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愛の詰まったワンルーム
お気に入りのカラーコンタクトを入れていると、部屋から泣き声が聞こえてきた。
ああ、起きたのか、とその瞬間に体が重怠くなるのを感じる。
「ままぁ、」
てちてちというような頼りない足音の後に、程無くして、洗面所兼お風呂場に顔を出す小さな人間。ーー千紗だ。
私の、最愛の、一人娘。
「ママ、メイクしてから朝御飯するから、ちょっと待ってて」
「ままぁ、だっこぉ、」
はぁ、と溜息をついて、その小さい体を抱き上げてやる。
「まま、おけしょう、してたの?」
「そうだよ」
「ちーもする!」
ちーにはまだ早いよ、とその体を下ろせば、「やだ!だっこ!」とありったけの力で私の腕にしがみつく。
はぁ、とまた息を吐く。
「いないいないばぁ、かけたげよっか?テレビの前に行こっか」
「うん!」
再び抱き上げた娘をテレビの前に座らせて、録画からいないいないばぁを探し、再生する。何度も何度も観たやつ。他にも、千紗用にアニメの録画が沢山ある。どれもこれも、お気に入りを繰り返し観るのが好きだ。私が観たかったドラマの録画は貯まる一方だ。
大人しく座って画面に釘付けになった千紗にホッと息を吐き、抜き足差し足してまた洗面所兼お風呂場へ向かう。
鏡の向こうでは、冴えない顔の二十二歳の娘。すっぴん、疲れ過ぎてない?大丈夫?
テンションを上げていく為に、いつものメイク。毛先を青に染めたグレーの髪色に、縁だけブルーのカラコン。それに合うように、色味は控え目で、だけどしっかりとアイメイクをする。リップグロスは艶出し程度の色で良し。元の色がしっかりとピンク色なのが、我ながらチャームポイントだと思う。
お気に入りの柄のパーカーに、ショートパンツ。素足にはまだまだ自信しかない。産後、めちゃくちゃ頑張ったダイエット。腹チラだって自信ある。
すっかり抜かり無い顔立ちになり、「よし!」と今日も心の中でガッツポーズ。
さぁ、今日も頑張りますか!
ワンルームへ向かい、キッチンで朝食の準備を始める。
「ちー、カリカリとパン、どっちがいい?」
「ちー、カリカリー!」
「はぁーい」
カリカリとはシリアルの事である。最近の、千紗の大好物。プラスチックの深皿にシリアルを出し、浸るくらい牛乳を注ぐ。冷蔵庫からイチゴを取り出して洗い、やはりプラスチックの深皿に盛る。
「はいっ!ちー、ご飯!」
テレビの前のローテーブルに置くなり、ちーは「あー!」と叫んで泣き出した。
「ちー!ぎゅうにゅ、やだった!」
「えーっ?!大好きじゃん、牛乳!」
「やだー!カリカリのままがよかったのっ!」
「えー…」
泣き叫ぶ千紗に、うんざりしてしまう。こうなってしまえば、この狭いワンルームに救いなんてものは何処にもない。逃げ場も。助けてくれる人も、いない。
「もう!じゃあ、これはママが食べるからっ!ちーは新しいの盛ってくるからねっ」
「カリカリー!カリカリぃー!」
「わかったって!」
はぁ。老ける…。
すぐそこのキッチンの戸棚からまたシリアルを取り出して、同じようにプラスチックのお皿に注ぐ。今度は少しも牛乳をかけずに持っていけば、満足した千紗は泣くのを止めてテレビを観ながらそれを手掴みで食べ始めた。それを少しの間見守って、私も牛乳でひたひたになった朝食を食べ始める。
千紗の父親にあたるオトコとは、千紗が一歳になる前に離婚した。2DKのアパートを飛び出して、このワンルームに移り住んだ。千紗の二歳の誕生日にお祝いしたいと言うから来ることを許したが、ひょんなことから怒り出して壁に灰皿を投げ付けてきたので、やっぱり出禁にした。もうずっと、会ってない。
デキ婚。ヤンママ。スピード離婚。シングルマザー。
