スパークル

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 その視線が特別であると気付いた切っ掛けなどない。  最初はタイプの違うクラスメイトとよく目が合うな、という程度だった。 教室の隅で大人しく時間を過ごし、休み時間まで教科書開いては、真面目に机に向かい続ける、クラスメイト。彼の取る行動が、何一つとして理解できる事などない、俺にとっては異星人のような存在だ。  けれど、何故かよく目が合い、その内俺も、向こうもお互いを目で追いかけるようになっていた。  コンビニで買ってきたアイスを咥えながら、俺は今日も教室の隅で、俺の知らない雑誌を開いては、三人で談笑している彼を見る。  遠くからでは見開きのそれに、何が載ってるのか分からない。でも、彼等はそれを見て、何か興奮をしているので、興味をそそるものなのだろう。週刊誌のグラビア写真以外の。  梅雨も明けて日差しも温度も強くなった教室の中で、アイスが溶け始めて、俺の指先を汚した。 「佑真、ひとくち」  そう言われると同時に手首を引かれて、ひと齧り持ってかれる。 「てめ、……自分の食えよー」  振り返ると、アイスを齧った彼の手の中にあるカップアイスが、白く蕩けていた。 「口直しだよ、これすっげえ甘過ぎ」  もういらないと言うように、眉を寄せて「交換しねえ?」というのを丁重に断り、俺は欠けてしまったレモンの氷を齧る。  氷の粒を砕くと、その隙間に身を潜めていたレモンの酸味と人工的なほんのりとした甘みが、じゅっと滲み出てきた。水を飲むみたいに、じゃりじゃりと氷の粒を奥歯で潰していると、 「佑真、もう一口」 「うぜー、もうやだ」  あ、と口を開かれたので、身体ごとそいつから顔を逸らした。――あ。と俺は口を開きかけて、その瞬間が訪れた事を知る。  丁度角度からして、真正面になるように向かい合うと、彼が顔を上げて、しっかりとこちらを見ていた。彼の傍に居る二人は雑誌に夢中で、彼の視線が俺に向いているなんて気にも留めていない。こんなに不自然な程、俺達は目が合っているのに。  彼……白石は黒く長めの前髪の隙間から、思ったよりも大きな猫目で、じっと俺を見ている。瞳孔の目立たない大きな深い黒目。窓から降り注ぐ七月の強い日差しが、彼の黒髪の上を踊るように滑り落ちて、その一本一本を輝かせている。  よく見ないと分からない、美しい顔立ち。地味な人間の中に埋もれる美人の良い例だ。ワックスであの長い前髪を掻き上げてしまえば、彼は簡単に人の上に立つ美貌を手に入れられるのに。  もったいなくて、不思議で、俺はなんでだろうと首を傾げる。すると、彼がゆっくりと長い睫毛を瞬かせて、同じように、俺とは反対に首を傾げた。  ――初めて通じた気がした。 「佑真のケチ」 「てめえのそれ食えよ」  横から聞こえて来た声にはっとして、俺はアイスキャンディーを齧った。  レモンの味が、一際甘く頭に響いた。  ***  梅雨が終われば、今度は台風が無遠慮に夏という季節を搔き乱す。  不意に手の甲がぶつかって、落としたコップの中身が零れるような土砂降りと、ついてないという微かな苛立ちに、俺は舌打ちをした。  毎朝天気予報なんてチェックしていない俺は、教室に閉じ込められたまま、雨が弱まるのをただ待つしかない。  地面を打ち付ける激しい雨音は、もう十分以上も続いているので、このままでは帰れないどころか、水害でも起こるんじゃないかと、不安になってくるが、どうせそれもただの妄想だと、俺はスマホを取り出した。  画面を見れば、既に一足先にカラオケへ行ってるメンバーからの写真が送られてきていた。 「雨ヤバいな、大丈夫?」 「俺らも傘ねえわ」  グループチャットに、リアルタイムでそんな会話が流れてくる。