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宦官が去った瞬間、孤独姫はこの庭園の百花繚乱の花々にも負けない程の満面の笑みを見せた。
「時に万象、妾に何用か? もしかして妾の顔を見るためだけにこの宮廷内を探し回ったと言うのか? この宮廷は広い、万里を駆ける馬よりも苦労したであろう」
孤独姫は東屋の中に万象を導いた。東屋の中にはシルクロード経由で手に入れた大理石の円卓に椅子が二脚。円卓の上には献上茶として歴代の皇帝に愛された黄金茶が乗せられていた。孤独姫は黄金茶を器に入れ啜るように呷った。
「うむ、お主のようないい男の顔を見て飲むお茶も格別。女の腐ったような宦官共や、性悪女官共の顔を見てお茶を飲んでいても不味くてたまらん」
「これは何よりで御座います」
「ああ、妾が一方的に話をしてしもうた。ゆるせ」
万象はコクリと頷いた。孤独姫は対面側の空いている椅子に座ることを万象に促した。
万象はゆっくりと椅子に座り、差し出されたお茶を軽く呷った。
「実は…… 母国である日本から文が来まして」
「ほう、文であるか。文を届けるだけでも大海を越えねばならぬのう、大変な苦労であっただろう。時にその文には何が書かれておったのだ」
「遣唐使の廃止でございます」
そう、時は894年、日本の朝廷にて遣唐使の廃止が提言され、決められた頃の話となる。万象は「もう唐国より学ぶことはなくなった」と、日本の方から唐に見切りを付けたことを伏せ、財政難に加えて、人材派遣の余裕がなくなった故の廃止である故を孤独姫に伝えた。
「ほう、国交を絶つということか。そなたの母国が決めたことであるから仕方ないな。ん? もしや今のそなたは遣唐使ではない自由の身か!?」
孤独姫は急に声を荒げた。その声は上ずり嬉しそうなものであった。
「母国に戻りたかったのですが『帰ってこなくてもよい』と見捨てられてしまいました。仲間の遣唐使も上海蟹のように泡を吹いてこの先の身空を考えておりますよ。ふふふ」
孤独姫は女官の立場にある。女官とは皇帝に使える多くの愛人のことをいう。女官は皇帝のみを夫とし、他の男と関係を持ってはならない…… そのために女官達が生活の場とする宮廷の最奥である「後宮」では皇帝以外の男が入ることは許されなかった。例外は男性器を切り落とし生殖能力を絶たれた宦官のみである。
ただ、女官達も全くの男日照りだった訳ではなく、戦場に出ており、ほぼ宮廷にはいない皇帝の目を盗み、役人や長安の警護にあたる武官と逢瀬を重ね、愛人にしていたという。この孤独姫も、東方の小国である日本から来た遣唐使である万象に恋をしていたのだった。万象は日本から来た「役人」ということもあり、おいそれと手出しが出来る存在ではなかったのだが、今、目の前にいる万象は遣唐使の任を解かれた単なる風来坊。風来坊であれば何をするのも自由である。幼き頃に誘拐同然に後宮へと入った頃からの憧れの存在である万象を手に入れる機会が来たと孤独姫は口角を上げるのであった。
「ほう、帰ってこなくていいとは。そなたの母国も無情よの」
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