11人が本棚に入れています
本棚に追加
『 チヲアカトサダム。 』
「余は、暗黒の王の眷属にして冥府の番人。世界の境界にて、慾と闇と死を司る者である。無限漆黒世界、魔の跋扈する混沌深淵、歪曲する昏き氷焔凍土、穢れを滅極する紅蓮真紅炎の煉獄へと嚮導せし者。原初の理を以て闇き慾望を撃摧し、無謬の行を以て裁き、捌き、泥中へ送る者なり。啻々沈められし運命の者たちよ。さぁ! 恐怖せよ! 悔恨せよ! 身悶えよ! そして、己が脆弱な魂を呪うが良い!」
古めかしくも上質な、黒いビロードの上下を身に纏った偉丈夫が、片手を大きく翻して高らかに言い放つと、向かい合わせに座った吊るしの黒スーツが平らかに、
「またどこでそんなセリフを仕入れてきたんですか。新手の中二病かと思いましたよ。微妙に東西チャンポンになってますし」
と返した。そして、隣で小さく縮こまっている小柄な女性に、小声で語り掛けた。
「大丈夫ですよ万理さん。蔭狛さんは、見た目はいかつくて尊大で威圧感はありますが、とって食われたりはしません」
「あ、あう」
「ご挨拶なさい」
「……は、初めまして。藤田万理で、す」
圧倒され、萎縮してているようだ。
ここは、葬儀会館『セレモニーホール紫雲』の地下2階。
その一枚のドアの向こう側が、ホーンテッドマンションだとは、思いもしなかった……という態度。
黒々としたゴシック様の部屋に、蝋燭が灯され、炎が妖しげに揺らめいている。
壁に映し出された影が、今にも勝手に動き出し、覆いかぶさってくるような想像に捕らわれているようだった。
その上、部屋中に響き渡るバリトンボイスに慄いていた。
蔭狛と紹介された男は、その逞しい顎を撫でて、痩身の黒スーツに問うた。
「その娘は、ハイネ、貴様の子か?」
「違います。確かに万理さんは珍竹林と言えなくもないほど小柄で幼く見えますが、れっきとした成人女子です」
ハイネと呼ばれた男、灰根健は、真顔で答えた。となりで「あのねぇっ!」と、憤怒している藤田万理を片手で制しながら。
「ほぅ、では、貴様の妻か?」
「「ちがいます」」
灰根と万理が、同時に答えた。一方はフラットに、一方は焦って。
ふうむ、と、蔭狛は灰根を諭すように見下ろした。
「我が弟子ハイネよ」
「あなたの弟子になった覚えはとんとございません」
「なぜだ。なぜに必滅の定めに甘んじる」
「こんなでも、まだ、お天道様の下を歩きたいもので」
「貴様以上に、我が後継に相応しき者を余は知らん。貴様は、紛う方なき黒の種族にして、闇属性だ」
「迷惑ですねぇ」
答える灰根の容態は、確かに目の前の精力に満ち満ちた男よりも、闇に相応しい。
万理の、灰根に対するごく初期の印象は、『死神』である。
「そろそろこの使命も、余の手に余るようになってきたのだが……。まぁ良い。して、そこな小娘の、その『間』にひしめいている奴らを引き取れば良いのだな」
「そうです。我が社の従業員として働いてもらうには、彼女の状態は少々不都合ですからね。悪いモノが溜まりすぎている」
「悪い……、モノ?」蔭狛の片眉が、ぴくりと跳ね上がった。「貴様らは「それ」を悪いモノと言うが、「それ」がなければ人間など、ただの腑抜けだ。なればこそ、ヒトのヒトたる所以がそこにある。良いかハイネ。貴様など、「それ」を除けば何も残らぬぞ。この世ではお払い箱だ」
「心外だなぁ」
さて、と、蔭狛は、布張りの椅子から立ち上がり、万理の前に立った。
威圧を感じたのだろう、万理は、それにビクッと反応して、ますます縮こまった。蔭狛は、上げた片眉を下げた。
「そう怖れるなアスマの娘よ。余は貴様に害などなさん。シバタから聞いているぞ。その『間』に引き寄せられた黒きモノどもを、引き受けてやれと」
「は、はひっ……」
「そもそもあやつは、何故自分で浄化を施さぬ。出来ぬではなかろうに」
灰根が横から引き取って答える。