肩を並べたワードについ、笑ってしまいそうになる。こんな未来、想像したことがなかった。友達はまだ、彼氏と同棲しながらバイトしたりして、気楽な生活を楽しんでいる。
食べ終わった食器を洗っていると、千紗を保育所に送らなければならない時間になり、慌てて歯磨きをした。ワンルームのいいところは、子育ての上で死角がないところ。悪いところは、息抜きする場所がこの洗面所兼お風呂場しか無いところ。
時々、ベランダでタバコを吸ってたけど、私がベランダに出るとお隣さんが急いで窓を閉めるのに気が付いてから、ベランダで吸うのはやめた。
世間って、まるでこの狭いワンルームのようだな、と思った。なんて狭くて、重苦しくて、代わり映えしなくて、不自由なのだろうか。
まぁ、そんなことにセンチメンタルに浸っている時間はない。
「千紗っ!保育所行くよ!靴下!」
視界の端に映る、畳んでない洗濯物の山。散乱したおもちゃ達。食べかけのイチゴ。ーーー…一年と数ヵ月は、頑張った。『若いから』とか『シングルだから』とか言われて、散らかって手入れの行き届かない部屋を誰かにとやかく言われるのが嫌だった。……まぁ、家に来るのは私の友人くらいなもので、それもたまにでしかないから、実際にそんなことを言われたことはないけど。私は、私の見栄の為に。本当に毎日、『ちゃんと』頑張ってきた。
でも最近はもう、なおざりだ。散らかった部屋に帰宅するのはテンション下がるが、慣れてしまえばただの日常に溶け込んだ。ただの背景だ。別に、死ぬわけじゃない。
のそのそと靴下を履き始める千紗を待ちきれず、保育所の荷物が入ったリュックと千紗と、履けてない片方の靴下を抱えて、玄関を飛び出した。
「ただいまっ!」
「ただいまぁっ!」
「ちー、手っ、洗うよ!」
毎日は目まぐるしい。あっという間に夕方が来て、保育所に千紗を迎えに行って、帰宅する。
朝から時が止まってしまったこの部屋は、散らかったままに私達を出迎える。
私が手を洗うと、千紗はお風呂の縁に登る。始めの内は「危ないからダメでしょ!」と怒っていたけど、十二キロになった千紗を抱き上げて手を洗わせるのは、なかなかちょっと、面倒なことになりつつあった。今はもう、手を洗う千紗の両脇を軽く支えるだけに[[rb:止>とど]]まる。
晩御飯は出来合いのお惣菜ーーーにしたかったけど、お惣菜ってバカに高い。自炊に勝る節約はない。アテにならない旦那からの養育費。生活はいつも、ギリギリだ。
テレビを点けて、千紗のお気に入りのアニメをかける。一話が終わったら次の話へ自動再生するようにしておいた。それから、キッチンへ向かう。玉葱の皮を剥いて、薄切りにして、お味噌汁用の手持ち鍋に入れる。大体疲れている時はいつも、冷凍ご飯に味噌汁、豚の生姜焼きだ。サラダのつもりの、洗っただけのプチトマトはマストアイテム。
玉葱がしんなりキツネ色になったら、半分を取り出して、隣のコンロに置きっぱなしにしていたフライパンに移す。手持ち鍋には水を入れて蓋をし、冷蔵庫から豚コマを取り出してフライパンで炒める。さて、醤油、と調味料の入ったカゴを覗いて、「あっ」と声が零れた。
「まま、どおしたの?」
「醤油が無かったんだった!千紗、ママ、ちょっと買って来てもいい?」
「ちーも行く!」
「えー」
ふと、蘇る記憶があった。
保育所が余程疲れたのか、帰宅後に寝てしまった千紗を置いてすぐ隣のスーパーへ行った時の事。
『あら、今日はお母さんだけ?いつものお子さんは?』
会計を待ってる間、レジを打っていたおばちゃんに話しかけられた。
『家で寝てます』
『旦那さんがみてくれてるの?』
『いえ、旦那はいないです。一人で寝てます』
素直に答えるのがいけないと知ったのは、途端に怪訝な顔をしたおばちゃんの顔を見た時だ。
『小さい子を家で一人にさせるのは、危ないわよ』
『……いや、だって、寝てますし…』
『それ、虐待よ』
ギャクタイ?
