くんちゃん

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くんちゃん

 「ただいま」  真っ暗な玄関で声をかけると、家の奥で小さな返事があった。  「おかえり、お兄ちゃん」  ランドセルを片方の肩に下げて、長い廊下を歩いていく。古い屋敷につきものの湿ったような黴臭い匂いがする。  「何してるの」  八畳半の客間で転がっている妹を見下ろして、僕は言う。  「さき、くんちゃんと遊んでる」  色とりどりの着物に塗れながら妹は言う。  「また、くんちゃんが来たの」  隣にある自分の部屋へ行ってランドセルを下ろしながら、僕は苦笑いする。  そのまま廊下を渡ったところにある洗面所で手洗いうがいをしているうちに、妹に言うことを思い出した。  「お母さん、今日は遅くなるって」  客間に届くよう大声で言う。  「おばあちゃんも今日は夜の教室の日だし、晩ご飯は二人でだ」  返事がない。見ると、おかっぱの頭が着物の中にのぞいている。  「いつまでやってんだ」  「くんちゃんがまだ遊びたいって」  部屋を見渡すと、年代物の着物や帯がいたるところに散らばっている。祖母の着物をこんなにしたと知られたら、叱られる。僕は金色の線が入った濃紺の帯を拾い上げていった。  「早く片づけて、ご飯にしよう」  冷蔵庫の煮魚を温めている間、ご飯をよそい味噌汁に火を入れ直した。ほうれん草のお浸しは冷蔵庫から出してテーブルに並べるだけでいい。  台所に入って来たさきが、並んだ食事の皿を見てとぼけた声で言った。  「くんちゃんの分は?」  「本当にそれ、流行ってるね」  僕は背を向けて、やかんに沸かしてあった麦茶を注ぎ、言う。レンジから電子音が鳴った。あっつ、と言いながらご飯を取り出す僕の後ろで、さきが椅子を引く音がした。  数日前から、さきの世界に住み始めたらしい「くんちゃん」には悪いが、君の分の夕飯はない。  「箸、出して」  さきは食器棚の引き出しから三人分の箸を取って来てテーブルに並べた。一組はもちろん、くんちゃんのぶんだ。  「ほら、食べよ」  さきはくんちゃんがすわっているらしい椅子を見遣りながら、味噌汁を一口飲んだ。  僕が煮魚の骨に苦戦していると、さきはくんちゃんの椅子を見て、あーあ、と呟いた。  「くんちゃん、かえっちゃった」  「それは、イマジナリーフレンドだね」  哲学原論、と言う名のレポート用紙から顔を上げて母は言った。  「どういう意味?」  広い居間の座卓で宿題をしていた僕は顔を上げた。母が帰る時間まで起きていたので眠気が頭をぼうっとさせていた。  「想像上の友達ってやつ。さきくらいの年齢の子にはよく現れる現象だよ。私の専門じゃないから、詳しくは知らないけど」  ふうん、と返事をして僕は宿題に向き直る。  「なんの話?」  さきを寝かせた祖母が縫い物道具を手にして居間の敷居に立っていた。  「くんちゃんのことだよ」  「ああ、そのこと」  「祐一が気にしてるの」  「寝室でも、くんちゃんと一緒に寝るから寂しくないって言ってたねえ」  僕と母は顔を見合わせる。祖母は手にした着物をなれた手つきで縫っていく。日本舞踊の師範らしく、その背筋はしゃんとしている。  「聞けば、森の小径に住んでいて、きのこ狩りが好きで、空が飛べるそうじゃないか」  「やっぱり、普通じゃない」  僕は宿題に向き合いながら、断固とした口調で言う。寂しいんだよ、と祖母は母にしかめつらを作ってみせる。  「あんたが離婚なんかするからだよ。その上、いつも仕事ばかりで」  「はいはい」  母が急いでレポート用紙に向き直る。明日までに採点しなきゃ、と呟き、黙る。  「でも成長の一過程だよ、さきのことはさ」  しばらくして口を開いた母に、僕と祖母はうなずく。結局、一家の大黒柱に最も発言権があるのだ。読み終えたレポートを傍に置き、母は言った。  「森の小径といえばさあ、もうすぐ学芸会じゃない。さきは木の役をするんだっけ。祐一は?」  「僕のクラスは演奏だけだよ。