのだ。「後悔なんてさせないでっ。無意味なものになんてしないでっ。あなたは何の権利があってこんな……。私は、そんな女じゃない!」 「……わかってるよ」 シバタの声に、静かな切なさが混じっていて、私は、はっ、として彼を見た。彼の目は、哀しげだった。 「う、そ」 「わかってる」 なぜそんな目で私を見るの? 同情しているの? 情夫に去られ、棲家を追われ、一人きりになってしまった女を可哀想だと思っているの? シバタは私の胸に顔を埋めて、弱々しく言った。 「もっと、前に出会ってれば良かったね。こんなことになる前に」 「こんなこと……?」 なんだか、妙な言葉だ。 「そっか、まだ、わかんないか。そーだよねー」 シバタの声が、元のような軽味を帯びた。 彼は、一度深く深く呼吸をして、顔を上げた。哀しそうに微笑んでいた。そして、そっと身を起こし、窓の外に顔を向けた。 「さっきの続き、話そうかー」 「さっき? なに?」 「滝井さんが君をすごーく愛してたって話」 「聞かせて」 シバタは立ち上がって、両腕を上げ、んー、と伸びをした。 「先ずこれを言わなきゃいけなかったねー。滝井さん、亡くなったんだよねー」 軽く、軽く、シバタはそう言った。だから、しばらく私は言葉の意味が理解できなかった。 「なくなった?」 何を紛失したというのだろう。そう思った。 「そ。遺書にね。君のことと、この家のことが書いてあった」 「いしょ……。いしょって遺書?」 「そー。遺書」 「つまり……?」 シバタは、窓辺に近寄り、両開きのガラス戸を開け放った。そして、ゆっくりと頷きながら、後ろ姿で言った。 「そ。首吊ったの。自殺でーす」 とたんに、鳴き納めのアブラゼミの声が、やけくそのように押し入ってきた。 「オレの正体を明かさなきゃねー。オレはね、葬儀屋さん」 「葬儀……。お葬式?」 そうか。黒っぽい背広だと思った。 黒、だったんだ。 私は、そんなことをぼんやりと思った。シバタの今言った「自殺」という言葉を、遠ざけるように。それでも、シバタはそれを許してはくれなかった。 彼は夏の陽を背景にして、こちらを振り向いた。 「滝井さんはね、自宅で首を吊ったよ。オレの葬儀会館で葬式をやった。事業に失敗して、資金繰りに悩んでたって、奥さんは言ってた。アフターサービスでね、遺品の整理を手伝ったんだー。普通、葬儀屋はそんなことしないんだけど、奥さんに頼まれてねー」 「可哀想な女に弱いのね。シバタさん」 「まーね。オレ、世界中の女に甘いの」 あははー、と笑って、シバタは続けた。 「遺書はね、彼の車の中で見つかったよ。とても私は見られません。シバタさん、読んでください。奥さんにそう言われて読んだ。そこにはまず、家族に当てて、何度も謝罪の言葉が繰り返されてたよ」 「そう」 死ぬほど愛していたのは、家族の方じゃないか。 「会社の後見の事とか、持ち物の形見分けまできっちり書かれてたから、結局親類にも中身を公表しなきゃいけなくなったんだけどね」 「そう」 「最後に、どうして自分が死ななきゃならなかったか、が書かれてた」 「借金がかさんで追いつめられたからでしょう?」 「一番大切なものを失ってしまった、と書かれてあった」 「大切なもの」 「君だよ」  私は、聞き違いかと、シバタを見た。 「私? どうして? 私はこうしてここで待っているじゃない。私たち、別れ話も出たことないのよ」 「最後に彼に会った時のこと、覚えてるかい?」  言われて、私は目を閉じ、もやもやとした思考のプールを泳いだ。 「あれは……。たしか冬だったわ。一緒にドライブに行ったの。海まで行って、戻ってきて、一緒に夕食を食べて、お酒も飲んだ。私、少し過ごしてしまって、先に眠ったの。眠っている間に彼は居なくなってた。いつものことよ。別にケンカも、言い争いすらしなかった」 「そう、彼は帰った。君を置いて。そして、思い直して戻って来た」 「戻って……? なぜ?」  シバタは、それには答えず、片手を振って私を招いた。私はベッドから腰を上げて、それに応じた。彼はそっと私の手を両手で包んだ。 「滝井さんは、君を愛してた。この上なくエゴイスティックにね。他の誰にも渡したくなかった。それでも、この土地も家も手放さなきゃならない。君は自分の元を去るだろう。そう思った。それが耐えられなかった」 「そんな……。そんなことひと言も……」 「だから殺した」 「……誰を?」 「君を」   じーわ   じーわ   じーわ セミの声だけが、この世の音だった。 シバタは、固まった、少し哀しげな笑顔を貼り付けたままだった。 「わたし……?」 シバタはようやく、こくこくとうなずいた。 「そ。ドライヤーのコードで、眠ってる君の首を絞めてね」 「なにを言ってるの?」 彼は、私のひじを取って、窓の方を向かせた。 「フミちゃん、ほーら、アレ見てごらん。あの百日紅の花、何色に見える?」 何を言っているのだろう。百日紅がどうしたと言うのだろう。 私は、窓の外の風景に目を投じた。 「……白、でしょ」 あのひとは、白い百日紅が好きだった。それらは、今を盛りに咲き誇っている。 「じゃ、アレは? 