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都会のありふれたコンクリートの歩道にズサズサと雨粒が銃弾のように空から落ちてくる。銃弾が飛ぶのをその目で見たことも無いが、きっとこんな感じだと思った。とにかく水の粒が落ちているとは思えないような「重たい雨粒」が降り注いでいた。
綾瀬春菜は会社の同僚女性との帰り道、とあるビルの階段を降りた所にある、隠れ家的なたたずまいのカフェに入ってすぐに、「ちょっと場所変えよう」と友人に告げて強引に連れだし、そこからすぐ傍の建物の中にあるありふれたカフェチェーン店の席に落ち着いた。
春菜と友人は移動中にすでに足元に雨粒が落ち始めたのを見ていた。それで春菜は、とにかく急いで次の店を探したのだ。好条件を考えている暇は無いと思ってのことだった。
二人がカフェの席に付いて窓から外を見ていると、程なくして辺りは暗くなり少し先も見えなくなるほどの雨が降り始めたのだった。
「さっきの店にいたら、大変だったかもね」
春菜は相づちを打つだけで返事をせず、窓の外を見ていた。今居るこの店はビルの5階にある。少なくとも水没はしないだろう。窓の外の雨がみるみる積み重なって道路を満たしていくのが分かる。走る車が水を押しのけて進んでいる。「さっきの店」は、もう水に没してしまったかも知れない。春菜は、この事態についてただ何も言わず「さっきの店」をあとにしたことに罪悪感があった。けれどそれは友人にも分からないことだったし、「さっきの店」のどの人にも分からないことだった。春菜一人が今心に秘めていることだった。春菜はただ友人が、なんでさっきの店を出ようと思ったかを自分に聞いてくることを恐れていた。それについての答えは明白な説得力のある答えは用意しづらかったが、「会いたくない人が店にいたから」と答えるつもりだった。けれど友人は春菜に、そういったことを質問はしなかった。そして二人は呆然と窓の向こうの悲惨な状況について目を懲らしていた。二人が今居る店の中にも続々と「避難」の人々が流れ込んできていた。
綾瀬春菜が「雑音」に悩まされるようになったのは3年ほど前からだ。ある夏の日に、ぼんやりと実家の自分の部屋で昼寝をしていて、何かふと人の声が聞こえた気がして目を覚ましベッドから体を起こした。そのときに彼女の耳には確かに「叔母のあいさつの声」が聞こえた。彼女は自室を出て今へ行き、テレビを見ていた母親に、「妙子叔母さん、久しぶりだね」と言ったのだが、それを聞いた母親は「妙子は来てないよ」というのだった。だがその直後に、その妙子叔母が訪ねて来たのだった。そのときに妙子叔母が口にしたあいさつは、春菜がさっき耳にしたことばそのままだった。
このときから春菜の耳には常に「今現在の音」と「およそ1分ほど先に生じる音」とが混在するようになった。
聞こえる音は、それが何の音であるかは分からなかった。自分で推測してみるしかなかった。目の前で起きていることの音、人の話し声などは当然理解できたが、その目の前で起きていることに被って、「少し先の時間の音」が頭に流れ込んでくるのだ。
当初、それは春菜に大きな苦痛をもたらした。自分の頭がおかしくなったのかと思った。
母が黙ってテレビを見ている姿に、「あ、買い物行ってくるわ。あんたも来る?」ということばが被って聞こえた。
職場の上司がありふれた「朝のお話」をしているとき、最後に取って付けたように人事異動があることを告げるのを春菜だけ耳にして、一人で少し先に驚きの顔を見せてしまい、上司の視線を感じた。
恋人のことばの、先先の声が被って聞こえて、二人で居ることに意外性が失われて酷くつまらないものになってしまって、別れる切っ掛けになった。
そういう、「人との関係」に関わる「ことば」は意味を理解しやすかったが、単なる「音」は推測と想像をするしかなかった。中でも「大きな音」「爆音」「騒音」のようなものは、目の前にまだ何も起きていないうちに聞こえてくるので、春菜はそういうとき一人で、驚いてブルッとすくみ上がったりした。そして周りを見回して「音の正体」になりそうなものを探さねばならなかった。
