入宮、それは絶望の始まり。絶望の中にも光は差していた。

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「わるーい子猫ちゃんだ。しっかりとここで生きていくための作法を教えてやるからな」 「い、いやです! いや! 誰か助けて! 爸爸(パーパ)ッ! 媽媽(マーマ)ッ!」 「死んでるんだから呼んでもこねぇよ! このダボがッ! 私塾参観(授業参観)でもないのに親を呼んでるんじゃねぇぞ! ゴルァ!」 橙蘭、絶体絶命の危機である。こんな下衆に下衆を極めた外道に好きなようにされてしまうのか。と、自分の人生を諦めた瞬間、救いの手が舞い降りた。橙蘭を掴む火哲の手がいきなり放された。石畳に尻から落とされた橙蘭が振り向き見たものは、火哲が朝服姿(ちょうふく)の優男に手を逆に掴まれ捻られて苦悶の表情を浮かべている光景だった。 「人を探しに来てみれば、探し人が手篭めにされようとする場に遭うとはなんと不幸な」 「ききき貴様ッ! いたいいたい! 放さぬかッ!」 優男はぽいとゴミでも投げるように火哲の手を放した。火哲は石畳の上で肩を抑えながら蹲る。優男はそんな火哲を無視し、橙蘭に向かって手を伸ばした。 「大丈夫ですか、姫君。さあ、お手を」 「あ…… あ…… あ、ありがとう」 橙蘭は優男の手を握り立ち上がった。自分より頭二つが三つ上にある顔は顔立ちの整えられた好青年、歳の頃は十七前後と見受けた。この絶体絶命の危機を助けてくれた優男に橙蘭は一目惚れをしてしまった。初めての恋である。 優男は橙蘭の手を放し、片膝立ちで身を低くし、視線を合わせた。拱手で僅かに顔が隠れる様を見た橙蘭は「ええい! 顔が見えぬではないか!」と、怒鳴りそうになってしまった。 「私は、西京院万象(さいきょういん ばんしょう)。長安城にてこの偉大なる大唐国の文化・学問・政治・宗教を学ぶために日本より派遣された遣唐使にて御座います。以後、お見知りおきを」 なんだ、東方にあると言う小さき島国よりの使者か。橙蘭は万象を見下すような笑いを見せた。しかし、その笑いは朝貢国へと成り下がり母国(ははくに)を失い根無しの草も同然の自分を嘲笑(わら)う自嘲のものへと変わってしまった。 「それで、その遣唐使が妾に何用か」 「皇帝陛下の勅命で、不肖、西京院万象が宮廷女官の教育係を任じられることになりまして。名簿で点呼をかけたのですが、お一人不在でしたので探しに来た訳であります」 この男、皇帝陛下の勅命を受ける立場なのか。聞く話によると東方からの使者は基本は「学ぶ」のみで宮廷の内事(宮廷内の仕事)には関わらないとされている。これが、他の国より来る「異邦人」の定めだ。にも関わらずにこの男は宮廷女官の教育係などという内事の中枢に入り込んでいる。この時点で橙蘭は万象を「類まれなる程に優秀な人間」であると見抜いたのだった。そして、一つだけ気になることがあり、尋ねた。 「そなた、宮廷女官の教育係と言うか。あの…… その…… 宦官であるか? 股にあるものを切り落としておるのか?」 万象は横に首を振った。
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