2 朝帰りの夫

1/1
前へ
/14ページ
次へ

2 朝帰りの夫

 あの哀しい日から3年が経った。  窓の外は泣くような雨。  灰色の空を眺めながら、私は瓶を煽った。もう空になっていた。  窓辺を離れ、フィロメーナの眠っていた揺り籠を抱いて泣く。  着ていた服に口づけて、泣き続ける。  今朝、あの子が逝って3年。  命日だったのに、夫は外泊したままついに帰ってこなかった。  泣いているうちに雨が止んで、気づくと晴れて、すっかり昼になっていた。    玄関から物音がしたかと思うと、夫が姿を現した。  寛いだ襟、赤らんだ頬と目、私と同じ酒の匂い。  それに、私と違う、甘い女の匂いがした。 「よくそんな事ができるわね……!」  泣いて詰ると、夫は馬鹿にしたように笑った。  違う。  馬鹿にしたのだ。 「君こそ、よくそんな事を続けられるもんだな。みっともない。いったい何日そのネグリジェを着てるんだ? 臭くて鼻がもげそうだ。吐き気がする」 「それは飲み過ぎたせいでしょう?」 「私は嗜み方を心得ている。君のように安酒に逃げたりしない」 「あの子の命日だったのよ!?」 「いつまでその話を蒸し返すんだ。いい加減にしろ!」  そう怒鳴って、夫が顔を赤らめた。  私は、言葉を失っていた。  蒸し返す……?  いつまで……?  この人、なにを言っているの……? 「あの子は、永遠に帰ってこないのよ……?」  夫は忌々しげに溜息をつくと、着替えを始めた。 「デルフィーノ……?」 「……」  無視されている。  信じられなかった。  娘の命日を娼婦との情事で忘れたのではなく、悼む気持ちすらもう持ち合わせてはいないのだ。 「デルフィーノ!?」  シャツを脱ぎかけた夫の腕を掴むと、振り払われた。 「離せ、鬱陶しい」 「あなた父親でしょう?」 「親? 私に子供はいない。見てみろ。この家のどこに子供がいる? 私たちが人の親の暮らしをしているか?」 「見て。あの子の服よ! フィロメーナの!!」  顔の前につきつける。  直後、私は深く後悔した。  夫はフィロメーナの服を私から奪い取ると、私が泣いて叫んで懇願するのも構わずに破り捨ててしまったのだ。それから揺り籠を倒し、私のほうに向かって蹴った。  私は後ろ向きに転んだ。  でも、私は揺り籠が打ち付けられて、痛みを感じて、少し、ほっとした。  揺り籠の痛みが、あの子にもう一度、少しだけ触れられたような気がしたから。 「君は病気だ」 「え?」  ぼんやりと夫を見あげる。  夫は肩で息をして私を汚物を見るような目で少し視線をずらしながら捕らえていたけれど、そんな事は気にならなくなっていた。  でも、次の瞬間。  私は彼を。 「もう終わった事だ。フィロメーナの事は忘れなさい」  デルフィーノは私の夫であり、フィロメーナの父親だった。  それなのに、そう言ったのだ。
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!

80人が本棚に入れています
本棚に追加