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やけに外が明るかった。とうとう死後の世界に来てしまったか。人の声が聞こえる。そりゃそうか。数えきれない人々が様々な想いを抱いて死んでゆくのだから。いや、違う。
恐る恐る目を開けた。灰色の天井が目に入ってきた。海底に眠る錨のように身体が重かった。太い網で縛り付けられているかのように動かない。頭の中で情報を整理しようとするが、後頭部辺りが痛んだ。判らない。
とにかくまた私は助けられたのだ。あの世だと思っていたここは間違いなくこの世だ。私の祖母や祖父もいない。見捨ててくれればよかった。
叫びたい衝動に駆られ、布団をはがした。ふらつきながら、壁に手をつきながら、外を目指した。
「…………」
少年と目が合った。裕福ではなさそうだが、私よりは良い生活をしている風に感じた。耳付近で刈り上げられた短髪が動いた。何を思ったのか黙って行ってしまった。やはり私は死んでいるのか。
そしたら、その少年が人を連れてやってきた。細身の女性だった。奥でお母さんと言っていたから、母親だろうか。
「…………よかった」
その女性は私の手を握って確認するように頷いた。急いで渡されたのは水だった。そういえば喉が渇いていた。一気に飲み干し、ベッドに腰を下ろした。
その女性は少年の母親で、この村に住んでいる人が私と母を偶然、見つけて助けたらしい。そして、後から来たのは少年の姉であり、私の初恋の人であり、生涯を共にするネラさんだった。彼女は眠気が飛ぶような快活な女の子だった。
私はだんだん生気を取り戻し、口から出る言葉はまともになってきた。母の無事も確認し、涙をこぼした。泣き止むまで寄り添ってくれたのはネラさんだった。
その小さな村で作物を育てる手伝いから始めた。初めのうちは失敗ばかりだった。不器用な私にネラさんは笑って、手本を見せてくれた。彼女との距離が縮まるのはそう長くはなかった。いつも私を気遣って、私の母にも優しさを与えてくれた。母は、あの子はいいねと良く言っていた。
私とネラさんの関係を見て、安心したのか母はその一年後に亡くなった。母の顔は気持ちの良い表情をしていた。悲しみに暮れていた私にネラさんは横にいてくれた。いくら私が拒絶しようとも、黙ってそばに寄り添った。
母は村人全員に見送られた。村の子供たちが両手一杯の花びらを天に向かって投げた。晴天へ舞った花びらは母を着飾った。母の棺桶に何も入れられなかったのが悔しかったが、想いがあれば良いというネラさんの言葉に救われた。何度も母と私を助けてくれた、名もなき者に私は祈った。
母の死後、決意を固めて、職を探すことにした。ネラさんは手伝おうとしたが、私は自分の力で探したかったので、断った。古びた整備屋や一人で野菜を売っていた店に頼み込んだ。断られることが大半だった。一週間ほど、探していたら若い奴が欲しいと言ってくれたおじさんの所で働けるようになった。私はそのおじさんから配送の仕事を受け継いだ。
村付近に停めている軽トラで毎朝、仕事へいこうとすると、ネラさんが見送りに来てくれた。毎朝のことなので、後ろには村人やその子供たちが観察していた。私は朝の空気を吸いながら、ようこそスパイク村へと手書きで書かれた看板を見上げてから、出発していた。サイドミラーにネラさんが手を振る姿が映っていた。
これだけ一緒にいることが多いのに結婚の申し込みができずにいた。ネラさんと付き合うことはできているが、それでも良かったのかと私は考えていた。ましてや結婚など、私みたいな奴がそんなことをしてもいいのだろうかと。
村人は私の提案を聞いて、何とか私が結婚の二文字を言えるようにお膳立てをしてくれたが、言えなかった。
そのような状況の中、ネラさんが荷台に乗せてほしいと言ってきた。助手席を勧めたが、荷台が良いと言った。その日は午前中で仕事が終わって時間を余していたから、ちょっとした旅に出かけた。
どこへ行ったら良いかと尋ねても、そのまま真っすぐと言うだけだった。私は言われるがままにハンドルを操作した。風が強く、遠くの方で小さい竜巻ができているのが判った。広大な荒野を突き進んでいた。途中途中、大きめの石を乗り越え、車体がガクンと揺れた。
そのまま進むと、二又の道が現れた。ネラさんにどっちに行くか訊くと、右が良いと言った。我々は右へ進んだ。
ネラさんの声が聞こえなくなった。不思議に思って、軽トラを道の脇に停めた。私はネラさんに呼びかけながら、運転席から降りた。ネラさんは運転席のすぐ後ろで小さくなっていた。視線の先にあったのは鳥たちが横に連なって飛んでいた姿だった。ここからでは何の種類か判らなかった。ちゃんと荷台を綺麗にしておけばと思った。
「どうした?」
「とにかく遠くへ来たかったの」
ネラさんは間をおいて、「私と結婚してくれませんか?」
「………………え?」
私は今でも鮮明に覚えている。大きな一本道が続いて、我々だけしかいなかった。ネラさんの表情から察することができなかった。どうしたらいいものかと頭を掻いたり、爪をいじったりしていた。
「……ダメですか?」
返答に困った。もちろん、答えは、「はい」だが、言えなかったのが悔しかった。この時もネラさんは遠くの大地を眺めていた。私は固く手を握ってネラさんに向き直し、「はい」と返事した。
ネラさんは少し動いたかと思うと、真っすぐ見たまま涙をこぼした。私は性格上、考えすぎてしまう癖があるため、なぜ泣いているのか、何か悪いことをしてしまったのかと頭の中でいっぱいになった。しかし、それは杞憂に過ぎなかった。
ネラさんは私の顔を見て、「ありがとう」と言った。
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