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序章 血の呼び声
赤い月が輝いている。
海が憤怒に吼えている。
背に海鳴りが迫る。
神々の領域へ至る、夢幻の海が。
神の御子は滅び、神話は新たなる時代へと移っていく。
恐れを乗り越えて人ならざる領域に歩み寄り、手を取り合い。
この血の秘密を知り。
今まで生きてきた十七年間に匹敵するほどの、濃くて不思議なひと夏だった。
守りたいもののために選択し続け、抗えない運命の中を藻掻き続けたことに後悔は無い。
これは、ある少年が一つの島の終焉を。
誰よりも残酷で純粋で美しい人の最期を。
そして悪の開花を。
見届けた物語。
なぜ私には、愛も、輝ける星も無く、広漠たる冥府だけがある。
私の餐は泥、私の衣は亡者の髪。
妹よ、七つの恵みを纏う女神よ、私はこの死の眼差しでお前を貫こう……
『死の女神』の長台詞が廊下に響きわたる三階の被服室では、十人ほどの生徒が衣装作りに励んでいた。
夏休みに入ればすぐに、高校生の演劇大会がある。
清陽高校の演劇部もそれに向けて連日準備を続けている。
その中に一人だけ、演劇部員ではない生徒が居た。
彼は誰よりも慣れた手つきでミシンを操っている。
完成予想図として黒板に貼り出された『愛の女神』の衣装のデザイン画は、彼の描いたものだった。
手先を動かす度、肩にかかる白雪のような銀髪がその背で揺れる。
「諏訪部くん、この布何? ごみ?」
「諏訪部、返し縫いだけやってくれよ」
二人の生徒が同時に諏訪部鎮神に声を掛けた。
二人の視線がかち合い、きゃいきゃいと言い合いが始まる。
「あんたまだ返し縫い出来ないの? こないだ教えたじゃない」
「理屈は分かってるんだけど、何回やっても下糸が汚くなって……」
「丁寧にやろうとしすぎて、変に力んでるのよ」
鎮神は二人の声を耳に苦笑いしつつ、男子の使っていたミシンに手を掛けながら女子の質問に答える。
「えっと、それは裾飾りのフリル用だから捨てないでね」
鎮神に愛の女神の衣装制作を手伝ってほしいと頼んだのは、友人で演劇部員の上田星奈と氷上翔だった。
今回の衣装は前例が無いほど豪奢なものを作ろうとしていたので、彼らは鎮神に協力を仰いだのだ。
焼肉を奢ってもらうことを条件に、鎮神はそれを引き受けた。
衣装に関する注文は
「いやみなくらい派手」
「エキゾチック」
「ドレス・冠・耳飾り・首飾り・胸飾り・腰帯・腕輪の七つの部品で構成する」
その三つ。
それを受けて鎮神が構想したドレスはアイボリーの麻布のものだ。
デコルテは広く開け、袖はあえて異様なほど大きく作り後から搾って四段にたるませる。
スカートはスリットを入れた他は全く飾りをつけず、上半身がアンバランスなほど重厚になっている。
腰帯は薄紫のベールのタイベルト。
首飾りはバイト先の服屋に社割で買わせてもらった金のイミテーションパールのもの。
胸飾りというのがよくわからなかったので星奈に訊くと、胸にかかるくらい長くて幅の広いネックレスでいいと言われたので、安全ピンの針いっぱいに金のビーズを通したものをたくさん用意して紐で束ねると、それっぽいものが安く仕上がった。
腕輪は部員が提供してくれた。
イヤリングはレジンを使い手作りした。
舞台衣装なので遠目からでも映えるよう、レジンの中にラメを詰め、オーナメントの下に長いチェーンを付けたりと工夫を凝らした。
冠は西洋のプリンセスのようなティアラでは駄目ということなので、ビーズを連ねて頭に巻き付けるような飾りを作った。
これも舞台上での見映えをよくするために、チェーンや、細長くあえて切りっぱなしにした布やレースを垂らしている。
