第八話

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第八話

 帰り際、坂野上から後の予定を訊かれた。  直帰だと言えば「それなら羽鳥くんと一緒に帰ったら?」と勧められ、応接室で待つことになってしまう。時間つぶしに書類仕事を片付けていると三十分くらいして、帰り支度をした羽鳥が現れた。  開口一番、車? と聞かれて、電車だといえば、あからさまにげんなりした顔になった。大喜びしてる大型犬が、分かりやすくしょげたみたいに。  確かに、待っていると言われれば、車だと思う。高瀬も電車なら待つ必要もないかと思いながら待っていたのだから。  羽鳥は免許を持っているが、自分の車がないので、毎日電車通勤だ。始業時間が遅いので、朝はラッシュの時間帯から外れているが、帰りはいつだって満員電車。今は、夜の七時を少し回ったところで、帰宅ラッシュを想像したのだろう。気持ちは分かる。  すし詰めの電車で、隣に立つ羽鳥の眉間にずっと皺が寄っていたので、まだ「授業参観」のことを怒ってるのだろうかと気になった。  終始無言のまま最寄駅に着き、改札を出ると、やっと人混みから解放された。  途端に、周囲の静けさのギャップに無言が重く感じる。普段は羽鳥が一切喋らなくても何も感じないので、後ろめたい気持ちの問題の気がした。  早めに謝ってしまおうと口を開いた。 「ごめんな、仕事の邪魔したよな」 「何?」 「今日仕事場行ったこと。怒ってるなって思ったから」 「怒ってねーよ」 「眉間、皺が寄ってる」 「癖で元々。別に、考え事してただけ、喋って欲しいなら喋るけど」 「邪魔しないし、考え事の続きをどうぞ?」  怒っていないなら安心したし、無言でもいい気がした。この一ヶ月くらいのあいだ一緒に暮らして、羽鳥とは喋らないからといって間が持たないような相手ではないことが分かった。 「ま、いいや。考えてたの高瀬のことだし」  そう言って、じっと目を見つめられる。 「ん、何だよ?」 「いや軽っ、お前のこと考えてたって言ったんだけど! 言われてなんか思うことねーのかよ? ――まぁ、高瀬に恋愛的な普通の反応求めるのもう諦めてるけど」  羽鳥は面倒臭そうに頭をガシガシとかいた。 「悪かったな、分からんで」 「いいよ。次はストレートに言うから」  言われたとして、どう反応すれば正解なのか、高瀬には分からない。  高校の時に無神経なことをして羽鳥を傷つけてしまった。再会して誤解は解いたし謝った。本来なら、そこで関係は終わるはずだった。  それなのに、どうしても、羽鳥のことを放っておけなかったから、定職に就けるように力になった。高瀬は、今の羽鳥との友人関係を心地よいものだと感じてる。  きっと、今の自分は、羽鳥の人の良さに甘えているのだろう。  川のすぐそばの石畳の道を二人で並んで歩いていた。朝はジョギングや散歩をしている人たちもいるが、今は自分たち以外に近くに人影はない。駅から離れるにつれて、街灯も少なくなっていく。 「あのさ、高瀬」 「うん」  羽鳥は、その場に立ち止まって、高瀬の手を握った。深刻な話なのだろうかと、高瀬もその場に足を止めて身構える。  羽鳥はためらいがちに口を開いた。 「高瀬の今の一番の推しが俺なんだったら、前の推しって誰だよ」  思いつめたような声で聞くから、思わず吹き出した。身構えて損した。 「何だ、坂野上さんとの話聞こえてたのか」 「普通に聞こえる。お前、なんの話してたんだ?」 「羽鳥くん最近頑張ってますか? って話」 「……授業参観かよ」 「だから、そうだって言っただろ? 羽鳥が仕事で認められて、父さんは嬉しいなぁって感じ」  羽鳥は大きくため息をつくと、近くにあったベンチに座った。 