最近はやってるドラマの主題歌、リコーダーで」  何気ない風を装い、そう答える。  期待をしないように自分に言い聞かせたが、こう聞くのは止められなかった。  「お母さん、来てくれる?」  「絶対行くって。さきは初めての学芸会だし。あんたは最後でしょ」  母は手を止めてこちらに笑いかける。  祖母のよかったねえ、の声が一層心を明るくする。僕は笑顔を隠しきれず、その夜は宿題の問題など頭から飛んでいってしまった。    「ごめん、講演が長引いちゃってて、間に合いそうにないよ」  電話越しの母は申し訳なさそうにそう言う。僕はなんでもない風を装って、いいよ、と答えた。前日、何かあったときのため、と母に携帯電話を持たされた時から、嫌な予感はしていたのだ。  「さきにも言っておくから」  学校の階段下で、僕は電話を切った。  「母さん、学芸会は来られないって」  案の定、さきはしかめ面でえー、っと声を上げた。  「やだあ」  彼女の目に涙がたまり、見る見るうちに頬を伝う。  「仕方ないだろ」  ため息をついて、さきの木の衣装を直す。そばにある体育館の入り口がざわめき始めた。  「ほら、終わったみたいだよ。次、出番だろ」  ぐずるさきをなだめて同級生と合流させ、僕は自分の待機席に戻った。さきのクラスの劇が始まる。  音楽とともに子供たちが踊り始め、その中にさきの姿も見えたので、僕は安心する。  しかし、音楽が盛り上がりを見せたその時だった。不意にさきが踊るのを止め、舞台の外を見つめ出した。数秒の間さきは立ち尽くし、笑顔になってこう叫んだ。  「くんちゃん!」  そして、舞台の階段を駆け下りると、止めようとする教師たちをかい潜り、体育館の外へと出て行った。観客たちはどよめき、しばらく舞台の上は静まった。  僕は、同級生に横から突かれ、顔が熱くなるのを感じた。さきのやつ、何を考えているんだ? こんな時に想像の友達なんて。  出し物が終わった後、校庭のジャングルジムでくんちゃんと思しき見えない存在と鬼ごっこをしているさきと合流した。そして、ずっとくんちゃんといる、というさきをなだめて祖母の車で帰途についたのだった。  家に植えられている桜の木が見えたところで、僕はやれやれ、とため息をついた。  年月が経ち、家の前に植えられた桜の木も樹皮はあらかた剥げてきていた。それでも、毎年春になると満開の花を咲かせて枝をしならせた。  桜の花の香りまでただよって来そうな二階の部屋で、僕は一枚の紙を眺めていた。合格通知、と書かれたコピー用紙は、僕を故郷から旅立たせようとしている。  何度も読み返したその紙を、畳んで胸ポケットに入れる。  出発の日だからと早起きをしたが、あれこれ準備に手間取っているうちに随分経ってしまった。ふと壁の時計を見ると、戸口に立っているさきが目に入る。  「びっくりした、なんだよ」  部屋着からよそ行きの服に着替えたらしいさきは、僕の部屋に入ってくると、遠慮なく椅子の上に座る。  「なにしてたの、合格通知は何回も確認したじゃん。本物だって」  見られていた、と僕は気まずさを感じる。さきは真っ直ぐに伸ばした長い髪を肩の後ろにはねのけてこちらをじっと見ている。  「いや、改めて、やったなー、と思ったんだ」  「あっそ。東京行きおめでと」  不機嫌だ。ベット周りの小物を手近にあるダンボールに詰めながら、僕は上擦った声で言う。  「悪いけど、こういう小さな荷物は、あとで送ってよ」  はーい、と答えた彼女は別の段ボールから漫画を出してベッドに横になり、パラパラとめくり始めた。受験が終わって改めて考えてみると、ここ一年、彼女とはろくな会話がなかった。  「僕も大学で頑張るからさ、さきも踊りの稽古、頑張れよ」  兄貴らしいことを、と思い、なんとなく思いついた言葉をかける。  「私は、踊りの先生なんかになりたくない」  漫画の向こうから、さきは噛み付くように言う。僕は一瞬怯んだが、近くの椅子に腰を下ろして、仕方ないだろ、と反論する。  「母さんが教授になった時点で、お前が家業を継ぐって決まってるんだ」  ふん、と鼻を鳴らしてさきは寝転んだ。  