直ぐにその言葉とニュースでよく流れる虐待とが結び付かなかった。えっ、虐待?これ、虐待?ーーーショックを受けた後、怒りが沸いてきた。なんで見ず知らずのオバサンに、そんなことを言われなきゃいけないの?助けてくれるわけでもないのに?
(なんなら、私が外でタバコしてる時間より短いわっ!)
それから無言で会計を済ませて、さっさとエコバッグに商品を詰め替えて帰宅した。帰宅した時、千紗は出掛けた時とまるで変わらないポーズで眠っていた。ほらっ!と誰にでもなく叫びたくなった。
(……あのオバサンいると、嫌だな。千紗、連れてくかな…)
んー、と考えて、今晩は豚の生姜焼きではなくて野菜炒めにしたらいいのか!と思い当たった。
「ちー、やっぱ、買い物しなくていいや」
「えー?」
「また明日、保育所の帰りに寄ろうか」
「はぁい!」
私はつい、微笑んだ。
千紗と会話が出来るようになったのは、感慨深い。それは、時に新生児のお世話よりも私をイライラさせて、時に私を最大に幸せにする。子育てって幸せだなと思う。我が子と会話が出来る。言葉が返ってくる。黙々と過ごしていた日々に、少しだけ、でも確かな光が差す。
勿論、明るい瞬間ばかりではない。次の日とは言わず、晩御飯を食べている最中からもうすっかりストレスで一杯になっていた。
「ちー!食べ物で遊ばない!」
「ちー!座って食べなさい!」
「あっ、ほら!こぼしたっ!もうっ、ちー!」
可愛いと思って買った白のカーペットは、度重なる食べこぼしや飲み物の転倒によってオレンジや黒のシミを作っていた。今日も、お茶がすっかり染み込んでしまう。
はぁ、と大きな溜息が零れる。「もう!ちー、嫌い!」って言葉が喉まで出てくるが、頑張って飲み込んだ。
それから、怒涛。
殆ど食べていない千紗の食器を下げて、お風呂掃除。お風呂が貯まるまでに洗い物をして、お風呂が嫌だと逃げ回る千紗を捕まえてお風呂に入る。そうしたら今度はお風呂から上がるのを嫌がる。私一人だったらすっと済ませられることを、何倍もの時間をかけてなんとかやっと済ませる。それが、しんどい。
朝、メイクする時間しか自分の時間なんて無くて。なんとか布団に連れ込んで、トントンと寝かし付けている間に私も寝てしまう。そうすると、もう朝ーーーであればいいけれど、千紗は未だに夜泣きをする。深夜に一回、早朝に一回起きて、次起きた時はもう朝。毎日、たいして寝た気がしないまま布団から起き上がる。
寝ても覚めても代わり映えしないこの狭いワンルームが、時々、牢獄のように見える。もしくは、はみ出しもののごみ捨て場、とか。
相変わらず、取り込んだままの洗濯物が床の上で山を作っているし、おもちゃは散らかったままだ。時々、発狂しそうになる。
(ちゃんとしなきゃって、思わなくなった。…けど、それはよくないことなんだろうなぁ……)
部屋が散らかってるのは嫌い。だけど、ちゃんとしなきゃと思う程、出来ていない色んなことが目についてしんどくなるから。気にしないでいようと思ったのに。気になってしまう。
(………ああ、誰か、助けて……)
起こしたままの体を脱力させて、ぼんやりとした頭で嘆く。分かってる。誰かなんてのは存在しないし、離婚した以上、私が千紗をしっかりと育てて、幸せにしてあげないといけない。
(………ああ、でも。じゃあ、私の幸せは……?)