「高瀬が、マジで恋愛方面カスだから、探ってんだろ。お前の好きなタイプ」 「うーん、難しいな。好きになった人が、好きな人だし、推し以外に恋愛って言われるとなぁ」 「一緒に住んでても、平日は仕事して、休日は木を切る老人みたいな生活だし。雑談してても色恋なんかの話は全然出てこない」 「羽鳥も写真の話ばっかりだな」 「俺は、いいんだよ。で? 誰」 「前の推し? あー、上野のパンダかな」  羽鳥の眉間の皺が深くなる。 「……真面目に聞いた俺が馬鹿だった。もういいわ」  羽鳥の隣に高瀬も腰掛けた。周囲はギリギリお互いの表情が確認できる程度の明るさだ。昼間はゆったりと流れる川を見て癒されるかもしれないが、今は暗闇で水面の揺れくらいしか判別できない。 「羽鳥、俺も聞いていいか」 「んー、どうぞ」 「羽鳥が作品撮れなくなったの、俺のせいだよな」  どんなに謝ったところで、過去の自分の行いは消えないし、時間は元に戻せない。  それでも、羽鳥のことを知りたいと思った。 「――違うな」 「別に、俺には気とか使わなくてもいいんだからな」 「使ってねーよ、そんな器用じゃねーし」 「羽鳥が俺のせいで人間不信で、思うような写真が撮れないって言うなら、この先羽鳥が人を信じてもいいって思えるように頑張るから。――それが謝罪で自分の償いかなって」  そもそも高瀬は、早々人を裏切るようなことはしないというか、出来ないので、努力するまでもないが、羽鳥には、世間は悪い人間ばかりじゃないと思って欲しかった。  今度は、立場が逆になって、羽鳥が吹き出した 「償うって、大げさだろ。やっぱ、ちーちゃん真面目だなぁ」  再会した当初の、トゲだらけの羽鳥を思うと大げさでもないと思う。自分が、羽鳥を変えてしまったのだと思うと少し怖かった。 「大げさじゃない。好きなことが出来なくなるって、それくらい大変なことだろ」 「もし、高瀬が原因だったとしても、ほんの一部。残りの話も聞きたい?」 「……羽鳥が話してもいいなら」  羽鳥は、小さく笑って、大した話じゃないし、いいよといった。 「あのな、別に、高瀬に逃げられたからって「嫌い」って言われたわけじゃないし、その時は、そんなに傷ついてなかったよ。びっくりはしたし、天国から地獄だったけど。高瀬のことは思い出す度、抉られただけ」 「ごめん」 「もういいって。別に、お前に悪気ないのは分かってるし、俺個人の勝手な逆恨みみてーなもんだから」  羽鳥は、カメラバッグからタバコを取り出してくわえた。ヘビースモーカーではないし、絶対火事になるといって、家では一切吸っていなかった。 「前に、実家処分したっていったの覚えてるか」  高瀬は頷く。何かあったのだろうとは思っていたが、深く詮索はしていない。  今回、高瀬の家の二階に住む時だって、家族に連絡はいらないと言われたし、どこか両親の話を避けている気がしたのだ。 「俺、小さい頃から爺さんの家で育っててさ、写真も元々は爺さんの趣味なの。カメラも前は爺さんのお下がり使ってた。だから昔の作品は全部フィルム写真。高校の時は必要な分は部費も使えたしな」  写真って結構、金かかるんだよと、羽鳥は言った。  高瀬から聞いておきながら、本当に聞いてもいいのだろうかと内心迷いはあった。羽鳥は、淡々と話を続ける。 「元々、父親は小さい頃に病気で死んでたし、母親は俺に一切興味なかった。帰ったところで、いたの? くらいの反応でさ。だから、高校入学してすぐに爺さん亡くなるまで、ほとんど自分の家には帰ってなかったよ。――けど、コンクールに出すようになってから、急に親の反応が変わった」 「喜んでくれたってことか?」 「まぁね。関心ゼロだったのに。天才だの才能があるだのべた褒め。