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アパートのポストを開くと、DMの中に鉄床雲が混ざっていた。
暑中見舞いのポストカードのようだ。表を確認すると学生時代の旧友からだった。
なお現在日時は8月13日、暑中見舞いの終わりである立秋をとうに過ぎている。消印を見ずともこれが立秋過ぎに投函されたことが分かる代物である。
盆を迎えても俺が容易に実家に帰ることができないのを知っていてか、友人は一人暮らしの部屋の方へ送ってくれたようだ。
あいつも実家には帰っているだろうか。差出人の住所は空欄だ。
ポストカードの鉄床雲を見つめていると、ふと名前を呼ばれた気がした。
記憶の中の声だ。それはポストカードの友人の。
俺は大学の図書館にいた。
「佐藤、こっち」
俺の方へ声を掛けながら、遠野が図書館の屋上テラスに繋がるガラス戸から手を振っている。
8月9日、授業は長い夏季休暇に入っていたが学校の図書館はずっと開いていた。俺と遠野は授業が同じであったこともあり、たびたび図書館で顔を合わせていた。
「こっちって……」
俺がボヤきながら席を立ち上がると、当然そっちに行くと思ってそうな遠野はガラス戸を背にテラスの方へ歩いていってしまう。
そもそも図書館に来ているのはクーラーもあるし静かだし、という点があってこそなのに。
ガラス戸を抜けると空は青いものの太陽の影に隠れてしまっているのか、少し暗い。だが、気温は依然クソほど暑かった。ましてや遠野は一番奥のフェンスに凭れ掛かり「来い来い」とばかりに呼んでいる。
「いやさすがに無理」
「いいから、面白いもんがあるから」
「いやいやいや」
「いやいやいやいやいや」
辛うじて図書館の冷風が届く範囲を出たくない俺 vs 怪しげなセリフでサウナ状態の屋外に誘いたい遠野。
「じゃあそこから上見てみ。そこからだとあんま見えないだろうけど」
「上?」
飛行船でも飛んでるのかと思い空を仰ぐと、薄い雲が図書館の影から伸びていた。
なんだ、ただの雲じゃないかと思ったが、すぐにいつもの雲ではないことに気づく。
虹が掛かっている。いや、虹ではないのか、雲が虹色に光っているのだ。
「どうよ、こっちからだとよく見えるんですけども」
俺が驚いているのを見た遠野はニヤニヤと手を振った。これは直射日光に炙られに行くしか無い。
遠野の傍らまで走り振りかる。と。
薄く円形に広がった傘を支えるように雲の柱が伸びていた。虹色を冠しているのはその傘の部分だ。円形に伸びる雲の上に軽やかに虹色が掛かっている。太陽がその向こうにあるようだ。
「綺麗だよな、彩雲っていうらしい。そんであの雲は鉄床雲」
「よく知ってるな」
「ググった」
そう言って當間がスマホの画面を見せてくれた。何でもすぐに調べる男である。
「ああいう雲をずっと追いかけてたい」
などと、遠野は今の専攻と全く違う未来を言い出すので、俺は軽く笑ってしまった。
住所のない暑中見舞いを眺める。2年前に再開した遠野は、「今、雲を追ってる」と笑っていた。
笑っているほどふわふわした仕事ではなく、死亡例もある危険な仕事であるらしい。
これは遠野が撮った写真だろうか。「暑中見舞い申し上げます」とだけ簡潔に書かれてるだけで他になにもない。
雲のようにすぐに通り過ぎてしまう彼らしいハガキであるといえばそれまでだが。
いつまでも暑中だと思うなよ。
俺はポストカードを手に部屋に戻り、ビールをグラスに注いだ写真を撮る。
これで残暑見舞いを送るのだ。近況報告には十分だろう。
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