千紗の幸せが私の幸せ!ーーーなんて、言えたらよかった。言える親で無くて、ごめんね、千紗。罪悪感がいつも、自分を責める。やっぱり私に子育ては向いていない。良い親にはなれそうにない。
(………千紗は、幸せなのかなぁ……)
ああ、ダメだ。朝からこんなテンションでは。泣きそう……。
パン、と頬を叩いた。気合いを入れて、でも千紗を起こしてしまわないようにゆっくりと布団から立ち上がる。こっそりとカーテンを開ける。
それからまた、更に気合いを入れる為に洗面所へと向かう。
朝から無理やりテンションを上げたせいだろう。つぎはぎだらけのこんなメンタル、直ぐにガタが来た。
だからだろうか、今日出会ったばかりのその人をやすやすとこのワンルームへ上げてしまったのは。
「お邪魔します!」
少し緊張の色を見せながら、でも何だか嬉しそうに、その女は靴を脱いで、さっとキッチンを通過する。静かにテレビを観ていた千紗が玄関の音に気が付いて振り返っていたが、知らない人が居るのを見て、目を丸めて固まっていた。
「ああ!千紗ちゃん!こんにちは!お邪魔しますね!わたし、守本あかり、と言います」
「………」
目の高さを合わせる為にしゃがみこんだ守本さんを遠ざけるように回り道をして、千紗は私の足まで逃げてくるや、ぎゅうっと強くしがみついた。
「あらら。突然ごめんね。怖くないよ」
「……千紗、挨拶」
「……ちーです。……にさいです……」
「か、可愛い……」
守本さんは千紗の方を振り返り、両手で顔を覆って悶えた。
今日。
醤油を買うのを忘れて帰宅してしまったので、結局、千紗にテレビを観させている間に買い物に出掛けた。
『あ、あの!』
調味料売場でいつもの醤油を探していると、突然かかった声に、うんざりとした。ああまた、なんか言われるのかな。そう思いつつ振り返ると、しかし、そこには見たことの無い女の人が赤面して立っていた。
呼び止められる覚えがなくて、怪訝に思っていると、その人は視線を泳がせたり、かと思えば目を合わせてきたり…やっぱりそれを泳がせたりしながら、口をパクパクとさせて、やっと言葉らしい言葉を紡いだ。
『あの、えっと、その、……好きですっ!』
『……は?』
『あ、えっと…!その!違、あの、』
その人は焦りながら目の前で両手を振って『違うんです!』と何度か繰り返した後、『いつも、可愛い人だなって、見てて。わたし、ファンなんですっ』と言葉を訂正した。
『お子さんも可愛らしくて…!お近づきになれたらな、なんて……!その、不審者ですよねっ…!すみません…!』
その人は挙動不審ではあったが、危害を加えそうな感じの人には見えなかった。
私よりは年上なんだろう。どこかの会社の事務服を着ていた。正社員か、と冷めた気持ちで思ってしまう。
『今日、お子さんは一緒じゃないんですね…!』
ああ、もう、めんどくさいな。
『家で一人でテレビ観てます』
嘘をつくのもめんどくさくて、素直に告げた。目の前のその人は目を丸める。『そういうわけで、急ぐので』なんかまた説教される前に立ち去ろう、そう思った。
『あっ、あのっ!』
もう視界に入れないように踵を返したのに、その人は再び私に声をかける。
『……なんですか?』
思っていたよりもずっと冷たい声が出た。もう今日はすっかり疲れていたから、説教とか「虐待だ」とか、そういう話、聞きたくなかった。関わらないで欲しかった。他人が。
『わ、わたし、実は、家事代行もやってて……!良かったら、お手伝いさせて頂けませんかっ…!何か!何でもっ!毎日、お一人で、大変ですよね!あの、あれでしたら今日でもっ!晩御飯お作りしますよっ!』
『………結構です』
胡散臭い。それに、お金がかかるのは嫌だ。
『じ、実は、ベビーシッターもしてるんです!今日はボランティアで。お金は頂きませんのでっ!……どうでしょう?お母さん。たまには、ゆっくりしませんか?』
『……』
緊張の為にか早口だったその口調が、後半だけ、ゆっくりと。柔らかく、包み込むように告げた。私はその魅惑的なワードに、ちらりと考えてしまった。
『……今、凄く散らかってるから……』
『だからこそですっ!わたし、何でもしますっ!』
『……』
そうして、今に至る。
本当に我ながら、どうかしていたと思うし、やっぱり、藁にもすがりたい程にもう疲れきっていたんだとも思う。
道すがら、簡単な自己紹介をした。渡された名刺には会社名は記載されていたが、何処にも家事代行ともベビーシッターとも書かれていなかった。怪しい。…怪しいけど、もう、どうでもいいか、と思っていた。悪い人では無いと思ったし、このワンルームに千紗と二人っきりになるのが、今はとてつもなくしんどかったから。
