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10 花の名前
被告は無罪。
そう判事が宣言した直後、夫が椅子を蹴って叫んだ。
「陰謀だ!」
室内がざわつく。
ポルフィリオと弁護士が私を目で制したので、彼らに挟まれて安心できたのもあり、私は黙って座っていた。
「わかっているぞ! 全員、あの男に買収されたのだ! 判事! それでも法を司る役人か!」
「法廷侮辱罪を追加されたくなければ着席を」
「なにッ!?」
判事は落ち着いた様子で、淡々と告げる。
「あなたは神聖な法廷に偽りを持ち込み、自分の妻を抹殺しようと画策した。これは軽く見積もったとしても偽証罪に相当する。証人は? ここに集う全員だ」
「くっ……」
夫は腰を下ろそうとして派手に転んだ。自分の蹴った椅子を、誰も直してはくれなかったから。そして自分で椅子を直して座ると、激しい憎悪の眼差しで私を睨んだ。
「閉廷」
こうして裁判は終わった。
外に出ると、使用人たちが気遣いと優しさを込めた表情で私を囲んで、お祝いを言ってくれた。
「ありがとう。私、いい女主人ではなかったのに……」
「たしかにね、心配しましたよ。でも子を喪った母親にしっかりしろなんて言えません。……久しぶりに、お話できましたね」
メイド長が、それこそ母親のような目で私を見つめながら言った。
酩酊していない私と言葉を交わすのは、本当に、久しぶりなのだ。
「こんな事になるまで、力及ばず申し訳ありませんでした」
執事が頭を下げる。
「そんな……駄目よ、謝らないで」
「奥様!」
彼女の声に、私はハッとして顔を巡らした。
大人の使用人の影に隠れてしまう小さなメイドは、顔をぴょこっと見せて、星のように輝く瞳を揺らしている。
「あなた……」
「ほら、前に出な!」
「立派だったよ!」
大人たちに褒められながら私の前まえまで来ると、彼女は照れたように笑顔を浮かべながら、ぺこっと頭を下げた。
「ありがとうございました! あの夜は本当に助かりました!」
「……ごめんなさい」
覚えていない。
それに、私はこの純粋で勇気あるメイドの名前さえ知らない。
私は彼女の腕に手を添え、頭をあげてくれるように促しながら名前を尋ねた。
ぴょこっ、と、溌溂とした笑顔が戻ってくる。
「デイジーです!」
「……デイジー」
可愛い。
こんなに可愛いメイドがいて、あの夫が悪さをしていないとしたら奇跡だ。そして彼女の様子から、そんな悲劇はまったく起きていないと悟る事ができた。
神様……
心の内に祈りを捧げようとしていたそのとき、デイジーの顔が恐怖に染まる。
「奥様!!」
「?」
視線を辿りふり返ると、夫が、ナイフをかざして走って来るのが見えた。
世界から音が消えた。
使用人たちが私を庇ってくれたけれど、夫は彼らを剥ぎ倒し、私にナイフを振り下ろす。その顔は狂気としか言いようのない、醜悪で狂暴なものだった。
デイジーが、私を庇うように手を出した。
私はとっさに彼女を抱きしめ、夫に背を向けていた。
「……!」
覚悟した衝撃は、いつまで経っても私の体を襲いはしなかった。
昼の高い太陽を遮り、大きな影が私たちを覆っていた。
ポルフィリオだった。
彼の足元に、顔を半分腫らし、口の端から血を垂らしてのたうつ夫がいる。
ちょうど外へ出て来ていたのか、判事と聖職者たちが夫を囲んだ。
陪審員たちも集まってくる。
「これは、もう……」
「言い逃れはできませんよ、デルフィーノ・ダニオ・セミナーティ」
「殺人未遂だ」
「まさか裁判所の目の前でこんな蛮行に及ぶとは」
「愚かな」
呻く夫を凝然と見つめていると、腕の中で彼女が暴れた。
「奥様! お怪我はありませんか!? 大丈夫なんですか!?」
「デイジー……」
平気よ、と言おうと彼女の顔を見たときに、私は、目が覚めた。
「……奥様?」
「……」
私には、あの子を喪っても、まだ、守るべき人や愛すべき人がいる。
私は生かされているのだ。
「奥様、どこか……痛いんですか?」
「いいえ……!」
私はもう一度、ただ溢れる愛しさのために、愛らしい少女を抱きしめた。
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