彼女はその、「現在と同時に聞こえてくる未来の音」について苦しんだが、それについて誰かに相談するようなことが出来なかった。それは親友と思うような相手にも決して言いたくない秘め事になった。病院に行くように勧められるのが恐ろしかった。自分の言うことが正しいということを証明できなかったら困る。逆に、「少し先の未来についての音が聞こえる」ということを証明できたとしたら、それもまた恐ろしい気がするのだ。黙っているのがいい。この能力?と一人密かに上手くつき合っていくことが自分の最良の選択に思われた。
春菜は自分に起きた異常事態について数ヶ月でなんとか慣れることが出来た。未来の音は常に聞こえているが、頭の中で現在に集中し、未来の音を雑音として無視出来るようになった。それでも100%上手く選り分けることはできないにしても。
そこまで行くと、未来の音を自分の生活にプラスに使うことも覚えた。相手の言うことを先に聞くことが出来たから、その相手の考えに先回りしてしまえた。もっとも、そういうことはあまり頻繁に、あるいは大胆にやることははばかられたし、自分自身、気持ちのよいことではなかった。たび重ねると自分の性格が悪くなっていく気がした。
春菜は自分が得た能力をもっと有効に使えないかと考えるようになった。けれど、1分程度先の未来の、しかも音だけが分かっても特別に有用なことに使えるアイディアが思い浮かばなかった。
「1分先のことを言い当てて見せれば少しは驚くだろうけれど、未来を予見するってほどでもないし、占い師にもなれないわね。まあ、それを見せておいて、未来を言い当てられる……みたいに装うことは出来るけれど。修行したら、もっと先の未来の具体的なことが分かるようになるかな?でも、どうやれば能力を伸ばせるのか、見当も付かないわ。1分先の音、声……ううん」
1年ほどがたったころ、春菜は外国の地にいた。そこはカジノ。
「赤の16番、赤の16番」ルーレットの当たり番号を赤いベストを着た男が言う。
「フフフ。また当たり!」
春菜は会心の笑みを浮かべていた。
彼女は考えた末に、「1分だけ先の音が聞こえる」という能力が有効に生かせる方法を見つけた。それがギャンブルだった。彼女は今までの自分の品行方正な人生に別れを告げ、一か八かの世界に足を踏み入れた。一部のギャンブルでは何番が当たりかを声で教えてくれるし、それを聞いてからでも金を賭けるのに充分間に合うのだった。
彼女は方々のカジノで連戦連勝だった。けれど、大きく目立つような勝ちはしなかった。自分に特異な能力があることを悟られてはいけなかったので、用心していた。場所を変え、意図的に勝ったり負けたりを繰り返しながら、最終的にはほどほどに勝つようにしていた。
そして少なからず財産を形成した。方々の国に別荘を持った。
外国のリゾートで楽しんで帰国した春菜は母国の家に帰り着いた。
彼女にはもう、かつての友人知人はあまりつき合いがなくなっていた。自分自身で大きく生活環境を変えたので、つき合う人間も変化していた。
ある日、そんな彼女のスマートフォンがかつて思いを寄せた男性からの着信を告げた。これは意外だった。男性は春菜に「会いたい」と言った。彼女は、一も二もなく快諾した。
「何もかもうまくいってるかも。わたしの人生」
彼女は高層マンションの一室の窓からの景色を遠く眺めて悦に入った。
美しい夜景の広がるレストラン。恋人たちに相応しい雰囲気に包まれていた。
「とってもおいしいわ」
「そう言ってもらえて嬉しいよ。君と会うのにはここがいいと思って選んだんだ」
春菜の前。テーブルの向かいで微笑むのは内村裕也という30才を少し過ぎた男性。5年ほど前に事業を立ち上げた実業家。以前は、彼の周りには魅力的な女性が複数いて春菜は近寄りがたかった。けれど今は状況が変わった。春菜が「事業」に成功したらしいという話が伝わったのだろう。彼も「自分と同ランク」と自分を見なして、あらためて声を掛けてきたのだと春菜は解釈していた。