俺はその会話に入る気にはなれず、スマホを閉じると机に突っ伏して、鞄に顔を埋めた。目を閉じた裏側にも響く、激しく窓を打ち付ける雨音に、ただ耳を澄ませる。 「早く止まねえかなぁ……」  誰に言うでもなく、一人呟くと、 「多分直ぐ止むよ」  なんて聞こえてきて。 俺は予想外の返事に、慌てて上半身を起こすと、辺りを見渡した。誰もいない。不気味に思って振り返ると、窓の傍に一人外を覗き込むように立っているのを見つけた。  そしてその姿に、心臓がひと際大きく音を立てて、雨音が一瞬の遠ざかるような感覚に陥る。  ただのクラスメイトならば、きっとこんなに大きな音は鳴らないし、鼓膜が詰まる感覚もない。 「白石……」  思わず、信じられなくて名前を呟くと、白石は顔だけこちらに向け、 「すごい雨だね」  と、笑った。 「あ、ああ……突然だったな」 「うん、夕立かな。だから直ぐに止むよ」  そう言うと、彼は自分の席に腰を下ろして、机の中から教科書などを自分の鞄へと詰め込んでいく。どことなく気まずい沈黙の中、彼の立てる物音と、雨音、それから今も続いているだろう鞄の中で震えるスマホの着信を知らせるバイブ音が混じり合う。  俺は雨の匂いを肺に入れるように、微かに深く息を吸った。 「俺の名前知らないと思ってた」  ふと独り言のように、白石が呟く。顔を上げると、昼間アイスを食べている時みたいに、隔たりなく真っ直ぐ視線がぶつかり合う。 「お前だって俺の名前覚えてるの?」 「菅谷佑真くん」  間髪入れずにフルネームを言われて面食らうと、彼はしてやったり、みたいに意地悪く笑った。 「白石あゆむ、だろ」  悔しくて反論するように、彼の名前を言ってやると、白石は「当たってる」と、間違う事を予想していたように目を丸くした。 「クラスメイトの名前くらい覚えるだろ」 「じゃあ、アイス食べてた時、俺の隣にいた二人の名前は?」  ……。  俺は顔すら朧げな記憶に首を捻った。 「嘘つき」 「誰がいたかすら覚えてねえんだよ」  これは言い訳になるのか、なんて思いつつ、俺は頭を掻いてやり過ごす。そんな俺を余所に、白石は尚も楽しそうに笑っているので、何だか年上の誰かに揶揄われているみたいな気持ちになってくる。 悔しいような擽ったいような。 「菅谷くん、傘は?」 「あったらここに居ねえよ」 「だよね」 「白石は?」 「持ってたらもう帰ってるよ」 「だよな」  会話が途切れると、一向に弱まる事を知らない雨音が、二人だけの教室に白く煙るように響いた。沈黙を埋めるその雨音は、風によって音色を変え、教室の硝子窓を打ち付ける。 「何も予想してなかったわ、雨とか。もう夏だと思ってたし」  空白を埋めるように呟くと、 「夏だから夕立はあるよ」  と、外を見ながら白石がぼんやりと呟いた。 「……そっち行っていい?」  何となく許可が必要な気がして白石を見つめると、どうぞ、と白石は腰を浮かせて、自分の前の席にある椅子を引いてくれた。俺は鞄を手にのろのろと移動すると、机に鞄を放り、彼の前にある椅子を引いて、乱暴に腰を下ろした。 「昼間から遠くの空に積乱雲があったんだ。だから、夕立はあるかなって思ってたけど、思ったよりも少し早かった」 「ふぅん」  積乱雲と夕立の関係が、いまいち不鮮明だが、そんな事はどうでも良かった。  俺は白石へと身体を向けて、机に肘をつくと、外を眺めるふりをしながら、その実、体中の神経全ては白石へと向いていた。  ずっと見つめているだけで、会話すら一度もした事なかった相手が、今傍に居て俺に喋り掛けている。  きっと、この夕立に閉じ込められない限り、こんな時間はなかったかもしれない。そう思うと、こんな大雨も悪くない気がして来た。 「なあ、白石」  窓の外に広がる低く厚い雨雲の奥を見つめる。幾重にも重なり地面へと叩きつけられる、雨の檻の中で、俺の心臓は、どくどくと、よく中身も知りもしない男相手に高鳴っていた。 