彼女から目をそらして、壁の時計に目をやった僕は思わず立ち上がる。  「もう時間だ!おばあちゃん、車だせる!」  階下から祖母が、早くおし、と言うのを聞いて僕はさきの足をつついた。  「ほら、見送り、来てくれるんだろ」  車の中でも駅のホームでも、さきは相変わらずふてくされていた。  あと数分で発車するらしいことを電光版で確認すると、僕は祖母と最後の挨拶を交わし、さきに向き直った。  「無理すんなよ」  そばにいた祖母が、とりなすように言う。  「さきちゃんは、大丈夫。お稽古、頑張るもんね」  うーん、と唸るさきの表情は暗かった。僕らの間に微妙に不穏な空気が流れる。  「じゃ、元気で」  発車のベルが鳴り、ぎこちない笑顔の僕を乗せた列車は動き出した。  最後にさきが顔を上げたが、その表情は険しかった。一人にしないで、と言っているような顔だ。しばらくその顔が頭に残り、僕は大学生活の始まりだと言うのに気分が晴れなかった。     それから数ヶ月後だった。  「お兄ちゃん?私だけど。少し話せない」  電話越しの彼女の声は、くぐもっていて、泣いたのを隠しているように感じる。  「ごめん。今、サークルの飲み会」  騒がしい居酒屋の通路で、声を潜めて僕は携帯電話に答える。  「おい、新入り。由緒ある法学研究会による歓迎会だぞ。電話なんて切って、飲め」  いつの間にか後ろにいた男の先輩に大声でそう言われて、僕は慌てて、はい、と答える。  「抜けられない?寂しい、ちょっとでいいから、話したい」  僕は早く電話を済ませたくていらついていた。後にして思えば、素直に寂しいと言うなんて、さきにしては珍しいことだった。  「後で電話するよ、それじゃ」  電話を切って、すみません、と飲み会の席に戻った。そしてその夜は朝まで飲み明かした。  次の日はそのまま講義だったので、結局さきに電話をすることを思い出したのは、数日経ってからだった。  数日後、電話をかけてきたのはさきからだった。  「何回もごめんね、お兄ちゃん、電話して」  いいよ、と答えながら僕は、部屋で勉強をしている最中だった。「試験まであと三日!」と書いて目の前の壁に貼ってある紙を眺めながら返事をする。  「なにかあったの」  「ないけど、最近すごく辛いから。話がしたくて」  そっか、と答えながら僕は、内心ため息をついていた。そんなことで電話しないでくれよ、と思わずにはいられなかった。片手で行政法の教科書をめくりながら、僕はさきの話を聞いていた。  「……おばあちゃんは踊りのお稽古で厳しいし、学校の友達と遊ぶ時間もお稽古でないの。最近は勉強も頑張らなくちゃいけなくて全然休めない。だから最近毎日本当に、もう、全部やだ……」  話がループに入ったところで時計を見る。二十分が過ぎていた。そろそろいいかな、そう思って僕はさきの話を遮った、  「悪いけど、今勉強で忙しいんだ。母さんにでも言ってみな」  さきが一瞬静かになる。母に何かを相談しても無駄なことは、僕らが一番わかっている。親として期待するには、彼女は忙しすぎるのだ。  「分かった」  冷たい声がして、電話は切れた。解放された、と安堵すると同時に後ろめたくもあった。もっと話を聞いてあげればよかった。それでも、試験に向けて勉強をするため、僕はさきのことを頭から追い払って机に向かった。  それから試験やサークルで忙しくなり、さきのことを考えたのは一ヶ月後だった。  冬休みは実家に帰ろうかな、と思い祖母に電話をした時だ。  「こっちの暮らしにももう慣れた。そっちはどう、おばあちゃんもさきも元気にしてる」  私は元気だよ、という祖母の返事に、引っかかるものを感じた。さきは、と聞くまでもなく、祖母は続ける。  「心配させると思って言わなかったんだけどね、最近、さきは部屋に篭って出てこないんだ」  「えっ」  「様子がおかしくてね……寂しい、死にたいって言うようになって……」  祖母の声は消え入りそうだ。僕は、大丈夫だよ、とか、休みになったら会いに行くから、とか曖昧に言葉を濁して電話を切った。  