4 星をなぞる博士の静寂

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4 星をなぞる博士の静寂

 窓から差し込む光の帯が、細かい塵を輝かせている。  高い書架の前で背伸びしていた私は、その存在に気付かなかった。 「お取りしましょう」 「え?」  踵を下ろし振り向くと、背の高い紳士がすぐそばまで歩いてきていた。  切れ長の目に銀縁の眼鏡がよく似合う、知的な顔立ち。すっきりした鼻梁から薄い唇まで、その静けさと冷たさがまるで氷のようだ。  けれど、親切だった。 「どの本です?」 「あ……」  私は背表紙を読み上げ、少し脇に避ける。  私の頭が、恐らく彼の鎖骨にも届かない。物静かな雰囲気ではあるけれど、整った体躯からは秘めたる躍動感が垣間見える。  彼は難なく目的の本を取り、私に体を向けた。 「……」  表題を確かめる目つきが、思いのほか優しい。 「星に興味が?」 「あ、はい。実は私ではないのです」 「と言うと?」 「教会の孤児院で、子供たちに読み書きや簡単な礼儀作法を教えております」 「それは素晴らしい」 「ありがとうございます。ある子が近頃、天体に強い関心を持ち始めたのですが、私はまったく詳しくないので、勉強をと思ったのです」 「そうですか。それなら──」  彼は明るい表情で笑みさえ浮かべながら、私に本を手渡した。 「いい本を知っています。星の神話について論じた本です。天体図の挿絵がふんだんに使われていて興味深いですよ。子供には難しいでしょうが、あなたにはうってつけです」  まさに私の求めている情報だった。  つられて笑顔になり、つい前のめりになってしまう。 「教えてください」 「持ってきましょう」 「え?」  それは、あまりに申し訳ない。  この学術都市アデラインにおいて、王立図書館に日中から出入りしているという事は、彼は国営機関の職務中であるか、なんらかの立場で必要に迫られて調査に訪れているという事。 「いえ、それは」 「気にしないで。少し思うところもあるので、それを読んで待っていてください」  彼は近くの席を指差し、光の帯の中で微笑んだ。 「すぐ戻ります」 「……」  広い背中を見送って尚しばらく佇んでいた私は、ゆっくりと指示された席について、表紙を開いた。  なにか、魔法にでもかかってしまったような、ふしぎな感覚。  ただそれを考えていても仕方ないので、私は序文を読み始めた。文字を追うと雑念は吹き飛び、すぐに集中できたため、彼も一瞬で戻ったように感じた。  何冊も大小様々な本を抱えている。  その姿を冷静に目で追いながら、私は椅子から立ちあがった。 「お待たせ」  机に本を置いた彼に、深く膝を折って頭を垂れる。 「御親切に心から感謝致します。私はローガン伯爵令嬢ラモーナ・スコールズと申します。本当に助かりました」 「ああ、これは失礼」  私が姿勢を正した頃、彼は笑顔を浮かべ踵を揃えていた。 「私はシオドリック・ダッシュウッド博士。王立科学研究所の所長補佐を任されている者です」 「……!」  私は驚いて息を止め、彼を見あげた。  名前は知っている。  国王陛下直々に科学の研究を任された、フィンストン侯爵令息。   「理事の御令嬢でしたか」 「あ……ッ、御無礼をお許しください」 「いえいえ。どうか硬くならないで。なんともないですし、それに私は、ここではただの博士です」  父から聞いた通り、誠実で物静かな印象。  それに研究熱心で、謙虚で、けれど風格が備わっている。 「さあ、座って。わからないところは教えます」 「え……でも、お忙しいのでは」 「息抜きで来ているんです。少年の情熱を私も応援したい。もちろんあなたも」 「……」  思いがけない親切に胸が熱くなる。 「あ、少女かな?」  ダッシュウッド博士は高揚感も顕わに向かいの席に着いてしまった。 「男の子です」  私も席に着く。  積んだ本のいちばん上にはノートがあり、博士はそれをまず自身の前に置いて、本を分類し始めた。 「あなたがそれを読み進めている間に、簡単な補足説明をまとめておく。いつでも遠慮なく声をかけて」  既に長く美しい指が鉛筆を走らせている。  私は申し出をありがたく受け入れ、読書を始めた。  つい没頭し、ふと顔をあげたとき、文面を行き来する博士の双眸に見惚れている自分に気づいた。夜空のように深く、果てしなく、澄んでいる。  私は心地よい静寂の中、再び本に目を落とした。
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