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9 優しい奥様
続く証言に私は耳を疑いながら、胸の奥に温かな物が広がっていくのを感じた。それを希望と呼べばいいのか、愛と呼べばいいのかわからない。
ただ、使用人たちは同じ言葉を繰り返した。
「──奥様は無罪です」
「──奥様は無罪であると、私は思います」
本当なら、感謝で体がふるえたかもしれない。
でも、私の心はまだ、あの子の事以外では動いてくれないようだった。
頭では、理解し始めていた。
そして、あの名も知らないメイドが証言台に立った。
彼女はあどけなさの残る顔に闘志を漲らせていた。
「私はお屋敷に勤めてまだ2ヶ月くらいなのですが、奥様がお屋敷を出られたのは今回のお嬢様のお墓参りだけです。他の人たちが言ったように、その日、旦那様は女の人と酔っぱらってお帰りになりました。そのあと、2階で奥様に酷い言葉を言っていました。私は奥様が心配で、扉に耳をつけて聞いていました。旦那様が奥様を侮辱し、お嬢様の事を忘れるように言いました。だから奥様は、信頼できるお友達を頼ってお嬢様のお墓参りに行くしかなかったのです。なので、まず、絶対なのは、奥様とそちらの旦那様が淫らな関係を重ねて旦那様を裏切ったというのは、ありえません。旦那様の嘘なのです」
夫が顔を真っ赤にして、椅子を震わせている。
私はふしぎな気がして、彼女を見つめた。
なぜ、あんなに、一生懸命に、私のために怒ってくれるのだろうか。
答えはすぐ明らかになった。
「それに、お酒の事を言えば、奥様はたしかにお酒に頼ってしまっていましたが、私は何度も旦那様が奥様用のお酒を自分の分とは別に買いに行かせているのを見ました。同じ哀しみをお互いに支え合って乗り越えるべきなのに、旦那様は奥様を面倒に感じていらっしゃったように私には見えました。そうやって一日の大半を、泣くか酔っぱらうかしていた奥様ですが、私はどうしても皆さんに聞いて欲しいんです」
彼女は陪審員のみならず、傍聴席にもぐるりと真剣な目を向けて、再び正面の判事を見据える。
「私は不器用で、ある夜、旦那様のシャツの釦を縫っていましたが落としてしまいました。綺麗な貝の釦です。私は夜中まで探していました。そうしたら、急に奥様がふらっとお部屋に入ってきて、〝どうしたの〟と仰いました。私は泣いていたのですが、奥様は〝可哀相に〟と言って、優しく私の涙を拭いてくださいました。そして椅子に掛けてあった旦那様のシャツを見て、私がなぜ泣いているのかを察した奥様は、私が止めるのも構わずに膝をついて貝の釦を探してくださいました。そして見つけてくださいました。それから、私の指を見て、私が不器用なのを知った奥様は、一瞬で釦を縫い付けてくれました。その間、奥様はずっと、とても優しく微笑んでいらっしゃいました。きっと、お嬢様の哀しい事がなければ、そういう優しいお母さんになられたと思います。奥様は、深く酔われた時の事は覚えていらっしゃらないようなので、この事は知りません。でも、奥様がとても優しい奥様である事は、屋敷のみんなが知っています。奥様は自堕落なのではありません。愛するお嬢様を亡くされた、とても優しくとても哀しい人なのです」
彼女は深く頭を下げて、席に戻った。
私は、なにか、愛情めいたものが胸を破ろうとしているのを感じた。
次に、あの娼婦が証言台に立った。
「私は奥様が飲んだくれであると聞いて嘲笑っておりました。ですが、小さな子供を亡くしていると知り、お詫びしたいと思いました。私は神に誓って証言します。その小さな女の子が亡くなって3年という朝、私はデルフィーノ・ダニオ・セミナーティと肉体関係を持った後、屋敷に招かれ食事をふるまわれました」
そして最後に、墓地のある教会の神父が、証言台に立って言った。
「──今年、小さな私たちの友であるフィロメーナの墓前で祈りを捧げたのは、母親であるミネルヴァとその御友人ポルフィリオ・デ・ロッシだけです。デルフィーノの姿はありませんでした。ですがそれは珍しい事ではありません。父親の姿は葬儀以来、見た事がないのです。愛情深い、若く悲しい母親に、どうか正しい裁きをなされますよう願うものであります」
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