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最近の橘道場は、悪い輩がたむろしている。
ろくに仕事をせずとも親の財産で食べていける、性質の悪いボンボン共。それを橘道場に引き込んだのはもちろん秋野だ。橘先生は本当にお人よしだから、門弟が増えたと喜んでおられるが、実は評判を落としていることに気がついておられない。あそこの橘道場は怪しげな連中がいるから行くのをよそう、そんな噂が立っているのをご存知ない。長く道場にいるのは、もはや生島だけだというのに、先生は秋野の多額の寄付に形ばかりの門弟、そんなものに惑わされているのだ。
生島が眉をしかめながら道場へ向かう。門をくぐりぬけて戸を開こうとすると、女の泣き声がした。
しくしく。可憐な声である。
振り向くと、玉枝がうずくまって泣いていた。
「お嬢さん」
「生島先生」
どうしたのですか。そう問いかけようとして、どきりとした。
彼女が顔を上げたときー
はっきりと頬に赤く腫れた跡があった。
「それは、あいつにやられたんですか」
「あたしが悪いんです」
「そんなー」
「にいさまを拒んだので」
「えっ」
「にいさまは俺が直々にお前を女にしてやるというのに馬鹿な子供だ、お前が悪い子なので叩いたのだと言いました。でも、悪いことでしょうか、生島先生。わたし、悪い子供ですか」
「馬鹿な、そんなことがあるわけがない。悪いのは」
「…悪いのは?」
「秋野です」
玉枝が顔を上げて、ほう、とため息をついた。同時に大きな瞳から涙が一粒二粒転がりでて、とうとう肩を震わせて泣いてしまった。余程怖かったのだろう。よくみれば学生服の襟元が無残に引きちぎられているではないか。
(彼奴こそ本当の悪党だ。面の皮を剥いでみればきっと悪魔がいるに違いねえや)
喉元になにか酸っぱいものが込み上げる。
耳を澄ましてみれば道場で男達が笑う声がした。聞き慣れた声も一つ二つ。その中に秋野の声が混じっていた。
「せんせい」
玉枝は生島にすがりついている。余程怖い思いをしたのだ。だが生島は彼女を慰める言葉を知らない。生来の不器用である。
だからただ、俺に任せろといったきり、彼女をそこへ置いてけぼりにしてしまった。
道場の中は酒と煙草の匂いで充満している。男が五人。上座に秋野が座っていて、荒々しく扉を開けた生島をあの、不快な表情で迎えた。
「どうした生島。今日は休日だぜ。それともよほど暇なんだろうなあ」
「貴様は人間の屑だ」
「は、今日は中々好戦的じゃないか」
「玉枝お嬢さんに何をしようとした」
「どうもこうもないさ。血の繋がりなどないから構わんだろう」
「なにを」
「…お前こそどうしてそう俺につっかかるんだ。馬鹿な奴ほど時勢にうといというが、俺に逆らわんほうが身の為だということが解らないのか。ここの跡継ぎは俺さ」
「馬鹿なことを言うな、玉枝お嬢さんがいずれ婿をとればお前なぞ」
そこではっきりと気がついた。
玉枝が結婚をし、婿養子をとれば秋野はここを継ぐことは叶わない、だが、玉枝が結婚できない体になればどのようになるかということは、朴念仁の生島でさえ解る話だ。
こいつは真の魔物だ。そう確信して、打ち据えねばならぬ、と思った。
そして道場の壁にかけてある木刀を握り、この悪党、と吼えた。
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