悪説・菊花の契り

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翌週から彼は生島が通う剣道場へよく顔を出すようになった。橘先生は秋野の上面に騙されている。 「彼は昔はよくここへ来ていたんだが、学業に精を出すようになってからはご無沙汰になってしまったからとても残念に思っていたのだ」 何も知らない橘は人の良い顔で生島にそう話した。隣で秋野が微笑んでいる。 実際秋野は筋が良かったし、上面は優等生だったので、誰もが騙され、奴を愛した。四歳であった玉枝も秋野をにいさまと呼ぶ。 生島だけが、嫌っていたのに、生島だけを、秋野は弟のように扱った。にこにこと人のよい顔で愛想を振りまきながら、そっと生島に耳打ちするのだ。 「なあ、あの女はどうと見る。きっと一言二言都合の良いことをいってやればきっととんでもない事でもやってくれそうな目つきじゃないか。近くの公園で裸に剥いて、置き去りにしてみようか」 だとか 「新しく入った青木というやつはとんだ臆病者だぜ。俺が少し恐ろしいことを言うと、それだけで顔を真っ青にして逃げていった。はは、は。軟弱者はいかんなあ」 そのたびに嫌悪感を露にして睨みつける生島を、恍惚の顔つきで秋野はうっとりとするのだ。 気味の悪い変態だと、思った。 ただそれだけなのだから、我慢すればよい。 そう思った矢先に秋野の両親が事故で亡くなった。美術商であった父親の遺産は莫大にあるらしく、生活に困ることはない。 ただ、僕には父親役が必要だと橘先生に秋野が泣き真似をしながら言った。秋野は、橘の養子になったのだ。だから秋野は本当は橘正太郎だ。だが、秋野は本当は秋野の性を捨てる気などなかったのだと思う。 解りにくいから、と言って秋野の名前を名乗り続けたのだ。 「貴様がきっと悪いのだ」 月夜の中、暗がりでそれはうっそうと立っている。 あの気味の悪い表情で、愉悦を含んだ笑顔で、生島を見つめているのは一体何であるのだろうか。 生島の体躯の中に潜む心というやつから、冷たいなにかが噴出した。それがぞわわと広がって、知らぬ内に汗が出る。冷たい汗。 あの時もそんな汗が出た。 玉枝が小学生の時、橘夫妻が留守をした。 道場は休みになったけれど、その時には師範を務めていた生島はふと、道場を覗いて見る事にしたのはきっと、何かの予感があったからなのだろう。そうでなければ好んであそこへなぞ行くものか。 橘先生は尊敬しているし、玉枝も妹の様に可愛いと思う。先生の奥様も清楚で美しい人である。どこもかしこもどう切り取ろうが彼等はとても素晴らしい善人の家族だ。それなのに、まるで影のように黒々としていやらしいものがついてまわるのだ。秋野という男は月のようである。満月の夜、金色の仮面をつけて舞台に登場するさまを見て、人々は惚れ惚れとするけれど、ふ、と次の満月のときにどきりとするような赤い面をつけて、人々を何か妙な薬でも飲んだときのような不自然な胸騒ぎを起こさせる。そして人々が見るのは決まって同じ面であって、裏側をけして人々が覗き見ることはできないのだった。
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