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私はネラさんの要望に応えて、先へ進んだ。助手席にいたネラさんが心配だったが、隣町に近づくと、笑顔になった。
隣町カーゴは我々のいる地域とは大違いだった。立派な建物が立ち並び、人が行き来していた。景色に見とれていた私にネラさんは声を掛け、私の腕を引っ張った。
ネラさんはこの町で流行っている喫茶店や私が見たことないような店に案内してくれた。先程の告白はなんだったのだろうとよぎったが、すぐに忘れた。この時間を楽しまなくてはと。
ネラさんの後を黙って歩いていた時、私に振り返って「もう帰ろうか」と言った。正直、帰りたいと思っていたので私は頷いた。人の間を抜けながら、軽トラの方へ歩き出した。西日がまぶしく、私は瞳を揺らした。
ポツポツと雨粒が私の顔に落ちたかと思うと、突然、大量の雨粒が降り始めた。人々は慌てて、外の商品を中に入れたり、雨に濡れないように屋根の下へ逃げ込んだ。我々も急いで軽トラに乗り、エンジンを掛けた。ネラさんは髪についた雨粒を払っていた。私は後部座席にあったタオルを手に取り、ネラさんに渡した。私は多少ぬれても平気だったので構わず、軽トラを動かした。
隣町カーゴを出て、一本道が見えた。広大な大地に猛烈な雨が降っていた。明るい空と反対に地上は荒れていた。窓に一粒、一粒が当たって反射した。
ネラさんが急に歌いだした。それはスパイク村で村人全員が朝に歌っていたものだった。気分が落ち込んだ時はこれを歌うと良いとネラさんが口にしていたことを思い出した。目の前の雨はやみそうにないので、私も歌うことにした。
先程、同じ一本道を走っていたはずなのに、長く感じた。ただ、それも歌うことによって楽しい時間になった。時折、音を外しながら歌った。
歌っている最中、ネラさんが周りの音に負けないように大きい声で私を呼んだ。私は一瞬、横を向いて返事とした。
「受け入れてくれてありがとう」
何のことかと思ったが、告白のことだった。景色は木立に囲まれ、木々がざわめいているような気がした。所々、水たまりができていた。
「言おう、言おうと思っていたんだ私も」
だけど、言えなかった。
「本当にうれしい」
我々は天を巻き込んだのだ。私はこの経験から、若者の恋愛相談に夕立の中で言うと良いと助言するようになった。
この時の私の顔は恐らく人に見せられないほど、気持ち悪かっただろう。だけど、こういう話をしているだけで、笑えた。
林を抜け、広大な平地に戻った。ネラさんはまた歌い始めた。「我を我を――」
夕立は降りやまず、雨粒が車体のあちこちに当たっていた。それは軽快なリズムで奏でる音楽なのではない、一方的な演奏に過ぎなかった。こちらは歓喜に満ちた音楽が響いていた。我々は勝利を勝ち取ったのだ。
「荒野の老犬が天に向かって吠えた」
最後の文を言い終えると、ネラさんは息を吐いた。
「これでも緊張したんですよ」
平気な風に見えて、ネラさんも心の中で苦しんでいたのだろうか。気持ちを落ち着かせるために歌っていたのだろう。黙って荒野を眺めていた姿は私よりも大人に見えた。
夕立が収まったかと思うと、また強く降り出した。またしても視界が悪くなった。ネラさんは安心したのか、眠っていた。なるべく起こさないようにしたかったが、何せ道が悪く、車体が跳ねた。
目を凝らすと、スパイク村の看板が見えてきた。横のネラさんに前を向きながら少し大きな声で起こした。服が擦れる音がしたのでおそらく起きたのだろう。
ちょうど雨の景色が弱まった。急いで軽トラを村の入り口付近に停め、ネラさんと共に飛び出した。村人は家の中で雨宿りしていた。我々が走って村へ駆け込むと、村人たちが心配して出てきた。こんな短い距離でも濡れてしまった。村長が我々にタオルを渡し、促されるまま、家の中に入った。
村長の家で身体全体をふき取った。ネラさんを呼ぼうとしたら、すでに眠ってしまっていた。その姿を見て、瞼が重くなった。私はその横に倒れこんだ。さぞかし良い夢を見ただろう。
真っ白な世界で私は佇んでいた。幸せというものをネラさんに出会うまでは知らなかった。青年だった私は初めて人から愛情を受け取ったのだ。
眠気が襲ってきた。わたしはまた倒れこんだ。
「ネラさん……」
「はい、ここにいますよ」
身体の自由がきかなくなった。腕を上げることもできなくなった。娘、孫たちがベッドにいる私を心配そうに見つめていた。
すると、ネラさんがおやすみ、と静かに、促すように囁いた。あぁ、と私は思った。ありがとう。
老犬は大地を駆けた。何を求めて走るのか。
荒野の老犬は寂しく、天に向かって、吠えた。
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