君が座ってたベンチのそばのヤツ」 「あ……」一本だけ、目の覚めるような濃いピンクの花をつけていた。「赤……?」 「そ。オレにもそう見えるよ。でもね、フツーの人が見たら、アレは白、だ」 「普通の人?」 シバタは腕を伸ばして、私の肩を抱いた。 「近日中に、ここには何人もの人間が来る。あの根元を掘り返しにね」 私は、ただ一本、赤い花をつけた百日紅の木を凝視した。 シバタの手に、ゆっくりと力がこもった。 「だからオレはここに来た。君に見せたくなかったからねー」 「なにを……?」 「あそこに埋まってる君を」 「私……?」 「そう、君の死体をね」 埋まってる? 私は、足が、身体が、床から15㎝ほど、浮いているような、そんな覚束ない気持ちになった。 「バカなこと言わないで」 「自分がどんな格好をしているか判ってる?」 言われて、私は、自分を見下ろした。この真夏に、ざっくりとしたセーターを着込んでいた。あの日、あの冬の日、アルコールに酔った私は、このままの姿でソファに眠った。 そう言えば、シバタは言っていた。 ――君は暑くないのー? それでも、私にはそれは到底受け入れられるものではなかった。 「なにそれ……」 「君はね、自分が死んだことに、気付かずにいたんだよ。ずーっと。この半年」 「半年……」 私は、さっき感じた違和感を思い出した。 シバタは、4年と2ヶ月と言った。私の心があのひとに囚われてから。 私があのひとと出会ったのは、24歳のクリスマスイヴだった。かつての恋人に、よりによってそんな日に別れを持ち出された。 一人で街を歩いていた私に、声をかけたのがあのひとだった。 今は夏……。 シバタは、まわした手を、そっと私の髪に移し、梳くように撫でた。 「ねぇ、フミちゃん。今、滝井さんの顔、思い出せる?」 「……当たり前でしょ……」 片えくぼがあった。最近お腹が出てきたね、と笑った。その目は……、その鼻は……、口は……。 私は愕然とした。  思い出せない。 「そんな。待って。えくぼがあるのよ。走ると息切れするの。顔は……」 思い出せない。あのひとの顔が。 えくぼだとか、息切れだとか、そんなものは、すべて、断片的な情報としての記憶、いや、記録だ。情報だ。 「君は、この家の中でなくて、あのベンチにずっといた。『待つ』という『執念』になってね」 今ここにいる私は、あのひとをもう慕うことも無くなった、ただの妄念。妄執。 「……私、死んでるのね」 「もっと早く出会ってれば良かったよ。君の肉体があるうちに。君のその執着を落としてあげられたのにね。そしたら、君はここを出て、新しい人生を選べたかもしれない」 執着を落とす……? 「あなたは、どういう人なの?」 「そういう人なのー」 「私、幽霊なのね。なのに不思議。さっきから肉体(からだ)を感じるのよ」ずっとずっと、夢の中にいたような感覚だったのに。そう、この人を目にした瞬間から、血が逆流したり、胸の痛みを感じたり。目が覚めたようにリアルが迫ってきた。「そもそも、あなたは何故、私に触れられるの? 『そういう人』だから?」 「まーね」 「そう……」 私は、もう一度部屋の中に向き直った。 やはりそこに、特別な感慨は見つけることができなかった。 「あのひとは……、本当に身勝手な人だったのね。家族に読ませる遺書に、そんなことを書き残すなんて」自分に正直で、残酷な男だったのだ。だから、私を何年も閉じ込めて平気だったのだ。私は薄く笑った。「そして、私も薄情な女だわね」 シバタは、眉尻を下げて微笑み、私をもう一度、正面から抱きしめた。 彼の体温を感じた。なぜか、安心感を覚えた。身も心も任せなよ、と言った彼の言葉を、受け入れられる気がした。 耳元で、優しい声が私をくすぐった。 「オレはね、君を送ってあげられる」 「どこへ?」 「ここじゃないどこか。でも、ここよりもずっと良いところ」 「私が、行くべき場所?」お互いの髪の毛が触れ合っている部分で、彼がうなずくのを感じ取った。「……そう。いいわ。お願いするわ」 シバタは、私の頭を引き寄せ、もう一度キスをした。さっきとは違う、柔らかな想いのこもったものだった。そして、その尖ったあごで、ベッドを指し示した。 「ここがいいかい?」 「ここじゃないほうがいい」 「そう。じゃ、行こうかー」 シバタは私の手を引き、寝室を出て、家を後にした。 陽が傾きかけていた。 坂道の手前で、私は一度、満開の赤い百日紅を振り返った。そしてその根元を見、ベンチを見た。 私はもう、待たなくていい。 開放感と同時に、わずかに寂寥感を覚えた。 「どこへ行くの?」 少しだけ、不安な気持ちになって、シバタの手を、きゅっ、と握り締めた。彼は、強く握り返してくれた。 「オレの場所。そこからオレは君を送ってあげる」 「どんなところなの?」 シバタは、ニカッと笑い、愛のるつぼ部屋ーっ、と冗談めかして言った。 私は、ようやく声を出して笑うことができた。 そう、半年ぶりに。 (了)
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

11人が本棚に入れています
本棚に追加