「社長は、異性に対しては、『理趣経房中術』を得意とします。普段なら寝所に導くのもお手の物らしいのですが、彼女には誘導が効かないとかで。大量なモノをひとつひとつをほどいてというのは、苦手なようです。できないわけではないのですが、要は……、面倒臭いのでしょう、『カゲちゃんに丸投げしちゃえーw』と、申しておりました。そして、彼はこの空間も苦手なようです。『暗くて湿っぽいとこ嫌いだもーん☆』だそうです」
「……貴様も大概、ぶっちゃけすぎではないか?」
「おや、そんな言葉、どこで覚えたんですか御大。ずいぶん俗世に染まられたようで」
蔭狛は、ふん、と鼻を鳴らして、「ハイネ、貴様は立て。場所を空けろ」と言い、万理に、長椅子に横たわるよう指示した。
万理は万理で、怯えながらも問うた。
「な、なにするんですかぁ?」
蔭狛は、やや屈みこみ、万理の顔を覗き込むと、ふむ、と息をついた。
「どうにも心もとないようだから、軽く説明してやるとしよう」
「敷衍してお願いしますよ」
と、灰根が口を挟む。
「わかったわかった。子供にも分かるように、嚙み砕いて教えてやる。おい小娘。貴様、魂というものは一個の不変な物質だと思っているのではないか」
「は、はい? えっと……」
「だが、違うのだ。一つの魂は、無数の魂の集まりだ」
「はぁ……」
「その実、中心となる光輝く核があり、それに無数の魂が……、粒魂が纏わりつく形で寄り集まった塊なのだ」
「そう、なの?」
万理の視線が、問うように灰根に移された。灰根が頷いた。
「先日、あなたのその領域に、生霊が飛んで来ましたよね。その本体は、別にある。つまり、あの方、聡子さんは、「嫉妬、恨み」という、魂の一部を飛ばしてきた」
「あ、そうか。それで、戻してあげたんだっけ」
蔭狛が、引き取る形で続けた。
「事程左様に、魂の形は不変ではない。人間が生きている一生の間にも、細ったり、肥大したり、萎縮したり、削られたりもする。そして、死後、それは分解される」
「ぶんかい……?」
「その速度は一律ではない。死んだ次の瞬間に分解、飛散するものもあれば、
徐々に時間をかけてほどけてゆくものもあるのだ」
万理を見守る灰根の口が開いた。
「そうですね、葬儀中にお棺の上に浮遊している故人の霊をよく見ます。式中に、僧侶が引導を渡す。それをきっかけに消える事もあるし、まるで変化の無い方もいます。よく言われるのが、肉体に密着していたエーテル体という霊的質料が現世に存在するのが、仏教では『四十九日』……、ほら、法要をするでしょう? それまでの時間をかけて、エーテル体は徐々に解かれてゆきます。心霊科学では60日などとも言いますが……。必ずしもその期間は決まってはいないようですね。その間は、物質界に関与することもできて、人の目に見えることもままあります。つまり幽霊ですね。ポルターガイストなどの心霊現象も、この期間にいるエーテル体が起こすと言われています」
うわぁ……、と不安げな声を上げる万理に、蔭狛がふん、と鼻息を吐く。
「大したことは出来はせん。生きている人間の方が地上世界ではよほど強いのだ。それでだな、時間をかけても魂はほどけ、核……、我々は『玉』と呼んでいるのだが、その玉は解放されて『上』に昇る」
「うえ?」
「上だ。玉は軽いものなのだ。」
蔭狛は、一本指を立て、上を示した。
「上は……、どんな所なんですか? 昇ってどうなるんです?」
「余は、上のことは知らぬ。地から離れる事ができないからな。だが、現世の記憶を記録として刻まれた玉が、根源に還ると言われているな」
「こんげん……」
「そこでだ小娘。魂魄というのを知っているか」
「聞いたことくらいはあります、けど」
「精神を司る魂は、死後天に昇り、肉体を司る魄は、地に沈むと言われているが、それはかなり大雑把な説明だ。確かに、陰の粒魂は重い、沈むものだ。余は、ここでそれを受け入れ、地の國に振り分ける。だが、まれに、纏わりついた重い粒魂が、玉から離れない現象が起こる。貴様らが、『悪霊』や『怨念』などと呼ぶ代物だ。玉は上に還れず、執念深いものなら、100年200年1000年居座る者さえいる。小娘。貴様のその領域にたむろしているのもそれだ」
