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「私は『男』をやめるつもりは毛頭ございません。それに私は日本からの使者である遣唐使、そのような者を宦官にしてしまえば、唐と日本との間で諍いが生じます。遣唐使の身の安全は保証されております」と、万象が言った瞬間、いつの間にか立ち上がっていた火哲が腰に携えていた苗刀を万象の背中に向かって振り下ろしていた。万象は背中から一刀両断され、二つに分かたれ、前のめりに倒れ込んだ。
いきなりの惨劇に橙蘭は目を塞ぎ、百花繚乱の花々が花吹雪となる程の悲鳴を上げた。
「な、何ということを!」
火哲は空を割くような荒い息をぜぇはぁと上げながらやり遂げた顔をし、橙蘭を見下していた。
「この東夷の学生風情が! この百人隊長の体を痛めつけるようなことをしおって! 許せぬ! その罪は命で償え!」
橙蘭は気を確かにし、今目の前で行われた凶行を咎める。
「な、何をしておるのだ! この者は東の国からの使者! その者を殺すとは何事か! 戦になるぞ!」
火哲は橙蘭を小馬鹿にしたようなしたり顔を見せた。そして、水煙管の燕のヤニで黄色く染まった歯を見せつけながらガハハと笑う。そこに人を殺してしまったと言う反省は一欠片も無いのは明白である。
「日本とか言う東の小国であろう! 我ら偉大なる唐国軍であれば瞬く間に皆殺しにしてくれるわ!」
何という愚かな者だろうか。と、橙蘭が考えている間にも火哲は下履きの腰布に手をかけていた。此奴、まだ諦めておらぬのか。橙蘭は呆れつつも恐怖に打ち震えた。
「人を殺した後は昂りが鎮まらんで困る! さぁ! さぁ! さぁ!」
じりじりと橙蘭に迫りくる火哲。橙蘭が腰を抜かし尻もちを突いた瞬間、火哲は前のめりに倒れてしまった。その後ろにいたのは万象だった。死んだはずの万象がなぜに生きていると橙蘭は驚く。
「英雄、色を好むとは言いますが。この者はそれに値すらしない愚物です」
万象はそう言いながら手を軽くなびかせた。すると、万象の手元に橙色の百合を思わせる花と、紫色の雲丹を思わせる花が手元に舞い降りてきた。万象は二つの花を双方の掌の間に入れて合掌する。二つの花は茶色の粉となった。万象は茶色の粉を倒れている火哲の口の中に無理矢理押し込み、飲み込ませた。
火哲はその場で立ったまま呆然としている。
「これで問題はありません。さあ、行きましょうか」
「え…… 今、何をしたか? 放っておいて大丈夫なのか?」
「忘れ草と眠り草の花を調合し、忘却薬を作りました。これであの男は一刻の間、何があったかを全て忘れます」
「お薬…… 作ったの? お花がそれに風みたいにふわぁって手元に飛んできたのは」
「ああ、念動力ですよ。この庭園の中から必要な薬の材料を引き寄せました。私、念じることで物を手元に寄せることが出来るのですよ」
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