焼肉が対価としては見合わないほどの働きぶりを見て、星奈たちは報酬の追加を提案してきたが、それは固辞した。
鎮神は高校を卒業したら服飾系の専門学校に進みたいので、面接で語れるような実績が欲しかったのだ。
それだけではなく、デザイン画やミシンに向かうのは、全てを忘れることが出来る大切な時間だった。
鎮神は父を知らない。
母と二人暮らしだ。
この銀髪は父からの遺伝であることと、外国の血が入っているわけではないらしいということ、母が父と過ごした時間は半日にも満たなかったということは聞いている。
幼い頃から、髪色を奇異なものとして見る目や、母子家庭への偏見に悩まされてきた。
善悪の区別がついていない子どもや、擦れ違っただけの他人からの目ならばまだ耐えられた。
しかし学校生活が世界の全てだと思っているような年頃にとって教師からの侮蔑はあまりにもショックで、中学生の頃には家の外に一歩も出ない日が一年以上続いた。
その一年間何をしていたかは、よく覚えていない。
ただなんとなく、楽に死ねる方法を探して台所や薬箱を漁っていた記憶はある。
そして、自分の中に新たな恐れの芽が角ぐみつつあったことも。
そんなある日、音楽専門のチャンネルでゴシックロックの特集が流れていた。
咽び泣くような歌声、凍る風のような旋律、雨音のように冷たいリズム。髪を逆立て濃い化粧をして、黒いドレスや軍服やだらしのないスーツを着た無表情の人々。
初めて見たはずなのに、彼らがずっと自分を待ってくれていたような気がした。
次の日、鎮神は久々に外に出た。
彼らの声をまた聴きたいという一心で、お小遣いを全て引っ張り出してCDを買いに出掛けた。
大手のCDショップにはゴシックロックの棚自体が無く、ロック専門の中古レコード店の隅で輸入盤をやっと見つけた時の心地良い手の震えは今でも覚えている。
さらに、学友と話を合わせるために買ったが全く遊んでいないゲームやトレカを売り資金を増やして、短い間ではあるが確かにブラウン管の向こうに居たあの人々を真似て服と化粧品を買った。
それで自らを装った時、その浮世離れした姿を模したことで初めて自分の心と体の形が一致した気がした。
やがて、自分もこんな幻想的な服を作って誰かに届けたいと願うようになった。
その夢に溺れている間は、出自にまつわる暗い影を忘れることができた。
集中している間に大分進んでいた時計の針を見上げて、鎮神はミシンを止めた。
「そろそろバイト行くから、抜けるわ。また明日」
「おう、行ってらっしゃい」
送り出してくれつつも、人手が減るのを嘆くように目頭を押さえてお道化る男子を、隣の女子が小突くのを見て鎮神は苦笑する。
心苦しいが、バイトのシフトは前から決まっていたことだ。被服室に居る他の生徒にも別れを告げ、鎮神は出て行く。
階段で数人の男子――校章の色から判別するに、入学して約三カ月の一年生――とすれ違った時、彼らが鎮神を見て囁き合った。
「こないだお前が言ってた、銀髪の先輩ってあれ?
本当に地毛なの?」
「なんか、父親居ないらしいし、グレて染めてんじゃねえの。
教師に注意されたら、脅して黙らせてさ」
いくら逃げ道を見つけても、直接聞こえる無神経な声には、やはり慣れない。
踊り場で立ち止まり、壁に設置された姿見を覗く。
若いというより幼い顔立ち、それを気にしてこっそり入れたアイライン、色付きリップ、そして銀の髪。
こうして鏡の前に立つ度に、自分からもその虚像からも拭い難い汚泥が溢れてくる気がする。
そして、掌を見遣る。
道ならぬ出自も、この手にある得体の知れぬ力も、嫌いだった。
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