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もう少し先なら、耳を澄ませばそよそよと吹く風の音が聞こえてきて、疲れた心を癒してくれる。ただ、この季節は蝉が爽快さを消し去るほど鳴きわめくから、美しく聞こえてくるのはわずかな風鈴の音だけだ。麦茶を注いだグラスから滴り落ちる水の粒が、埃っぽい木目の床を濡らして鮮やかな色へと変化させている。目の前には青々とした葉たちがゆらゆら泳いでいて、この街が田舎であることを強く認識させる。
いよいよ夏休みが始まったが、僕は一日中家にいる日々が続いていた。こんなに蒸し暑い日にわざわざ外へ出かける気にもならない。それなら、一人で庭を眺めている方が楽だった。
青い空、白い雲、緑に染まった庭。まさに日本の夏を感じることができる心地の良い時間を過ごす。
しかしそう思っていた矢先、突然家のチャイムが鳴った。
「よう、渉。暇だから来たぜ」
急に押しかけるなり、お邪魔します、と言い切って勝手に入ってくる図々しい男、吉本正隆は、庭が一望できる部屋の扇風機があるエリアへと侵入して、勝手にスイッチを入れる。夏華と同様、僕の幼なじみである彼は何の躊躇もせず扇風機を独占した。
「ああ、涼しいなあ」
僕は彼に呆れて、思わず言う。
「正隆ってさ、最高に図々しいよね」
「そうか? そんなことないだろう」
しかし、彼は大きなはてなマークを頭に浮かべてくるから、僕も諦めざるをえなかった。
「それにしても、お前の家って風情があっていいよな。俺の家は何の面白みもない鉄筋のマンションだからさ、こういった木造建築って憧れるんだ」
たしかに僕の家は古民家だから趣はあるだろうが、正隆にその良さが分かるとは思えなかった。
「へえ、正隆にも風情なんてあるんだね」
僕が馬鹿にすると、正隆は「あるさ、俺にだって」と強がった。
「特にあの風鈴が良い味出しているよな」
「風鈴ね」
チリン、チリン、と鳴り響く冷たい音は、日本の夏を彩り心を涼ませるには最適なアイテムだった。
「風鈴の良さが分かるなら、正隆も少しは風情があるかもね。ああ、飲み物はどうする?」
「じゃあ、ジンジャエールで」
「分かった」
僕はキッチンに向かってグラスにジンジャエールを注いで、戻ってきて彼に手渡す。
「センキュー」
正隆はカラメル色の炭酸を一気に半分ほど飲んで、「美味えな」と目を細めて幸せそうな顔をする。
「ところで、夏華さんとは最近どうなの?」
彼もまた、予期せぬタイミングで落ちてくる稲妻のように、僕を驚かせる発言をしてくる。僕の環境は強心臓じゃないとやっていけないだろう。
「どうって、別に普通だけど」
しかし、正隆は隙を逃さずに突いてくる。
「普通じゃ分からないだろう。夜、一緒に寝たりしたのか?」
正隆がニンマリと笑うので、僕は「寝ないよ」と冷たくあしらう。
「そういうのは、二人とも十八になってからって決めているんだ」
「へえ、意外にしっかりしているんだな。でも、恋人っぽいことの一つや二つすればいいのに。全然していないんだろう?」
恋人っぽいこと。それは例えば、二人で手を繋いで遊園地で遊ぶことだろうか。それとも海水浴でもするのだろうか。しかし、そのどれもが僕らからはかけ離れている気がする。
だけど僕らは、この夏一つの約束をしている。
「恋人っぽいことか分からないけど、この間夏華が変わった企画を提案をしてきたんだ」
「変わった企画? 何それ?」
僕は麦茶を一口飲んで唇を潤してから言った。
「夏休みの間は、この携帯電話で一切連絡を取らないんだ。つまり、話せるのは対面だけってこと」
正隆は「そいつはドキドキする企画だな」と楽しそうに言って笑った。
「夏華さんも変わった人だからな。俺たちには思いつかないことをポンと口にしてくるよな」
「うん。僕も驚いたけど、面白い企画だって思ったから受け入れたんだ」
「それで、その企画をやってからどうなの?」
「まだ数日しか経ってないけど、僕も夏華も一切連絡を取っていないよ」
僕の言葉に、正隆は「へえ、それはすごいな」と感心する。
「毎日一回は連絡を取り合っていた仲だからね。僕もすごいとは思うよ」
すると、正隆はさらに僕に質問をしてきた。
「それで渉、お前は何か心境に変化はないのか?」
「変化って?」
「ほら、例えば夏華さんと連絡したくて仕方がないとか、夏華さんのことばかり考えちゃうとか」
僕は一応心の中の声を聞いてみるが、そんな異常は見当たらなかった。
「たしかに、連絡を取り合わないのは不思議な感覚があるけど、そこまで夏華を意識することはないよ。それに、そこまで気になるなら会いに行けばいいからね」
「それもそうだ。そこは、ちょっと緩いんだな」
正隆はグラスを空にして、「いっそ、会えない設定だったらもっと面白かっただろうな」と呟いたが、僕は特別返事をしなかった。
「それにしても夏華さん、きっと胸躍る夏休みにしたかったんだろうな。本当は毎日連絡をしたいけど、できないもどかしさに溺れていく。そして次に会えたとき、それまで溜めていた愛おしい想いが爆発しちゃって、あら大変なことに。なんてな」
この男は何を一人で楽しそうに語っているのだろうか。僕は苦笑する。
「たしかに僕らは親友みたいに仲が良いけど、連絡できないからってもどかしさを感じるとは思わないよ。少なくとも僕は感じないね」
「渉はそうかもしれないけど、きっと夏華さんは恋焦がれていると思うぜ。今日あたり、衝動的に会いに来ちゃうかもな」
正隆の予言めいた発言に、僕は「まさか」とささやくことしかできなかった。
あの日、奇妙な約束をしてから三日。僕はいまだ平常心を保っている。しかし、夏華はどうだろうか。正隆の言うように愛おしい気持ちを溜め込んでいるのだろうか。それとも、僕の予想通りあっけらかんとしていて、企画を立てたことすら忘れているのだろうか。
夏華、ね。
胃の中へと沈んでいく麦茶が冷えたのか、胃がキリキリと痛み出して、心臓の鼓動が少しだけ速くなった。
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