やはりか、という思いとどうにかしないと、という思いが交錯していた。さきが抑鬱状態になった責任は、孤独な彼女を放っておいた僕にも確かにあった。  その日は、すでに深夜が近かった。さきに直接電話をすることはやめ、僕は悶々とした想いのまま寝床についた。眠りにつこうとしてもさきのことが心配で眠れない。つい携帯を開き、ぼうっとしていると、メールが来た。飲み会で知り合った友人からだ。  「起きてる?この間の飲みで話してた、招待性のSNSのアドレス送るわ。二○○七年度法学研究会っていうコミュニティで、過去問を先輩からもらったり、試験対策するから、お前も入れよ」  今は、それどころじゃない、と思ったが大学では付き合いが大切だ。仕方なくメールアドレスを押し、SNSに入る。  会員として登録するために、自分のアドレスを送ったり個人情報を打ち込んだりしなければいけないらしい。SNSというものを始めるのは初めてで、何をどうしたら良いかもわからない。それでもなんとか登録を済ませ、仲間たちのいるコミュニティに、よろしく、とメッセージを入れた。  その間、詳しくなろうとSNSを見て回り、人物の名前で検索すればその人のアカウントがヒットするらしいことがわかってきた。  試しに、中学時代の好きな子の名前で検索してみる。彼女は一層垢抜けた写真でネットに笑っていて、今は東北の大学に進学しているらしい。すごい、昔の知り合いの、今が知られるなんて。僕は少し興奮した。知人たちが皆SNSをしている理由が分かった気がする。次は誰を調べよう。  片端から浮かぶ名前を検索ボックスに打ち込んで調べていく。あいつ、今どうしてるんだろう。あの子はいるだろうか。そうやって十数人ばかりの知人について調べているうちに、ネタも尽きてきた。次第に適当な言葉や変な名前を入れて遊び始める。  えーと、次は……。  重くなってきた僕の頭に、ある名前が浮かんだ。  くんちゃん、っていたなあ。さきの、想像上の友達。  ぼーっとする頭で、その名を入力する。どんな結果が出るのか、期待すらしていなかった。ただ、やってみただけだ。  検索結果の一番上を開く。  ページが表示された瞬間、一瞬時が止まったように感じた。    住所 森の小径  趣味 キノコ狩り  特技 空を飛ぶこと    僕はぞっとして周りを見回した。さきの「くんちゃん」だ。  どうしてここに「くんちゃん」のことを書いている奴がいる?  こいつはいったいだれなんだ?  頭の隅に追いやっていた、さきへの心配事が、膨れ上がる。  このくんちゃんは、もしかしてさきの何かを知っているかもしれない。散々迷った挙句、僕はくんちゃん猫のイラストのアイコンにメッセージを送った。  「あなたはだれ?」  深夜を過ぎていた。それでも、返事はすぐに来た。身体中が心臓になったみたいな気持ちで、メッセージを開く。  「私はくんちゃん」  書かれていたのはそれだけだ。さらにメッセージを送る。  「君は、さきが言っていた、くんちゃん?」  「そうでもあるし、そうでもない」  「どういうことか分からない」  「会って話しましょう」  夜が明けると、一睡もできなかった僕は街のある純喫茶に向かった。数時間まで他人だった人と待ち合わせをしているなんて変な感じだ。  革張りのソファに座って「くんちゃん」を待つ。しばらく、うとうととしていた時だ。  「祐一さんですか」  思わず跳ね上がる。声をかけてきたのは、同い年くらいの女の子だった。  長い黒髪にメガネをかけている。さきとは少し違って、大人しそうだ。  「はい、そうです。来てくれて、ありがとう」  返事をすると彼女は向かいのソファに座り、メニューを見ずに「コーヒー、温かいの」と店員に注文をした。  コーヒーが来るまで、どう話を切り出したものかと悩んでいると彼女から口を開いた。  「妹さんは、いつからくんちゃんと友達なんです?」  メガネの向こうから真っ直ぐにこちらを見る。  「うーん、小一くらい。もちろん最近じゃ、もう言わないけどさ」  軽い調子を装って答える僕を見透かすように彼女は返す。  