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入り口にある蛍光灯をつけると、2人はプールサイド用のマットを床に敷き、そこに腰を下ろした。ビート版、プルブイ、パドル、フィン、インターバル練習のための時計など用具が所狭しと収納されている殺風景な部屋の中に、ザァザァと雨が降りしきる音が入ってくる。
「雨、どんどん酷くなっていくね」
「そ、そうだな」
雨に濡れた髪の毛をタオルで拭いながら発した仁美の言葉を受けて、健太は少し言葉を詰まらせながらそう答えた。
ーーよくよく考えたら今、仁美と2人っきりじゃないのか?
急な夕立に慌てていたからか、健太は今頃になってこの事態に気づいたのだ。
今から2ヶ月前、6月の席替えで隣の席になって以来、健太は仁美の姿を妙に眩しく感じていた。とろんとした優しそうな目元を前にすると日頃の練習疲れが一気に飛んでしまう気がするし、ぷるぷると弾けそうな唇を見るとそこに触れたい衝動に駆られてしまう。仁美の隣にいるとその小柄な身体をぎゅっと抱きしめたい気持ちが昂ってくる。
健太にとってはそんな「守ってあげたい癒し系」の仁美なのだが、授業中はその立場が逆転する。
7月のはじめの頃だった。
「はい。じゃあ高井さん。あと5分経ったらこの問題前に出てやってみて!」
数学教師の野呂が健太を指名した。当てられた問題はよりによって鉄橋やトンネルを渡り終わるまでの時間をもとに列車の速さと列車の長さを求めるという連立方程式の文章題。数学の期末テストでしっかりと追試を食らった健太にとっては絶体絶命の大ピンチだった。健太が顔をしかめていると、仁美がシャープペンシルでトントンとその左肩を叩いた。
「列車の速さを毎秒xメートルとし、列車の長さをyメートルとすると……」
仁美はメモ用紙にこう書き出した後すらすらと数式を下に並べていき、最後には列車の速さと長さを完璧に求め切っていた。シャープペンを握るその手は一瞬たりとも止まることなく、その指先はとても美しく見えた。メモ用紙を健太に渡したその瞬間、仁美は笑顔で親指を立てた。校庭に咲き誇る満開の向日葵の花と仁美の笑顔が、何故か健太の頭の中でリンクした。
守ってあげたい子から守ってもらってしまった。この事実に気恥ずかしさを覚えつつも、健太の頭は仁美の笑顔でいっぱいになっていた。
その仁美が隣にいる。それもいつもの教室じゃない、他の誰も見ていないこの空間で、仁美が隣にいる。健太の胸は今までのどんなときよりも早いリズムを叩いていた。
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