栄華の始まりは終焉の始まりでもある

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 894年より、長安の都は激動の時代を迎えた。皇帝の無思慮な軍拡と、農民の貧富の格差の調整(バランス)が取れなくなってきたのもこの頃であった。簡単に言えば「米」や「野菜」などを生産する農民は貧しく、王宮に献上するような「お茶(黄金茶)」「砂糖黍」「漆」などを作る農民は豊かになったのである。しかし、税として価値があるのは直接の食料となる「米」や「野菜」これらを生産する農民は貧しさから廃業せざるを得なくなった、つまり、税が取れなくなるということである。それに加え宮廷内では変わらずの贅沢三昧と粛清の嵐、四妃の意に沿わない者が「壺」や「豚」にされることは日常茶飯事、有能な官僚や女官までもがその犠牲となってしまった。勿論、それを維持するための重税も忘れない。  農民を中心とした庶民は宮廷の腐敗・崩壊ぶりをよく見ており我慢の限界を迎えていた。その中にいた志の高い青年、千象(せんしょう)は農民達を先導し、唐国の搾取からの解放を成し遂げることを考えた。千象青年は農民を中心とした農民軍を結成し、唐国に戦いを挑んだ。始めこそ農民軍は劣勢だったのだが、事情を知った「南蛮」「北狄」「西戎」「東夷」と唐国より侮蔑されていた各国が軍を派遣し、唐国の討伐に協力したのである。こうして、唐国にて重税によって苦しめられていた農民が開放された。907年のことである。 その結果、唐国は五つに分割され、再びの群雄割拠の時代へと戻るのであった……  長安城であるが、唐国の滅亡と共に野盗や盗賊も同然と化した民衆によって略奪が繰り返され廃墟も同然となってしまった。かつて、三千人もの女官がいた後宮も今や夢の後。 農民達の不興を買うことになった贅沢三昧の中心にいた者達だが、殆どが命を散らしてしまった。皇帝は農民軍との籠城戦の最中、一条の矢で額を貫かれ戦死、その矢を放ったのは農民軍の名もなき兵士だった…… 宦官もネズミのように括り殺されるのが大半、彼らは斬り殺されても自分の切り落とした生殖器を抱いたままだったと言う…… 女官も夫である皇帝の死を知り自害するか、農民軍に恭順を示すかの両極端。運良く長安城より逃げ出せたものは強運の星の元に生まれたと言えるだろう。ただ、その後の人生の保障はされていない。
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