「なんで俺の事見てんの?」  ずっと気になっていた言葉が、雨音にかき消されそうになりながらも、二人きりの教室に響く。 「……菅谷くんはどうして?」 「俺は、白石が見てくるから」 「俺も、菅谷くんが見てくるから」  ああ言えばこう言うみたいに、平行線の会話に出口が見えなくて、視線を尖らせて睨めば、彼は楽しそうに笑っていた。揶揄う前提で言葉を返しているのが、良く分かる。  意外とイイ性格をしているのは分かった。 「……あっそ」  白石の心は煙のように掴めない。けれど、ここで諦めるには、心に刺さっている棘が根深過ぎる。  さて、どうしようか。  次にどう攻めるか決められないまま、視線を逸らすと、肘をついて顎を乗せている手に、熱が宿る。重なって溶けう時の、微かな高まり。視線を戻せば、白石が俺を見つめていた。  今まで交わしてきた視線みたいに、お互いを何も知らない俺達だからできる、言葉のない、ただ熱だけが宿る眼差し。  夏の熱を奪い去る雨にも冷めてくれない、ただ一定に熱い瞳の奥。 「雨が止むまで、ここにいて」  迷うように振れた眼差しが、雨の打ち付けられる先を追いかけるようにそらされる。それと同時に離れようとする指先を、俺は無意識の内に掴んでいた。熱と雨で生まれた微かな湿りが、彼の輪郭をはっきりと象るように、俺の手の中でその存在を主張する。  ――静かに交わっていたのは、視線だけだったはずなのに。  俺達の間に激しい雨の音が交わってくる。たぶん、この雨の中に閉じ込められなかったら、こんな思いに気付きもしなかった。視線以外交わる事もなかっただろう。 「居るよ」  そう言うと、白石は瞠目して俺を見つめ、初めてその黒いばかりだと思っていた瞳の色の光彩を見せた。灰色の中に鈍く混じる光の粒が、白石の双眸を溶かして、色づける。 「あ、雨が……」  ふと白石が顔を上げて空を見る。幕引きのように静かに雨脚が弱まってくると、微かな雲間から、細い一筋の光が差し込んできた。  もう夕立が終わる。  俺達はそれでも繋いだ指先を、どちらからも離せずに、少しずつ広がって霧散していく厚い雲を見守っていた。  残って降り続ける往生際の悪い雨を嘲笑うように、夏の太陽が雨粒を眩しい光の粒にして、世界を輝かせる。 「白石」 「雨、そろそろ止むね」 「白石、聞けよ」 「なに?」 「雨が止んでも、まだ居ろよ。俺も居るから」  白い光が白石の黒髪を照らす。俺は彼の手を離すと、その長い横の髪に触れて、耳に掛けてやる。少し固い外耳に触れると、そこは少しだけ冷えていた。白く線の細いシャープな輪郭が露わになって、大きな双眸が不思議そうに俺を見つめていた。  その何も分かっていないような、戸惑う眼差しは酷く胸をざわつかせる。まるで、好きな奴に初めて触れるみたいに。  心拍が、出て来た太陽に熱されて、引き上げられる気がした。 「まぁ、帰りたいなら良いけど」  恥ずかしくなって視線を逸らすと、窓の外を覆っていた雨はあっという間に消えて、青い空が広がり始めていた。  今なら、もうどこにでも行ける。俺も白石も。 「菅谷くんが帰るまで、ここにいる」  確信に触れないまま、交わるのは視線。けれど、雨に洗い流された視線の奥に見えて来たのは、実体のない感情の欠片と、触れる指先。  俺達は机の上で手を重ねると、 「もう少し」 「うん、もう少し」  と、肯いた。暑さと雨で湿った指先が離れないから、もう少し。  夏の夕立から解放されたまだ明るい夕方の中で、俺達が無意識に隠していた何かが剥ぎ取られてしまった気がする。そして、その後に差し込んできた夏の日差しは、弾ける炭酸が見せる光みたいに、何かが始まる合図のように思えた。
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