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 キンキンに冷えた缶ビール二本と煙草が入ったコンビニの袋を指に引っ掛けたまま、薄暗い階段を上って行く。五階建ての古い雑居ビルの階段の幅はお世辞でも広いとは言えない。息を切らしながら毎回思うことは、せめてエレベーターがあったらなぁ……だ。  一日中エアコンのきいたフロアで甘やかされた体は、昼間の熱を含んだままの建物の中ではまるで無力で、ワイシャツが汗で纏わりつくのが不快だ。 「この暑さは異常だろ……」  今年は例年に比べ、全国で最高気温を更新している酷暑だ。熱中症で病院に運ばれた者も少なくない。その要因にもなっているのは、夜になっても一向に気温が下がらないことだった。  吹き抜ける熱風は、ビジネス街のビルの合間に淀んだ空気と湿気を孕んで息苦しささえ感じる。  ねっとりとした湿度と戦いながら辿り着いたのは、高層ビルに囲まれた場所に申し訳なさそうに建つ築二十年以上経過した雑居ビル。  ここの屋上からは毎年近くの河川敷で行われている花火大会で打ち上げられた花火をタダで楽しむことが出来るのだ。  屋上へと出るスチール製のドアは年々錆が酷くなり、ドアノブも固く回りが悪い。鍵穴に差した鍵も力を入れないと抜けないほどだ。  軋んだ音を立てて扉を開くと、むわっと熱のベールが顔に覆い被さる。思わず仰け反って、外気温に順応するまで動きを止めた。 「全然、涼しくないしっ!」  眉間に皺を寄せ、あからさまに不快だと愚痴ると、少し高い位置に作られた框をまたぎ、灼熱の屋上へと足を踏み出した。  太陽に熱せられたコンクリートの床は、靴を履いていても熱が靴底から伝わってくる。唯一の救いは、眩い太陽の照り返しがないことだろう。  汚れた空気に覆われた空を見上げると、珍しく星が瞬いているのが見えた。  道路に面した錆びた手摺の脚元にコンビニの袋を置くと、我慢出来ないというようにビールを取り出してプルタブを引いた。  プシュッと炭酸が抜ける音を聞き、やっと温度に慣れ始めた体に迷うことなく冷えたビールを流し込んだ。  喉仏を上下させ、一気に半分ほどを飲んだ時、背後から聞こえた靴底にゆっくりと息を吐きながら、口元から缶を離した。 「お疲れ~! あれ? もう、飲んでるの?」 「この暑さだぞ? 我慢出来なかった」 「だよな?――俺も貰っていい?」  身を屈め、残りの缶を指先で摘まみ上げると、声の主に差し出した。  脱いだ上着を腕にかけ、ワイシャツにネクタイという仕事帰りの姿のまま嬉しそうにビールを受け取ったのは、前の勤務先で同期だった花井友和(はないともかず)だった。  今思えば、二人が以前勤務していた会社は、仕事もハードで休みもロクに貰えなかったブラック企業だった。  でも、そんな環境下にいたからこそ、励まし合い、支え合い、そして感情は新たな物を生み出した。  缶のプルタブを引き、ゴクゴクと喉を鳴らしてビールを流し込む友和を眩しそうに見つめる。明るい栗色の髪が、わずかにそよいだビル風に揺れた。 「うまっ! すっごく冷えてる!」 「だろ? 一番冷やしてるコンビニ探した」 「仕事サボって?」 「ばーか。今は外回りはないんだよ。この日のために頑張った、俺っ!」 「お疲れ様ですっ!――ねぇ、まだ花火は始まらないの?」 「もう、そろそろだろ?」  ビールの缶を持ったまま、屋上に設置された高架水槽の基礎に移動して、二人並んで腰掛けた。  友和の方をチラリと盗み見、左手の薬指に嵌められたリングにホッと安堵する。俺――今村純矢(いまむらじゅんや)の左手にも同じリングが嵌められている。  付き合って今年で五年目。初めはお互いにどう接したらいいのか手探りの関係ではあったが、一線を超えてしまった後は周囲の目を気にすることもなく二人は愛し合った。  このリングは、今は別々の場所にいる二人を繋ぐ唯一の証だった。 「毎年、ここで純也と花火見てるね……。ここで見るようになって三年目?」 「そうだな。早いもんだ……。なかなか会えないから、お前が寂しがってるんじゃないかって気が気じゃない」 「それはこっちのセリフ。忙しそうだね……。仕事、大変なのか?」 「まあまあ……かな。