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7 奏でるもの
短くも静かな夜が明けた。
ダニエル、アーサー、マーカスが酔いつぶれていたため、ジョシュアの監督のもと執事とコックと馬丁の手を借りて図書室にピアノを運び込んだ。
朝食中ノーマが一晩の宿のお礼にと演奏を申し出てからというもの、ベネディクトがずっと無邪気に燥いでいる。当然、僕もヴィオラを弾く事になるだろう。
緊張の一夜を過ごしたジョシュアも、ノーマの心遣いに嬉しそうな微笑みを浮かべていた。
朝日が吹き抜けの図書室に光の帯を幾筋も下ろし、埃が煌めいている。
ノーマは行儀よくお辞儀をして、椅子に浅く腰掛けた。
すると、誰も思っていなかった事が起きた。
小柄でも痩せているとは言えないノーマだが、椅子の上で背筋を伸ばし、軽々と両手両足を滑らかに泳がせ、美しい調べを奏で始めたのだ。まるで雲に座る天使のようだった。
「うわぁ……」
ベネディクトが頬を染めて、胸の前で小さく手を叩いた。
ジョシュアも一瞬だけ呆けてから、感動で頬を染める。
実に見事だった。
シューマンの幻想小曲集からの選曲は、僕とのアンサンブルを充分に想定していた。それに気づいているのは恐らく僕だけだ。すぐにヴィオラを構え、ノーマの伴奏に乗る。清々しい朝には少し甘く、ほの暗い、胸を焦がす旋律。
「……」
ノーマが薄く瞼を閉じて、曲の中に没頭していく。
あっという間の10分が過ぎ去り、甘く燃え上がるようなピリオドを迎えた。
僕が弓をあげた瞬間、ノーマが、夢から覚めたように小さく笑った。
飛び跳ねるベネディクトの横で、ジョシュアも同じくらい熱い拍手で高揚している。安楽椅子で足を組んで座っていた兄は、頭痛が残っているのかこめかみを擦ってから、それでも力強く拍手しはじめた。
ノーマが椅子から下りて、またお辞儀をする。
「凄い! まるで楽団みたいだよ、ヘイデン!!」
「素晴らしい演奏でした、ノーマ嬢。本当に、素晴らしい」
感極まった様子でジョシュアがノーマに握手を求めた。
図書室の戸口にマーカスが現れ、ピアノ演奏者を探して目を丸くしている。
「ねえ、マーカス! 凄いんだよ、ノーマがヘイデンと演奏したんだ!」
「へえ」
そこでやっとノーマが肩越しに僕を見あげた。なにも言わず、一緒に悪戯を成し遂げたような笑顔を浮かべる。僕は口角が緩むのを自覚した。
「おい、チャーリー。ヘイデンがいやらしい目で婚約者を見てるぞ」
「悦に入る演奏家の弟も持つと気が気じゃないよ」
兄はマーカスと軽口を叩いてから、褒めるようにしてノーマに短く頷いて見せた。そして僕に、なんとも言えない眼差しを寄こした。
咎めるでも、怪しむでもない。な、そうだろう? ──と確かめるような、計算高い静かな目をしていた。
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