最初は戸惑ったけど嬉しかったよ。死んだ爺さんには、お前の写真は、絶対に人を幸せに出来るからって言われてたし、だから」  そこで、羽鳥は言葉を切った。タバコの煙とともにため息が漏れる。 「大学は奨学金使ってたし寮だったから、ほとんど実家にも帰ってなかった。それなのに、親は、離れてからも俺の写真にアレコレ口出ししてきて、作品撮ったらすぐに送れとかうるさいし、段々気持ち悪くなってさ。まぁ、その感覚は正解だったんだけど」 「知ったのは、学校の先生伝いだった。お前の写真法外な値段で取引されてるぞって言われて。金儲けしてるなんて、身に覚えのないことで目かけてくれてた恩師には幻滅されるし」 「で、詳細聞いて驚いたよ。実家に置いてあった作品、親に売られてた。人の写真で個展まで開いて金稼いでたんだよ。お偉い批評家にくだらないコメントまでつけられて。マジで吐き気がした」 「それは酷いな……」  美術写真としての国内需要は、まだ少ないが、それでも収集家や芸術家への先行投資をする人たちはいる。  過去、雑誌やコンクールを総なめし、界隈で名前が知られていた羽鳥なら、売り方次第で買い手もある程度つくだろう。  売ったのが家族で、サイン等がなくても、オリジナルと判断出来てしまったのが不幸なことだった。  もちろん、ネガさえ残っていれば、もう一度焼くことは可能だが、一度本人の意図と違った形で発表された作品を愛せるかは、撮った本人の気持ちもあるし、いくら作品自体の価値が変わらないといっても、感情的に汚されたように感じてしまうのは仕方がない。 「――もちろん俺もどうかしてた。大事なら手元に置くべきだし。そもそも自分の撮った写真で親が変わるなんて、頭がお花畑過ぎだったんだよ。人を幸せに出来るとかさ、宗教かよって」 「そんなことないだろ」  羽鳥は首を横に振った。  悲しい話をしているのに、羽鳥は笑っていた。大人だとか子供だとか関係なく、人が人を信じられなくなるのはつらいことだ。 「で、実家に帰って詰め寄ったら、もう売るものがないから、新しい作品撮れ、だからな? 呆れてモノが言えなかった――俺はさ「アレ」を売り物にするつもりなんてなかったんだよ。一番大切にしてた写真まで売られて無くなってた」  坂野上の「写真を売ることに向いていない」という言葉を思い出していた。  いま羽鳥は写真を仕事に出来ている。それは、最初から仕事として撮ったモノだからだ。高瀬自身は、芸術家でもないし、羽鳥の気持ちは理解出来ない。もっと、細かい、良い悪いの基準だってあるかもしれない。  ただ、高瀬にも、自分が自分のためだけに作ったモノを好き勝手評されて、否定される不快さだけは分かる気がする。  高瀬の秘密基地で、城。遊び場。  高瀬は、羽鳥が、子供のように純粋な楽しみの感情をバカにしないと思ったから、あの誰にも理解されない「幽霊屋敷」に羽鳥を招いた。  きっと、自分の楽しみを何も理解してくれない人に、説明する場さえ与えられず、くだらないと否定されたら嫌な気分になる。 「そのあとは実家とは絶縁。遠い親戚から親が事故で死んだって聞いた時は、涙も出なかったし、家も思い出したくないから処分した」  以上、昔話は終わりと羽鳥は言った。 「ごめん何も知らなくて、作品撮れとか迫って」 「いや、そんな細かい事情分かる人間いないし。だから、作品撮らないのは、ただの、俺の個人的な気持ちの問題。――売られた写真の件もあって、周りから色々言われてたし。学校で作品撮ってても、段々と上手くいかなくなった。気づいたら、昔、表現出来たことが、一切出来なくなってた」 「……そっか」 「もちろん、いまの仕事は面白いと思ってるし、高瀬には感謝してるからな。