「あたしの中の……。あの、いっぱいいるヒトたちも……」
「余は、それをほどいて、玉を開放してやることができる。重い陰の粒魂を沈めてやることができる」
「沈められたリュウコンは、どうなるんですか?」
「地の國で『処理』される」
「地の國……って、地獄ですか?」
「貴様等が地獄と呼ぶ世界もあれば、冥界に該当する世界もある。魔界もあるぞ? そこでいずれ……、そうだな、貴様等の言葉で言えば、洗浄されるとでも言おうか。そして地上へ、上へ戻される。三千大千世界に粒魂は存在しておるのだ。また新たな誕生に際して、玉にその粒魂が纏わり、肉体に降りて生命になる。ただし、まっ更な魂になるわけではないからな。粒魂に残った性質が、その生命の性質を作ったりもする」
「はぁ……。……リサイクル……?」
「わかったか? これから余がするのは、玉の開放の為に、纏わりついた粒魂をほどく作業だ」
無心で聞いていた万理の顔に、ハッと、鋭い意識が走った。
「あ、あの。おばあちゃんは? あたしのおばあちゃんがいるんです。守ってくれていて……」
蔭狛は、少し顔を引いて万理を眺めた。
「ああ。いるな。『間』の中ではないが、右肩にいる。守護者ではあるが、いずれ同じ、『執着』という粒魂に纏われた玉だ」
「ど、どうするんですか? おばあちゃんも解体しちゃうの?」
「せねばなるまい」
「おばあちゃんは悪霊じゃないっ!」
「そうだな。だが、相当傷んでいるようだ。それに、このまま解けずにいれば、いずれ禍をなすものになるだろう」
「そんな……」
「そうなれば、根源に戻ることも出来ず、また新たな生命に宿ることもできず、忌まれながら朽ちてゆくだけだ」
「……」
黙っていた灰根が、膝をついてかがみ、万理の手を取った。
「代わりに私たちが守ります。そしてあなたも、いずれ守られずともいられるよう強くなって下さい。今の内に、お婆様を開放して差し上げるのが、最善だと私も思います」
「ハイネ……」
ほんの少し迷いを見せ、瞳を潤ませながらも、万理は、小さく頷いた。
灰根も頷くと、空いた手で自ら掛けていたサングラスを外し、その灰色の瞳を晒した。
ふん、と蔭狛は、その分厚い手の平を万理の右肩に乗せた。
「今、解放してやる。安心して昇るが良い」
軽く掴むように握った手を、万理の肩から放し、手首を返して手のひらを天に向けてそっと開いた。
蜘蛛の巣にかかった蝶を救い出し、空へ帰してやるように。
そして、こめかみをつたい落ちる万理の涙を、太い指先でぬぐい言った。
「小娘。昇る玉が見えたか」
「……いいえ」
「ハイネ、貴様はどうだ」
「いえ私も……。お婆様の姿が、消えたところまでは見えたのですが」
「貴様も修行が足らぬな。まだ、この使命を継がせるには早いか」
「申し訳ありません。が、継ぐつもりは毛ほどもございません」
「ふん。まぁ良い、言っていろ。さあ、ここからだ」
蔭狛は、万理の前髪をそっと分け、なるほどこれか、と低く言った。
魔のモノが残した印がそこにあった。赤い、紅い印が。爪痕が。
「本体は近くにおらぬな」
「社長もそう言ってましたね。蔭狛さん、見当は付きますか」
「分からぬ。いずれ獣の化生であろうが」言いながら顔を近づけ、鼻に横皺を寄せた。「この匂いは覚えがあるぞ。実に厭わしい感覚だ。だが、……遠い。思い出せん」
「そうですか。」
灰根は悩ましく息を付き、万理の額を見つめた。
「では、当初の予定どおり、お願いします、ほら。万理さん」
おねがいします、とつぶやく万理の瞳は、とろんとしていた。
「疲れたか。やむを得まいヒトの身では。たとえそれが他者のモノとはいえ、魂抜きをされれば消耗もする。良い。眠れ」
言うと、蔭狛は、大きな厚い掌で、そっと万理の両目を覆った。
間もなく、万理は、すうすうと寝息を立て始めた。眠ったのを見届けたのち、その掌底を、万理の額に置いた。
「この印に引き寄せられて、ずいぶんと溜め込んだものだな。どれ」
微かに気合を込めた蔭狛の手に、万理の『間』にひしめいていたモノのひとつが吸い寄せられた。
