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4 裏切りに報いを
私は顔を洗った。
本当に私は、使用人にすら見捨てられていた。自分でお湯を用意しなければならなかったし、湯を張っている最中、聞き慣れない女の笑い声が耳に届いた。
私はいい。
もうかつてのように、美しくはないし、これといって特技もない。
人の役に立つ事もない。誰からも愛されない。
だけど、今日は……フィロメーナが天国へ旅立った特別な日なのだ。
私は久しぶりに身形を整え、やっと掛け金が止まる喪服をレースのショールで覆い隠して、荷物をまとめた。揺り籠は持っていけないけれど、マットと上掛け、それに小さな服の数枚は旅行鞄ふたつに詰め込む事ができた。
目深に帽子を被る。
階段を下りると、応接間のすぐ外で控えていた若いメイドふたりのうちひとりが、ハッとして私を見つめ、痺れを切らしたように駆け寄ってきた。
「奥様……!」
私は、彼女の名前すら知らない自分に愕然とした。
私の時は止まり、本当に亡霊のように暮らしてきたのだ。
けれど、彼女は私に、一筋の希望の光のようにも感じられた。
夫の言う事が全てではないと、教えてくれたのだから。
「……」
なにか声をかけなければと思ったけれど、私には、彼女にかけるべき言葉も見つける事が出来なかった。だから、その申し訳なさと、どこか親切な彼女の幸先を祈るような気持ちだけに頼って、少しだけ微笑むのに留めた。
私は家を出た。
濡れた煉瓦道は日の光を浴びて、キラキラと眩しく輝いている。
貸馬車の店で、結婚指輪を賃料代わりにして馬車を借りた。
行く場所は決まっていた。
都合の良すぎる事はわかっていた。
だけど、それしか考えられなかった。
それにこれは、私のためではなく、あの子のため。
あの子の命日を穢された。
この裏切りを、私は許せなかった。
だから、彼に、知恵を借りたかったのだ。
門前払いされる事も覚悟していた。それは半分は当たっていた。
屋敷の門番は最初、私に丁重に用件を尋ねる際、私の顔を見るなり表情を変えた。気の違った女が来たと警戒したのだ。
ところが、名前を告げただけで、魔法のように門は開いた。
私は豪華な調度品で飾られた応接間に通され、ほどなくして彼が姿を現した。
「……」
私を見るなり、ポルフィリオ・デ・ロッシは目を瞠り息を呑んだ。
どんな惨めな生き物に成り下がっているのか、それはよく知っていた。
「ミネルヴァ」
彼は私の名を呟くと、意外な事に、私が座る椅子の前に跪いて、下から私の顔を見あげた。そしてゆっくりと口角をあげ、気遣うような、優しい微笑みを故意に浮かべて言ったのだった。
「さあ、お願い事を言ってください」
「夫が……」
このチャンスを逃すべきではないと、私ははっきりと声に出して告げた。
「あの子の命日に、娼婦を連れてきたの。報いを……」
涙が静かに頬を伝い、零れた。
ポルフィリオは私の手を固く握っていた。3年前と同じように、しっかりと。
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