「じゃあ、ちょちょいと晩御飯作っちゃいますね!」
守本さんは今年三十になるらしい。年上だろうとは思ったが、三十には見えなかった。童顔。それから、私より背が少しだけ低い。腰まで伸びた髪を一つに束ねると更に幼く見える。その横顔を少しの間眺めていたら、目が合った。
「寛いでて下さいね」
先程までの挙動不審な態度なんて嘘だったかのように、柔らかく笑う。……自分家で、他人に「寛いでて」なんて言われるとは思ってなくて、なんだか可笑しかった。
千紗は守本さんのことなどすっかり忘れてしまったのか、点けっぱなしだったテレビに再び釘付けになっていた。
そうなると私は手持ち無沙汰で、結局、洗濯物を畳むことにする。
「あーっあーっ!ゆっくり!ゆっくりしていてください!だらけて!」
「いや…暇だし。少しでも片付けてる方が、落ち着く」
目敏く気が付いた守本さんは、私の返しに「うー」と唸りつつも納得したようで「わかりました」と言うなり、料理に集中した。
……変な気持ちだ。
なんだか、いつもよりも時間が緩やかに流れているような気がする。
私が料理をしているわけじゃないのに、ジューッと何かがフライパンで焼かれている音がして、美味しそうな香りが鼻を突く。
「まま!おいしそうなにおい、する!」
守本さんの存在をすっかり忘れて、私が調理しているんだと思い込んでいた千紗は、キッチンを振り返って再び固まった。「まま、ちがう!」叫ぶような声は、泣き出しそうだった。ああ、いけない。ーーーそう思っても、体が動かない。口から言葉が出ない。「ママは此処だよ」って安心させてあげなきゃいけないのに、今、千紗の真後ろーー死角にいるらしい私はかねてよりなりたいと思っていた透明人間に遂になれたような気がして、此処に存在していることを千紗に悟られたく無かった。
「ありがとう!ちーちゃん、ちょっと味見してみる?」
「………」
にっこりと笑った守本さんは、サッと千紗の前にやって来て、フーフーと息をかけて冷ました何かを千紗の口へと運んだ。
「! はんばーぐっ!」
「正解!どう?美味しい?」
「おいしー!ちー、はんばーぐ、すきぃ!」
千紗の心が打ち解けたようで、千紗はぴょんと守本さんに抱き付いた。「もっかい!」もう一口、と千紗がおねだりする。
「良かったぁ!ちーちゃんの、うさぎさんの形にしてみたよ。見てみる?」
「うさぎさん!みる!」
守本さんはそのまま千紗をだっこしてキッチンへ移動する。千紗は進行方向を向いていて、結局私の存在に気が付いてないままだったけれど、泣き出したりしなかった。今度はママの存在を忘れてしまっているようだ。ここは、親としてショックを受けるべきなのかもしれないけど、私はホッと胸を撫で下ろしてしまった。なんだか、心が軽くなる。
“私じゃなくていい”ーーーそれが、救いになる。
気が付くと、視界が滲んでいた。慌てて目を擦る。幸い、二人ともフライパンの上のハンバーグに夢中で気が付いていないようだ。私は何事も無かったかのように洗濯物を畳むことを再開した。
「今日はありがとう……ございました」
「いえ!こちらこそ!急にすみませんでしたっ…!」
あの後、守本さんの作ったハンバーグにポテトサラダ、野菜スープと、解凍したご飯を小さなローテーブルを一杯にして三人で食べた。不思議な光景だ。いつもの食卓に、今日知り合ったばかりの人がいる。千紗はもうすっかり懐いていて、守本さんの膝の上でハンバーグを食べていた。
食後洗い物をすると申し出る守本さんに、千紗が遊んでと駄々をこね始めたので守本さんに千紗の相手をお願いして、洗い物は私がした。洗い物が終わりお風呂も掃除してお湯炊きのボタンを押す。それでも千紗はまだ守本さんに夢中だったので、「タバコ行きます?」と守本さんに促されるままにタバコを吸いに出た。一服し、部屋に戻ると、丁度お湯張りが完了したということを電子音声。私がワンルームに踏み込むと、入れ替わるように守本さんが玄関の方へ歩み寄る。「それでは、わたしはこれで」と。その足元に千紗がしがみついた。「かえっちゃ、だめ!」と今にも泣き出しそうな千紗に、守本さんがどうしようかと困った顔を浮かべ、「良かったら、……千紗ちゃんが寝るまでいいですか?」と私に視線を移す。
別に、と私は短く返事をした。もっと言うべきことがあったかもしれないけど、守本さんがそれでいいなら、私もそれで構わなかった。
千紗とお風呂に入っている間、守本さんは部屋の片付けとご飯の作り置きをしてくれていたらしい。
(………スーパー主婦?)