ふん、と細めた目の高さまでそれを掲げ、つまらん、とひとりごちて、
「夜の闇よりも黒き暗黒に墜ちよ」
と、それを強く握った。それは細かく飛散し、各々落ちて行った。開いた手の中から、丸い光がふわりと浮上し、昇り、黒い天上を抜けていった。
そしてまた、万理の額へ……。
「ふん、どいつもこいつも、俗物ばかりだ。富、名誉、愛欲、嫉妬、傲慢、怠惰、虚栄、瞋恚……」
削られた、または萎縮した、または黒々とトグロをまいた粒魂たちが、蔭狛の手によって、次々と解体され、その度、玉はふわりと、ふらりと飛び去った。
と。
幻想的空間に、リアルな電子音が鳴った。灰根のスマートホンの着信音だった。
失礼、と断ってそれに応じた灰根が、電話を切って言った。
「申し訳ありません、仕事が入りました。お迎えに行かねばなりません」
それに答えて、蔭狛。
「任せておけ。行って良いぞ」
ジッと、眠る万理を見つめる灰根。
「大丈夫でしょうね」
「何がだ」
「二人きりにして」
「どういう意味だ」
「うっかり、彼女の魂まで送ってしまったりしないで下さいよ」
「失敬な奴だな。余を誰だと思っている」
ふぅ、とため息をついて、灰根はわかりましたと頭を下げた。ドアに向かって歩きだしたものの、もう一度振り返り。
「壊さないで下さいよ」
「とっとと失せろ。無礼者」
灰根、退場。
「まったく、あやつは師に対する尊敬と礼儀が欠けておる」
と小鼻を膨らませる蔭狛。
気を取り直して、万理の『間』を探り、お。と声を上げた。
「これは……。ああ良いな。良い『無念』だ。血眼の激情だ。臓腑焦がす程の執念だ。峻厳たる怨氣だ」
ひときわ大きな、黒々と蠢くそれを手にし、満足そうに口角を引き上げた。
「ひと回りしてくるが良い。願わくばその矜持を失わずに戻ることを祈るぞ」
渾身の力でそれを握ると、粒魂は勢いよく弾け飛んだ。
蔭狛は、それらが沈み切るまで、静かに見守った。
そして、開いた手から、強い光を放つ玉が、一直線に飛翔した。
蔭狛は、満足の笑みでそれを見送った。
その後、また淡々と魂の分離作業を続け、それを終えた。
眉を開いて、無邪気に眠る万理。
幼子を慈しむような手つきでその髪を撫でた。
「そうら。これで本来の『空す間』になったぞ。小娘よ。だが、世俗にまみれれば、またすぐに溜まる。障壁を施してやりたいところだが……。それはシバタから止められているからな」
蔭狛は立ち上がって一度部屋の奥へと移動した。
地上には存在しない幻獣が彫られた重厚な扉を開くと、万理の元へ戻り、その小さな身体を抱き上げた。奥の間の寝台へ横たわらせてから、先の部屋に戻り、やはり荘厳な意匠の施された堅い樫のデスクに腰かけ、息をついた。
「それにしても……、やはり不可解であることだな。このところ、実に囚われし玉が世に残され過ぎてはいまいか?」
思いめぐらせていると、机上の多機能通信機器が短く鳴動した。
それを手に取ると、大きな手で器用に操作し、アプリを立ち上げ、
「“Cerberus” である」
と、応答した。声ではなく文字入力で。
それは、リアルタイムチャットのアプリであった。
『“Fallen angel”でやんす。Cerberus殿、今良いでやんすか?』
「構わぬ」
『今夜19時からの団体戦、参加乞うでやんす。メンバー勤め人が多くて間に合わぬとの連絡が相次いでおるゆえ』
スマホゲームの協力プレイを要請する内容であった。
「うむ。構わぬぞ。時間という概念の融通なら、いくらでもつくのだ」
『いつもありがたいでござる~。あのー。大変聞きにくい質問でやんすが、Cerberus殿、もしかして……、ニート……、いやいや、答えなくても結構でやんすよ』
「何をぬかすか。余は常に使命を全うしておるぞ。今も大量の迷える魂を地獄へ送ってやったのだ」
『……へ、へええ。物騒でやんすね。察するところ……、フリーの害虫駆除業者……、いやいや、リアルの職業を聞くなんてヤボの極みでやんすよね。失敬失敬。いつも気軽に誘いに応じてくださるもんでもしかして同志?! と思ったんでげすよ。いやぁ~、ニートは時間を持て余して持て余して……』