――あのさ、友和」  今日しか言えない。そう思い、ずっと内に秘めていたことを口に出そうとした瞬間、曇った空がぱっと明るくなった。高いビルとビルの間から見える鮮やかな花火。大きく弾けた後で、音が遅れて届くのは打ち揚げている場所からかなり離れているせいだ。  初めてここに来た時、道路の向かい側のビルはまだ低く、大輪の花を咲かせる花火がハッキリと見えた。しかし、都市区画事業により、いくつものビルが立て替えられ、その視界はだんだんと狭いものへと変わってしまった。 「きれいだな……」 「ああ。ちょっと見えづらくはなったけどな」 「――純矢。今、何か言いかけた?」  顔を覗き込むように身を屈めた友和に、一瞬息を呑んで「なんでもない」と首を横に振った。  しかし、彼は「ふ~ん」と言いながら正面を見据え、一口だけビールを仰いだ。  彼が全てを悟ったような顔で遠くを見る時は決まって、俺の心にある秘め事に気づいている時。決して特別な力が彼にあるわけじゃない。それなのに気づかれてしまうのは「すぐ顔に出るからだ」と笑われたことがあった。 「ホント、分かりやすいよね。純矢は……」 「え?」 「――他に好きな人でも出来た? 俺は全然かまわないよ。それで純矢が幸せになるなら……」  連続して打ち上がるスターマインの光が友和の顔を照らす。口ではそう言っているが、手にしたビール缶を持つ手が落ち着きなく揺れていることに気づいた。 「好きな人が出来た……ってのはハズレだな。でも……お前と離れるかもしれない」  喉元でつかえていた言葉が彼の誘導によってするりと吐き出される。本当は苦しくて、言えなくて、昨夜だってまともに眠れなかった。こんなことは言いたくない。でも――いつかは彼に言わなければならない。 「仕事でさ……アメリカ行くんだよ。技術研修って言うのかな……。やっとエンジニアとして認められたっていうか……」 「マジで? すごいじゃんっ! それって、純矢の夢だった事でしょ? いい上司に恵まれたよね」  思い詰めて悲しむかと思いきや、彼は弾かれたように顔を輝かせて声をあげた。  彼も同じシステムエンジニアではあったが、今はその仕事から離れている。いつか海外で仕事をすることを夢見ていた俺に降って湧いた海外転勤の話は、最初は半信半疑、でも今ではかなり現実味を増し、上司や向こうのエンジニアたちとも順調に話が進んでいる。 「ああ……。こんな事ってあるんだな」 「純矢はあの頃から才能あったからね。俺は全然ダメだったけど。いつも上司に怒られて残業ばっかりさせられてたからなぁ」 「アイツらがどう思ってるかは知らないけど、お前の努力は俺が認めてる。頼まれたら「イヤだ」って言えないお前らしいっていうか……」 「それで損してばっかりいた。――純矢、行きなよ。俺の事は気にしなくていいから」 「でも……っ」  ビルに反響した花火の音が空気を震わせて二人を包み込んだ。すっかり空になったアルミ缶をグッと握りしめて歪な形へと変形させる。  友和とは離れられない理由がある。恋人であれば、そう思うのは当たり前だと言う人もいるが、俺たちの関係はそれよりももっと深く、複雑なモノへと変わっていた。  アメリカに行けば、そうそう日本へは戻って来られない。そうなると彼と会うこともままならなくなる。  遠距離恋愛が怖いわけでは決してない。それ以上に怖い現実が俺を待っていることに気づいてしまった。  今、彼と離れたら二度と会えなくなりそうな気がしている。  二人を繋ぐリングがあったとしても、その効力が薄れてしまうような気がしてならなかったから。 「――お前は寂しくないのか?」 「寂しいっていうよりも、今は純矢の人生の方が大切だって思ってる」 「お前のこれからは……?」 「――もう、終わってるのも同然でしょ。だから、気にしなくていいよ」 「友和……」  口元に笑みを浮かべながら、俺の目を見ることなくそう呟いた彼。余裕そうな顔をしている時こそ、一番追い詰められている。あの時もそうだった――。 「どうして俺の前で虚勢ばっかり張るんだよ。嫌なら嫌って言えよっ。俺だって……お前を置いて行けない」 「――嫌だって言っても、純矢は行く。俺は行かせてあげたい……」 「お前……。それがどう意味か分かってるのか?」  