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咨軽薄の人と交は結ぶべからずとなん。
雨月物語「菊花の約」より
【悪説・菊花の約】
今宵が約束の日であった。
生島智己は空に浮かんだ黄色い盃がちっとも欠けてはおらぬ事を見てぞっ、とした。
(満月の夜とは、奇奇怪怪の変事が起こりやすいのだそうだぜ)
と、過去に知人が言った。
まさしく彼が言うとおりなのかもしれない、今日は妙に生温い風が吹く。
生島は一人、剣道場に来ていた。夜のしじまとくらやみは、仲良く生島の体に纏わりつく。
けして暑いわけではないのに一筋二筋、額から汗が出る訳は。それも心地よい汗ではない。冷や汗だ。
(出来ることなら今日など来てくれぬな、と何度思ってみたか。畜生めが)
きりりと太い眉にどんぐり眼。五分に刈った髪、その顔をぐい、と前に突き出すようにして生島は低く唸った。洗い立ての剣道着に身を包み、神聖な道場に立つ。彼は此処の道場主で、女房は其処の一人娘。つまりは入り婿である。初婚にして彼は35、女房は21であった。
それから一年が経つから、今年で36である。
彼は人を待っている。
それもけして来ぬであろう男を。
「貴方、まだおられるのですか」
道場の扉が開いて女房が顔を出した。幼い顔を強張らせている。顔色は少し青い。
「うん、もう少しだけだ」
「あいつなら来る筈はございませんよ。…来てたまるものですか、あんな悪党」
「どんな輩であろうが、悪口はよくないぞ、玉枝」
「あいすみません、だけど」
「いいから寝ていろ。俺に任せておけばよいのだ。…奴は執念深い性質だから、俺も万が一とみてこうして寝ずの番をしているが、なに、まさかということだ。もう暫くすれば俺も寝るから先に寝間で待っていてくれ」
「はい、解りました。お早くお戻りくださいね」
「夜風は腹の子に障るというから、きちんと布団をかけて寝るんだぞ」
「ええあなた」
玉枝の顔に少し笑顔が戻った。自分の妻ながらいい女であると思っている。
道場の扉が閉まる音がしたのでまた、生島は厳しい顔に戻った。
きっと、お前の元へ戻ろうよ。
にやにやと、おとこがわらうのだ。
散々警官に打ち据えられた男が、それでも尚優位に立とうと、生島に笑いかける。
今頃、あの男はこの満面の月を鉄格子の窓からみている筈だ。
ちつとも怯えることはない。
それなのにどうしてだか心がざわざわとしてー
約束の日を、迎えた。
夜はそうして随分過ぎた。
生島が木刀を抱え込んだまま道場でうつらうつらとしていたが、物音に目が覚める。
とん、とん、と戸を叩く音がした。
「おい、誰かいないか」
男の声だ。生島はぎくりとする。見知った声である。
「おおー、い。生島、俺だ、俺だ」
少し翳りのある、男の声音。紛れもない秋野正太郎の物だ。生島の木刀を握る掌に自然、力が入った。
「まさか、あんたか」
「ああ、そうだ。俺だ、秋野だ。まさか忘れたとは言わさんぞ」
「忘れるものか。…だが、そんなはずは」
「今日が約束の日だからな」
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