「早急に己の使命を見つけ、粛々と全うするが良い」
『えぇー……、Σ(・□・;)働きたくないでござる~★』
「不届き者め。全ての存在は、果たすべき役割を持っておるのだ。大いなるモノが均衡を保つべくそのし」
蔭狛の指が止まった。その気配に顔を上げると、目の前に、いつの間に現れたのか、一人のラフないでたちの青年が立っていた。
長い金髪、萌え絵Tシャツ。穴あきジーンズ。
「王。貴様、何しに来た。何か用か」
と、蔭狛は鼻にシワを寄せた。
王と呼ばれた青年は、抜け目のなさそうな上目を使って、蔭狛を見返した。
「ハァールゥオ大人。用もなくワタシがこんな湿気たトコくるわけないアルよ。ちゃぁんと上からの用、アルね」
「ふん、木っ端役人風情が、余の前にのうのうと現れおって」
「哎呀。ゴ挨拶アルねご老体。お上の犬て意味なら、ワタシ達、御同胞のこと、チガウか?」
「貴様等と我等が一族とは、相容れない種族であるには違いなく」
言うと、蔭狛は、尖った犬歯を剝き出し、唸った。
「アー恐イ恐イ。分かたヨ。上からの通達、伝えたらスグ帰るネ」
「通達だと? そのようなもの、メールかチャットで送れば早いものを」
「高次の世界からそんなモン送ったら、大変アル。オカルトね」
困ったように眉を下げた王は、その白く端正な顔を、蔭狛の耳元に寄せた。
蔭狛は、まず、クンと鼻をひくつかせ、「うん? この匂い……」とつぶやいたが、王の囁いた言葉に、目を見開いた。
「どういう意味だ? 元来、血液は赤と決まっているではないか」
「そのチじゃナイね」
どこから取り出したものか、王は赤い紙札を二本の指で蔭狛の額に貼り付けた。
途端に、蔭狛は王を弾き飛ばした。
「何をするっ?!」叫びながら、その札を剥がそうとするも、腕も指も、思うように動かせないようで、ひたすら踠いた。札の貼られた箇所から、蔭狛の顔面が、赤黒く染まってゆく。「……謀りおったな。おのれ野良役人の分際で……」
「恨むならジンジ恨むネ。再見、老害。往生するヨロシ」
冷ややかな眼差しで微かに笑いながら、王は後退った。2本の指で剣指を作り、哈! と斜めに空を切った。その姿は搔き消えた。
「この部屋でいいのかな? 万理ちゃーん?」
セレモニーホールでの遺体安置の後、担当者となった灰根に乞われて、同僚の川瀬一流が、件の部屋のドアを開いた。中は真っ暗で、彼は壁に手を這わせて探りあて、スイッチを入れた。
中はガランとして、あるのは古い事務用のスチールデスクがひとつ。
視線を這わせれば、部屋の奥の暗がりに、
「万理ちゃん!」
横たわる万理を発見し、駆け寄り、呼びかけた。
「……んん……? あれ? 川瀬さん?」目をこすりこすり、万理は目覚め、辺りを見回した。「あれ? 蔭狛さんは……?」
「カゲコマさん? 誰かと居たの? ボク、ハイネに頼まれて万理ちゃんを迎えにきたんだけど」
「あれ? ここどこ? さっきまで、呪われた洋館みたいなトコにいたんだけど……」
「万理ちゃん寝惚けてる? ここ、会社だよ?」
あれぇ……? と、首を捻り、立ち上がろうと手を床についた途端、
「うわっ!」
と手を引いた。何かが手に触れた。
「なにこれ?」
万理の側に、ひと山の土くれがあった。黒い黒い、土、だった。
「なんでこんな所に……?」
半ば、土に隠れるように、何かがあった。スマートホンだ。
手にして土を払い、電源ボタンを軽く押すと、画面が浮き上がり、文字が並んでいるのが見えた。
『Cerberus殿 いかがされたでやんすか? 応答願う☆ ……寝落ちかな?』
「ん~? ハイネのかな?」
川瀬が、パン、と手を叩いた。
「そうそう。万理ちゃん、ご遺族様が入られたから、お茶の接待に戻って欲しいってハイネが」
「あ……。はい」
川瀬に連れ添われて、階上へ。
お茶の用意をし、安置室へと入室すると、神妙な空気がその場に漂っていた。
灰根が資料を提示し、遺族と通夜葬儀の打ち合わせをしていた。
