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プロローグ
高瀬千影には、二十六年生きてきた中で、どうしても忘れられない黒歴史がある。
子供の頃から、高瀬の眼に映る世界には、たくさんの推しがいて、高瀬は誰にでも素直に「好き」を伝える人だった。けれど、それが災いして、高校生の時に、とても恥ずかしい思いをしてしまう。
記憶は、ネガフィルムのように保存されていて、高瀬の気持ちを無視して勝手に現像される。
――それはもう、鮮明に。
例えば、ふいに空を見上げて、赤や青の絵の具を直接キャンバスに塗り広げたような景色に感動した時。
この景色をアイツは、どんなふうに撮るんだろうか。
そう思ったが最後、黒歴史もセットで思い出してしまうから、まるで呪いだ。
高校の卒業式の日、高瀬はクラスメイトの羽鳥那月に、好きだと伝えた。
二階建ての部室棟の廊下は、薄暗く、いつだってゴミだらけなのに、この日ばかりは、送り出す卒業生のため、在校生によって綺麗に掃除されていた。演劇部からの卒業祝いに一本のオレンジのガーベラを手渡された帰り道、写真部の部室の前に、高瀬の推しがいた。
部室前の廊下の掲示板には、全国コンクールで優勝した写真が掲示されていて、撮影した羽鳥がその前に立っていた。
羽鳥は、クラスの中心人物でもないのに、その孤高さに周りから一目置かれている存在だった。
高瀬の勝手な想像と妄想。羽鳥のなかには、自分だけの綺麗な世界があって、けどその世界には誰も入れない。けれど、神様の世界はちゃんと羽鳥が撮影する写真の中にあった。だから、周りの人間は、その世界を垣間見ることができた。本屋に並んでいる写真雑誌では、大人たちに混じった中で賞を総なめし、若手の鬼才だなんて、どこかの偉いコラムニストが書いていた。
高瀬が、この場で、わざわざ言葉にしなくても、羽鳥は、周りからの賛辞なんてもらい慣れているはずだった。
焦って一息で伝えた、好きだよって言葉。
羽鳥の返事は「俺も、お前のことが好きだよ」だった。
羽鳥がそんなふうに、無防備に口元を緩めて笑うなんて、その日まで知らなかった。
高瀬は、驚いて足を一歩後ろへ引き、そのまま、踵を返して逃げてしまった。
本当は、黒歴史なんかじゃない。
気持ちを正しく相手に伝えられなかった後悔だけが、ずっと心の中に残っていた。
そんな高校生の苦い思い出が、直視できない現実とともに再び目の前に現れたのだから、これは、もう一度、頑張れって、神様が自分にくれたチャンスなんだと思った。
無神論者で、年に一回くらいしか、神社に行かないのに、神様に感謝した。
今度こそ、間違えたくなかった。
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