「以前なら、あなたとこんな風に会えるなんて、思いもしなかったわ。憧れの的だった」
「僕が憧れの的?いやぁ。僕の目が節穴だったのかも。それと、以前は事業を立ち上げたばかりで仕事のことばかり考えていたし」
「うそおっしゃい!女の子といるところ、ずいぶん見たわよ」
「あ、いやぁ、そう言われるとナァ」
「ウフフ」
ワインの赤い揺らめきがやがてバーのカクテルに変わり、遠く光る都会の煌めきに融けていった。
「このお店も素敵」
「よかった」
まさかとは思ったが春菜は裕也に誘われるままにホテルの一室に入っていた。
ここまで、春菜の頭の中に聞こえてくる裕也の声に「1分先の未来」の不満はなかった。それで彼女は会話中に時々、含むような微笑みを浮かべて彼を戸惑わせた。
「何を笑っているんだい?僕、おかしなこと言った?」訝しげに彼は春菜に聞いた。
「ううん」
春菜は伏し目がちに微笑んで首を振った。ソファに二人でもたれながら、部屋に届けられたワインを傾けた。
しばらくそうして二人は雰囲気のよい話をしていた。しかしそこで春菜は表情を曇らせた。
春菜はソファに座り直し居住まいを正した。
「あたしに話したいことがあるの?」
裕也はハッとした顔をして、彼もまた傾いた体を戻した。
「勘が鋭いんだねキミ。頼みたいことが……あることは、ある」
春菜は唇をすぼめてガッカリしたような目になった。
「お金、ね」
春菜の頭の中には、さっきから裕也からの借金の申し込みのことばが響いていた。
「手がけている事業が、ここのところ上手く行かなくてね。もう頼める人はキミしかいないんだ」
「久しぶりに連絡をくれて、用があるのはわたしのお金。浮かれた自分がバカみたいだわ」
「悪いと思ってる。なんとか頼むよ。僕を助けて!」
「冗談じゃないわ。人をいい気持ちにさせておいて、金を貸して欲しいなんて、図々しい……帰る!」
春菜はソファから立ち上がるとハンドバッグを手に取り、つかつかとドアに向かって歩き出した。
「そうはさせないさ!」
裕也は春菜の後ろから追いすがった。二人は取っ組み合いになり、部屋を転げ回った。
「ずいぶん派手にカネを使ってるって聞いてるんだ。少しくらい俺に回してくれてもいいだろ。悪い様にはしないぜ」
「なに言ってるのよ、あんたみたいな男に、もう、興味ないわ!……あぁっ……」
そのとき春菜の頭の中に、鈍く重い衝撃音と金切り声と泣き叫ぶような声が入り交じって響き渡り、それが何の音と声なのか彼女が必死に理解しようとあがく間に、とうとう1分前に聞いたその音が現実になって現れた。
裕也は、春菜に力任せに突き飛ばされ、部屋の壁に頭を強打して滑り落ちて事切れていた。それを見た春菜は声を上げて狼狽し泣き叫んでいた。彼女が聞いたのは自分の狂ったような声だった。
「これは珍しい症例だねえ。というか、本物の超能力と言うべきかな」
「そうなんですか先生?」
「ううん。この女性は、さっきから『私の言うことが事前に分かる』と言って、わたしの発言を先回りして全部言い当てている。これはすごいことだよ。素晴らしい研究対象になるよ」
「いえね。この女性、取り調べの最中も、ずっと我々の質問を先取りして答えて。こまっちゃいましたよ。相手と話していることが先に聞こえて。元はといえば、それが元でこんなことになったとか言ってまして」
「いや、それはほんとかも知れないねえ。これから研究して明らかにしたいと思うよ」
「では、このまま研究施設に送って?」
「うん。そうできると、わたしも願ったり叶ったりだ。素晴らしい研究が出来そうだ」
「分かりました。じゃあ、手続きはわたしの方でしておきますので」
「よろしく頼むよ」
殺人の罪に問われた春菜を鑑定した医師は担当刑事と軽く握手をした。
春菜は、もうこれで、何かの音や人の話し声をあまり気にせずに生きていけることに安堵感を覚えていた。ただ、残念なことに、あの事件での自分の声が頭の中にこびりついて、ずっと繰り返し再生されるのだった。
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