その灰根が、万理を見止めると、その黒く丸いサングラスをずらし、眉根を寄せた。
遺族の前で、私的な会話も交わせないので、万理は頭を下げて部屋を出た。
事務所で業者の手配や、事務処理の手伝いをしていると、打ち合わせを終えた灰根が戻って来て、「ちょっと」と手招きをした。
人気のない資材倉庫。そこで灰根は、万理を壁際に立たせ、真剣な面持ちでサングラスを外した。
「万理さん」
「な、なに? あたしなんかした? ハイネ、なんでそんな恐い顔……」
「動かないで」
「……ちょっ、ちょまっ!」
灰根の顔が近づいてきて、万理の緊張がピークに達した時。
「どういう事ですかっ!」
困惑と苛立ちの混じった声を、灰根が発した。
「……はい?」
「蔭狛さんは一体何やってたんです。まだ何か残っているじゃありませんか! 真っ黒な大物が」
「えーっとぉ……。何のこと?」
聞けば、万理の例の領域に、『何か黒いモノ』が、灰根の目に見えるということだった。正体は分からない。今までそこに居据わっていたモノとは、明らかに違う何か。
「あれから……、私があの場を離れた後、どうだったんです」
「あ、あたし寝てたもん。知らないよぅ。でもね、変なの」
目が覚めた時のあの部屋の変わりよう。残された土。蔭狛の不在。
灰根は深く唸って目を閉じ、サングラスを掛けた。
連れ立って事務所に戻ると、川瀬に自分の見たモノを話し、万理を彼の前に立たせた。そして、万理の額に触れるように促した。
「……どうです? 川瀬さん、どんな感じがしますか」
「どうって……?」
「何か、良くない感じはありますか?」
「うーんと、特にないよ? むしろ、気が満ちて充実してる感じ」
「そうですか」
そう言うと、万理に向き直った。
「今日は社長が留守ですから、明日、相談してみましょう。あなたも定時になったらお帰りなさい。帰ったら大人しくして、できるだけ早く寝るように」
担当者で宿直の灰根は、このまま会社に泊まることになる。相談もできないとなると、言われるまま従うのが良いのだろうと、万理は素直に頷いた。
万理は、寮のアパートに帰ると、手軽にカップ麺×2で夕飯を済ませ、何をするともなくボーっとしていた。
今日の出来事を思い出すと、頭が混乱してくる。一体何だったのだろうと。
魔王のような蔭狛との邂逅、祖母との別れ、その後の記憶はないが、覚醒した時の状況。土……、スマホ……。
「あ、いっけない。スマホ持って帰ってきちゃった。ハイネに聞くの忘れて……」
『ああ、それは余が貸与された通信機器だ』
「あ、これ、蔭狛さんのだったんですね。貸与ってことは会社から……って……、え?」
『今何時だ。ああ、調度いい。おい小娘、ログインせよ。団体戦が始まる』
「えええええーーーーーっっっ!? 何これ何これっ! 頭の中で声がっ! 蔭狛さんの声が聞こえるぅっ?! どゆことっ!? どゆことっ!?」
『いや、人事から解雇通告を受けてな、現世での立場を追われてしまったのだ。その時点で、余は『下』の世界へ還るしかなかったのだが、やり残した事が五万とある。ただ、依り代が破壊されてしまったのでな。貴様の『間』を借りたぞ』
取り乱す万理とは対照的に、低く、深く、黒い声が、重々しく響いた。
万理は理解した。したくはなかったが、した。
蔭狛は、今、自分の領域に居る。灰根が言った、大きな黒いモノとは、蔭狛のことであったと。
「待って待って待って! 困るんですけどっ。一人暮らしの部屋に、予告も無く、リストラされたお父さんが転がり込んできたみたいな? 部屋、超散らかってんですけどっ!」
『その様だな。そのことについては後々説教してやるとして、今は即ログインだ。急げ!』
「ひええぇ~~~~~!」
その日、ハンドルネーム“Fallen angel”率いる『Endless Remorse』チームは、モバイルゲーム『Eternal Inferno』において、他を圧倒する勝利を収めた。
***
どうやら、異物が動き出したようだ。
私は、ここから、その顛末を見守るとしよう。
(了)
最初のコメントを投稿しよう!