「少なくともあなたには言ってないのね。くんちゃんのこと」  僕はむっとして少し黙ってから、質問を投げる。  「君は、どうしてくんちゃんのことを?」  コーヒーが運ばれてきて話が中断された後、彼女は口を開いた。  「私、小さい頃から友達付き合いが苦手で、一人ぼっちだった。それでも両親がいてくれたから寂しくなかったの。でもある時、盲腸で入院することになった。がらんとした病院で、忙しい両親にはお見舞いにもあまり来てくれないし、本もおもちゃもない。本当に寂しくて、死にそうだった。そんな時、くんちゃんが来てくれたの」  「……来てくれた、くんちゃんが」  「くんちゃんは、妹さんだけのものじゃない。寂しい子供の見えない友達なの。友達の原型(アーキタイプ)」  「つまり、さきや君のような寂しい子たちには共通の、想像の友達がいるってこと?」  「それがくんちゃん。私みたいにならないように、妹さんも気をつけて」  「君みたいに」  「数年前、両親が離婚してから、久しぶりにくんちゃんがやってきた。それから、毎日一緒に、私たちは遊んだ。そのせいかな、いろんなことを忘れていっているの。生まれた場所も、自分本当の名前も。分かるのはくんちゃんのことだけ」  僕は唾を飲み、彼女を見た。  「今は私自身が、くんちゃんなの」  喫茶店を出た瞬間、駅に向かって走りながら、僕はさきに電話をかけた。  「お兄ちゃん?」  久しぶりに聞いたさきの声は晴れやかだった。まるでこの土曜日の午後の空のように。息を切らして駅舎に向かう横断歩道を渡りながら問う。  「今どうしてる。自分の名前、言えるか」  「何言ってるの。今、忙しいんだけど」  「……」  一瞬、前から来た人とぶつかりそうになり体勢を立て直す。駅はもう直ぐだ。  「もう切らなきゃ。今、友達が来てるから」  「友達って」  決まってるじゃない。彼女は言う。  「くんちゃんよ」  電話は切れた。  駅に着くと故郷へ行く列車の切符を買い、息を切らして改札をくぐった。  「間に合ってくれ……!」  「さき!」  久々に帰った実家にあがり、さきの部屋の扉を乱暴に叩く。  何度叩いても返事はない。内側から鍵がかかっているらしい。僕は扉に体当りした。鈍い音が響いて扉は鍵ごと外れた。  さきは部屋の真ん中に座ってこちらを見上げていた。  表情はうつろで瞳には何も映していない。僕が誰かもわかっていないようだ。  「僕だよ」   彼女に近づき、こちらを見つめる彼女の手を取った。もっと前からこうしておけばよかった。寂しいとずっと訴えていたさきに、心からすまないと思った。  「ごめん、さき。一人にして」  相変わらず彼女に表情はない。すがる気持ちで僕は続ける。  「くんちゃんはもういらない。二人で暮らそう」  反応を期待して、彼女の背中をさする。もう手遅れなのだろうか。すでにさきはくんちゃんになってしまったのだろうか?  虚しいとわかっていても、僕は彼女の背を撫で続けた。  そして、そうするうちに気がついた。僕も寂しかったということに。ずっと前から、こうして誰かと一緒にいたかったのだ。誰か親しい人と。  「お兄ちゃん……」  顔を上げると、さきが僕を見ていた。  僕はさきに、ごめんな、と謝る。  「もう二度と寂しくさせない」  一瞬黙ったかと思うと、さきは下を向く。その目は濡れて光っている。  「私、ずっとひとりぼっちで辛かったんだから。もう何をしても、無駄。どこに行っても、何をしても同じ。お兄ちゃんといても意味なんかない。私はずっと一人なんだもん」  「僕のためでもあるんだ、一緒にいて欲しい」  さきはうつむいたままだが、僕の言葉を待っているのが分かる。  「一緒に探し続けようよ。人生が寂しくなくなる方法をさ」  さきが顔を上げる。涙が溢れた瞳は、かすかにほころんでいる。  くんちゃん、今までさきと遊んでくれてありがとう。これからは僕が彼女のそばにいる。    
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