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深閑とした領域に足を踏み入れた。床も壁も真っ白に塗られた空間に私は息を呑んだ。先に進むことをためらわれるような広大な場所に私は迎え入れられた。
一歩、足を出すと、触れた所から光が同心円状に伝わっていくのが見えた。その場で仰向けになった。天井も終わりがないくらいに突き抜けて、ハッとした。
八十年の人生の中で、一番の転機はネラと出会ったことだった。
「――おじいちゃん」
孫のベルは私の顔を覗き込んだ。次の世代はこの子たちだ。この孫たちにまかせよう。私は右腕でベルの頭を撫でた。孫たちがいてよかった。
娘のスパはベルに寄り添いながら、目に涙を浮かべていた。聡明で我々、大人が驚くような事をしてきた。子供が中々授からなくて何と言って良いかわからない日もあった。子供ができたと判明したときは二人で抱き合った。
スパは撫でていた私の腕を優しくつかんで私の手を握った。手から伝わってくる温もりは、成長を感じさせた。
私の足下にいたネラは私たちを見て微笑んでいた。いつもその笑みが私を幾度となく包み込んでくれた。私が感謝を上手く表現できない時でも、黙って笑みを浮かべた。
突然、若いころのネラが現れた。思わず身体を起こしそうになった。若いネラさんは私を見つけるやいなや、近づいておでこを触ってきた。幼少期にできたこの傷をクールだと褒めてくれた。私も触り返した。
子供の頃、私は親に恵まれず暴力を振るう父親に殺意を持っていた。母は必死に私を守ろうとしていたが、抵抗できるわけもなく、母も何か所も傷を負った。そんな生活に耐えられるはずもなく、少年だった私は母の腕をつかんで家から逃げた。父親は酒に溺れて、寝込んでいた。それが唯一の隙だった。手当たり次第に服、そして掴みとれるだけのお金を持ち出した。逃走中、母は泣いていた。何度も「ごめんなさい」と呟いていた。
行く当てもなく、そこいらの家に泊めてほしいと懇願した。大半は跳ねかえされたが、運よく泊めてくれた人物がいた。人の良いおじさんに見えたから、家の中に入ってしまった。
今、思い返しても最悪だった。なぜあんな奴を信じてしまったのか。父とは異なる悪人だった。
私の母は、近所内で美人な人として知られていた。そこを狙われ、我々を迎え入れた男は私が寝息を立てている間、母を襲った。母が寝ていた布団にもぐりこんで身体を触っていたらしい。
母の様子がおかしいと感じた私は問い詰めた。そういうことだったらしい。くそ野郎、あいつと怒りが込み上げた。その翌日、荷物をまとめてそいつの家から飛び出した。今までの憎しみがそうさせたのかその男をナイフで突き刺した。その後どうなったかは判らない。
私は青年期に入っていた。何とか母と廃屋で身を隠して生きながらえていた。そこがどこかも判らず、雨風しのげる場所に身を置けたのは幸運だった。神はまだ我々を見捨ててはいなかった。悲しいかな、都合の良い時だけ神を頼るとは。
私も母も十分な栄養を摂取しておらず、身体はまるでこどものように細かった。周囲に生えていた雑草の類を食べたりして、腹をごまかしていた。
あの日は遠くまでお金を恵んでもらおうと足を運んでいたため、母も私も疲れ果てていた。空気は暖かく、どこからか虫の声が聞こえていた。
廃屋の入り口付近で、大きな音がした。私は薄目で見た。勢いよく赤い空気が上がると、廃屋が燃え始めた。私は飛び起きて、横臥していた母を叩いた。母も状況が判ったらしく慌てながらも服をとった。火の手が廃屋の側面に猛然と襲った。母の手を取り、身を屈めながら廃屋を出た。夢中で大地を駆けていたら、背後で爆発音がした。おそらくあの家は粉々になっただろう。間一髪で難を逃れた。神が救ってくれのかと思った。意地でも生きてやると私は誓った。
定住場所が無くなったので、路上生活に戻ろうとしたら、母がもっと奥へ行きたいと掠れた声で言った。元々、目的なぞなかったので黙ってそれに従った。
歩けば歩くほど、遠ざかっているような気がした。足が棒になり、歩いているのか意識が複雑に入り混じった。顔を上げれば、そこは広大な荒野だった。風で砂が巻き上げられた。目をつむりながら、ひたすら荒野を歩いた。
あの父親を思い出した。なぜこんな時に。私が助けを求めているというのか。それを振り払うように荷物を持ち直した。
夜になっても、厳しい暑さは変わらなかった。自分の荒々しい呼吸だけが耳に届いた。後ろを振り返ると、母がいなかった。慌てて来た道を戻ると、倒れていた。もう限界だった。二人でこれより先は行けない。母の横に座った。自然とまぶたが閉じてきた。神よ、我々を。
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