3 君のような女

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3 君のような女

 酔いも哀しみも一気に晴れた。  それは水に油を垂らしたような、絹を裂くような、決定的な変化だった。  私は愚かだ。  この男は、たとえ法律上はそうなのであっても、もう私の夫でもなく、ましてやあの子の父親でもない。  私と同じように、あの子には相応しくない男なのだった。 「あなたは、あの子を、忘れたの?」  自分の声が嫌にしっかりしていて、笑ってしまった。 「忘れたいと願っているよ。だけど家に帰れば君がいる。君がいつまでも死んだ娘にこだわって自己憐憫に浸っているから、私は正気を保つので精一杯なんだ。わかるかい? 私は遊んでいるんじゃない。ラヴィニアに救われているんだ。ラヴィニアは生きている。君は亡霊だ。ラヴィニアは亡霊から救ってくれる天使なんだ」  天使。  怒りで頭が燃えるようだった。  私はまた嗚咽交じりに夫を詰っていた。 「娼婦を天使だなんて……っ」 「娼婦を馬鹿にするのかい? 君の10倍細くて、100倍美しい女性たちだ」 「謝って」 「君に? 醜い豚に? 亡霊に?」 「あの子に謝って! 天使はあの子よ!」  私はそう叫んでから、泣きながらフィロメーナの服を拾い集めた。  こんな事、あっていいのだろうか。  私を貶めるのはいい。私はあの子の死のあと、生きる意味も見出せず、夫の言う通り安酒に逃げて醜く太ってしまった。  だけど、夫は……この男は、フィロメーナを貶めた。  命日も、生きていた日々も、破り捨てられた。  破られた服を抱きしめて蹲っていると、着替えを済ませた夫が部屋を出ようと扉を開けた。 「離婚します」  口から零れ出た言葉を耳で聞いてから、私は自分の気持ちを知った。    ああ、そうだ。  それがいい。  けれど夫は、一度は出かけた足を引っ込めてこちらを向くと、手を広げて私を嘲笑った。 「おいおい、ミネルヴァ。君のような女がどうやって生きていくって言うんだい?」 「……」  生きていく?   あの子を喪って、生きていく意味なんてないのに。  馬鹿な質問。 「生きていく必要なんて……」 「君は私に飼われている家畜みたいなものだ。いや、家畜以下だろう。生産性もなく労働力すらない。女としての価値なんてとっくに失っている。それこそ君が馬鹿にした娼婦にだってなれないだろう。まあ、町角に立って足を開けば浮浪者の一夜の慰めにはなるだろうが、それは人間とは言えない」 「……」 「いいか? 私が、君を人間に留めている。さっき亡霊と言ったのは言葉の綾だ。わかるかい? もっと私に感謝するべきだ」 「……」 「酒をやめなさい。話はそれからだ。頭がはっきりしたら、顔を洗って教会にでも行くといい。そうだ。君、たしか刺繍をしていただろう? 刺繍をしなさい。集中できれば無駄な事を考えずにすむ」  無駄な事というのは、フィロメーナの事だろう。  私が黙っているのを敗北を認めたり素直に傾聴していると勘違いしたのか、夫は満足そうに笑ってドアノブに手をかけた。 「使用人すら、君を女主人とは認めていない。今、ラヴィニアを持成しているよ」
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