結局、写真自体は嫌いにはなれないんだよ。人生の半分以上カメラさわってきたし」 「羽鳥は、もう一度作品撮りたいのか?」 「あ? お前が撮って欲しいって言ったんだろ? だから、頑張っていま向き合ってんだよ」 「でも」  事情を知った上で、傷を抉るように、無理強いは出来ない。  もちろん、羽鳥の新しい作品は見たいと思っている。一ファンとして。何か力になれないかともどかしく思った。 「なぁ、羽鳥、そのなくなった一番大事な写真って、どんな写真なんだ? 探したいなら俺手伝うよ。羽鳥が高校の時の写真なら、俺も見てる写真?」  個展で売買していたものなら、写真の収集家を当たれば見つかる可能性もある。  非常に安直だが、一番大切だった写真を見れば、昔表現出来たことを思い出してスランプから脱出できるかもしれないと思った。 「高瀬が、絶対知らない写真だな」  そういうことを言われると、ファンとして見たいと思ってしまう。 「いいんだよ、別に」  羽鳥は、目を細めて笑った。冷たい印象のする目元だが、笑えば、急に幼く見える。 「なんで! 大事なんだろ。ネガは残ってるか?」 「あぁ、あるよ」 「だったら! 探せるだ……」  そう言いかけたら、嗜めるように頬をつねられた。 「もう一回、撮るから、いいの!」 「まぁ……羽鳥なら撮れる……だろうけど。それでも、他の写真だって羽鳥が取り戻したいなら、俺は協力するから言えよ。あと俺さ、羽鳥が一番大事っていう写真なら見てみたい」 「――ありがとな」  らしくないふにゃりとした羽鳥の笑顔に、胸がぎゅっとなった。基本的には、仏頂面だし、機嫌のいい悪いの差がわかりにくい男だ。無防備に笑いかけられると、なんだか落ち着かない。 「あ、ところで、高瀬。パンダ以外の推しって誰」  暗かった空気を払拭するように、急に話題を切り替えられた。 「なんで、お前は、そんなこと知りたいんだよ」 「いいだろ、気になるんだから。授業参観だってしたし、俺の昔話も聞いたんだから、そのお代」 「……仕事」  隠し事でもないし、もったいぶるものでもないので話した。 「仕事ぉ? 色気ねぇな」 「仕事始めてから、推したい人は、いつだって自分の担当アイドル。その子達を幸せにできるように日々営業努力してるし」 「ふぅん。そこまで高瀬に思ってもらえるアイドルがうらやましいな」  羽鳥はベンチを立ち上がった。 「うらやましいもなにも、今の推しは、羽鳥だよ?」  羽鳥に続きベンチを立つと、振り返った羽鳥とまっすぐに目があった。 「一番?」 「一番だな? 羽鳥、俺は、お前のお爺さんが言ったように、高校の時、羽鳥の写真で幸せになってたよ。だから、写真続けてくれてありがとうな」  高瀬の言葉を確かめるように羽鳥の顔が近づく。 「あぁああああ、もう! 高瀬さぁ、マジで、考えろ。パンダと俺、どっちが上? どっちが好き?」 「パンダと羽鳥?」  嫌なら殴れ、そう言うと、羽鳥は高瀬の頭の後ろに手をかけて、殴る間も与えず高瀬の唇を塞ぐ。  前は舌を入れられた、そう思った時には既に羽鳥の唇は離れていた。  一瞬のキス。 「……殴らねーのかよ?」 「俺の手が痛いだろ」  考えろと言われても、推しの上下だとか、考えたこともなかった。  その先を考えるのが、なぜか、怖い。 「今度もう一回聞くから」  そういって、羽鳥は、頭を冷やしてから帰ると言って、今歩いてきた道を一人引き返していった。  その晩は、羽鳥が帰ってくるまで眠れなかったし、帰ってきてからも二階が気になってしかたなかった。  今まで一度だって、羽鳥のいる二階の物音を意識したことなんてなかったのに。
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