ゆっくりと顔をこちらに向けた友和は、長い睫毛を揺らしながら伏目がちのまま頷いた。 「分かってるよ……。もう、純矢を縛り付けたくないんだよ」 「お前……」  友和は自身の薬指の指輪をそっと撫でてから小さく吐息した。  鈍い光を放つリングが花火の光に七色に変わる。 「俺なんかに構っていちゃいけない。純矢はもっと自由にならなきゃいけない。だから……」  俺は咄嗟に彼の腕を掴んで、薄い唇に自身の唇を押し当てていた。その先に言わんとする言葉を封じ込めるように……。 「んん……っ」  キスなんて今までに何度もしているはずなのに、友和の体が緊張で強張っているのが分かる。その体をそっと抱き寄せて、俺は口内に残ったビールの苦みを拭うように舌を絡ませて激しく吸った。  彼が抱く俺に対する苦い想いを全て吸い取ってしまいたい。そうすれば、二度と彼の口から「別れ」の言葉は出なくなると信じたかった。  ふっと肩の力が抜けたタイミングで、友和の濡れた唇を優しく啄んだ。 「俺と離れることを一番恐れているのはお前だろ……」 「そんなこと……ない。俺はもう……純矢がいなくても平気」 「バカ! 俺が平気じゃいられないんだよっ。二度と俺の前で言うなよ……。別れるとか……絶対にっ」  まだ太陽の熱を含んだままのコンクリートの上に彼を押し倒すと、ネクタイを引き抜いてワイシャツのボタンを外した。  俺の行動に戸惑いを見せる友和だったが、露わになった白い肌は薄っすらと色づき、胸の飾りも何かを期待するように硬く尖っていた。  男にしては少し華奢な体。くっきりと浮かんだ鎖骨に唇を押し当てて、ふわりと香る甘い花の香りを肺いっぱいに吸い込んだ。  酷暑の中、汗だくになって街を駆け回るサラリーマンとは違う、さらりと滑らかな白い肌は四年前のあの夜と何一つ変わっていなかった。しいて言うならば、ほんの少しだけ体温が低いことぐらいだろう。 「――純矢」 「こうやって、会うたびに抱きたいって思う。ずっと、この肌に触れていたいって……」 「ずっと……かぁ。俺も純矢の腕の中で眠りたいって思ってるよ……。でも、叶わない……」 「今日という日が永遠に終わらなければいいって……何度も思った」 「俺も……」  友和の両手が俺の首に絡みつく。すでに猛っているお互いの下肢を重ね合わせると、どちらからともなく笑いが零れた。  求めていることには変わりはない。恋人であればセ|ックスすることなど至極当たり前の事なのだから。  肌を触れ合わせて愛を囁き合う。この夜が終わらなければいい……と願いながら、快楽と愛情を体に刻み込んでいく。  下着ごと引き抜いたスラックスを放り投げ、俺は彼の蕾に指を這わせた。そこはいつも以上に優しく潤み、すぐにでも俺を迎えたいとヒクヒク蠢いていた。 「今日は余裕ない……。ゴメンな、友和」  真下にある彼の顔を見下ろして苦し気に呟くと、彼は嬉しそうに笑ってくれた。 「俺も……。早くひとつになりたいって思ってる。純矢とは以心伝心だね……」 「今頃気づくなよ。――いいか?」 「うん……。きて」  彼の返事を待ってから、前を寛げたスラックスから覗いた自身のペニ|スを数回上下に扱き上げると、両足を大きく広げて膝を折り曲げた。  高架水槽の影の下でも輝くような白さを見せる彼の双丘の間に猛ったモノを押し当てると、俺はゆっくりと腰を押し進めた。 「あぁ……っ」  小さく啼いた彼の声が、花火の音に掻き消されていく。  露わになった肌に色とりどりの火花が散る様に、花火の光が二人を照らしていた。 「はぁ……はぁ……。友和、愛してる……。絶対に離れないっ」 「純矢……。俺も、愛してる」  囁き合う恋人たちの声が殺風景な屋上を神聖なものへと変えていく。  俺のペ|ニスをしっかりと食い締めて離さない友和の蕾からは、優し気な雰囲気とは裏腹にグチュグチュと卑|猥な水音が断続的に漏れていた。  腹に付きそうなほど勃|起した彼のペ|ニスもまた、先端から透明な蜜を溢れさせ、腰を揺らすたびに振動で糸を引きながら下生えに散った。  真夏の夜よりも熱い吐息があたりに散らばり、恋人たちの夜は花火の音と共に更けていった。
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