有り難かった。お風呂から上がったら、いつものワンルームがちょっとだけ広く見えた。
今まで、私がしなくちゃ何も変わらない事ばかりだったのに。
やっぱり泣き出してしまいそうで、私はお礼すら口に出来なかった。
守本さんに髪を乾かして貰いたい!と千紗たっての希望により、守本さんが風呂上がりの千紗の世話をして、絵本を読んで、寝かし付けてくれた。
これでやっと帰れる守本さんを玄関の外まで見送った時、やっとお礼が言えた。
「………あの、」
自分の家のことがあるだろうに、守本さんはさっさと踵を返したりせずに出会った時と同じように赤面させた顔を俯けてもじもじとし始めた。
「……また、お邪魔してもいいですか?」
「……」
「あっ!えっと!お金とかっ!いりませんから!今度はその、ともだちっ……と、して、とか……っ!」
私が返答に悩んでいる間に、守本さんは勝手にあわあわと慌て始める。
「いいですよ」
「えっ!」
どうやら悪い方に先を想像していたらしい彼女は、目を丸めて固まった。「いいですよ」と繰り返して言えば、赤かった顔が更にかぁっと赤くなった。
「あ、ぅあ、あ、ありがとうっ…ございますっ…!」
「いえ。こちらこそ。今日は本当に助かりました」
顔を綻ばせて笑う彼女を、なんだか可愛いな、と思ってしまった。
それから、あかりさんは度々うちに来るようになった。
連絡先も交換し、時には泊まって帰ることもあった。次の日が休日の日は大体そうした。
やがて、家事代行もベビーシッターも嘘だったと告げられたが、そんなことは最初からわかっていたと言えば、しゅんと項垂れていた顔を跳ね上げて目を丸めていた。……やっぱこの人、可愛いな。「そんなわかりやすい嘘、信じる人いないって」つい、笑ってしまう。彼女は未だに目を丸めていた。
「……夢みたい」
千紗はお昼寝をしていて、窓から入る優しいそよ風に髪を揺らしていた。あかりさんは、そんな千紗のお腹をトントンと優しく叩きながら、ポロリと溢す。
「何が?」
「わたしが今、此処にいることが」
言って、はにかむように笑むその顔を私に向ける。
「……本当にずっと、気になっていたから。貴女のこと……。可愛い人だなぁって。見てるだけだったのに…」
「……あかりさんて、」
本当に私の事、“そういう風に”好きなの?ーーー訊いていいものか、悩んだ。
「なに?」
「……いえ。私のストーカーだったのかな、って」
「えっ!あっ!ち、違うの…っ!たまたまっ、スーパーでよく見かけて!それでっ……!」
「…………ふっ、」
あかりさんの慌てっぷりに、やっぱり笑ってしまう。
「奇抜なカッコしてますもんね、私。髪の毛もこんなだし」
「ううん。よく似合ってて。可愛いし、カッコいい」
「……ありがと」
つい照れてしまって、沈黙が訪れた。
すぅすぅと、千紗の小さな寝息が聞こえる。さわさわと吹く風がカーテンを優しく揺らし、私の髪を撫でた。
時が、ゆっくりと。穏やかに、流れる。
いつの間にか、このワンルームが牢屋に見えなくなっていた。変わらず狭いのに、更には人口が増えたはずなのに、全然、息苦しくない。逃げ場を探す必要がなくなっていた。
(貴女に会えて、嬉しかったのは私の方…)
いつかちゃんと、言葉にしよう。
そう決意したけど、今はトントンと千紗を優しく叩くその手の上に、そっと自分の手を重ねるのが精一杯だった。
ー完ー
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