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「おばあちゃん」
突然の春香の声に驚いた。凍りつくような冷えた声色、それに加えて、なんだか悍ましさを覚える。私が振り返ると春香の表情は、どこか澱んでいた。そして春香は沈んだ双眸を私に向けて訊く。
「おばあちゃん、あの話って本当なの?」
その時、私の中の何かが鈍い音を鳴らした。実際、その話は春香にした覚えがない筈…しかし、里子や照彦には物の弾みで少し話した事がある。恐らく、春香はそれに聞き耳を立てていたんだろう。
私はしらを切り、春香の質問にぼんやりと答えた。春香はその場所に興味があると答えた。口調だけ取れば、その程度で収まるかもしれないが、春香の心情、雰囲気を取れば…恐らく行ってしまうだろう。もしあの噂が本当で、春香が必要とするならば、必然的に…
その場合、私はどうすれば…いや、私自身はどうなってしまうのだろうか…春香が今、何を思っているのかわからない…しかし何故か、あそこへ行ってしまえば、もう二度と春香に会えない気がしてならなかった。
そもそも、里子や照彦にさえ、あの噂には抽象的な部分しか話してない。なのに、春香からは何故か具体的な要素まで抑えてるような感じがした。いや、そもそも私でさえ、誰から伝わった話なのか、実は検討がつかない…私は嫌な予感がした…もしかすると…あの噂って…
私は春香が部屋に戻ると同時に家を飛び出し、あの場所へ向かう。実はずっと私には視えていた。それは、私があの場所をずっと必要としていた証拠でもあった。でも今は、以前とは違う理由が私の中で騒いでいた。
ーー
錆びれた古屋、恐らく特定の人間にしか視えない存在、今までずっと視えてないフリをしていてはっきりと視た事がないが、いざ目の当たりにすると、不気味で恐怖心さえ芽生えてしまう。
看板に目をやると、そこには黒い看板に赤い文字で、『祈願屋』と記されていた。
私が恐る恐る中に入ると、薄暗い店内が映る。ここは本当に現実の世界なのか…と思える程に全身の感覚が薄く広がる。そして、目の前には、男が顔に包帯を巻いてカウンター越しに立っていた。
一応、人の形をしているが、私には自分とは違う生物に視えた。
「いらっしゃい。ずっと視えてないように振る舞っていたね」
目の前の男は私に薄気味悪くそう言った。
「あんたがここの店主かい?」
「ああ…その様子だと、ここがどんな場所なのか理解しているようだね」
「……」
私は言葉を噤んだ。何から言っていいのか、暫く逡巡として、私は訊く。
「この場所は、この場所を本当に必要としてる人間にしか視えない。それはわかっていた。でも、この場所の具体的な内容も、この場所を必要としてる人間にしかわからない。ここは、そういう所だね?」
すると、男はカウンターまで手を上げ、軽快に拍手する。
「察しがいいね。その通りだよ」
だとすると、やはり春香は…そう考えると、春香はいずれここに訪れる事になるだろう。春香が何を願うのか、私には検討がつかない…私自身、どうなる事かわかならない。
あの日、春香は私を見た。それが事実なら、恐らく私は春香に…私は男の前で下を向きながら考える。
しかし、男はカウンターに手を置き、バタッと音を立てた。
「さぁ、願いはなんだい?」
「……」
また、口を噤む。ここで私が願う正解はなんだろうか…このままだと、私はどうなってしまうだろうか…ここに来て、私は微かに自分の保身も考えてしまう。そんな自分の感情に軽蔑を覚えるが、それも本来、人間という動物の在り方だとも考えれる。
この特殊な状況は、そんな新たな考えを教えてくれているようにも思える。しかし、そんな私の心の戸惑いに多くの時間を割いている場合ではないのが現状。
男は私の言葉を待っている。急かす事もせず、何分でも、何時間でも、何日でも待ってくれそうな様子に感じ、どこか私の現状を知っているようにもとれた。
店内は静かでいつも聞こえる虫や鳥の声も一切聞こえない。これが本当の静寂だと思った。何周も思考を回転させた挙句、私が導いた願いは…
「私の孫…春香がいずれここに来ると思う。その時、春香がなにを言っても春香自身が幸せになる方向にしておくれ。それが私の願い…お願いします」
私は深々と頭を下げ、男に願いを言った。
「ああ…わかった。貴方自身はどうなっても知らないよ。それでも構わないかい?」
「構わない」
「わかった」
ーー
店を出て、背後を振り返る。しかし、これまでずっと視えていた古屋は、そこにはもうなかった。きっと用を終えた人間にも視えなくなるんだろう。
まるで、今までの事が全て夢だったかのような爽快な気分になる。私を苦しめる物は全て失われたような感じに思えた。
その後私は、いつものように健介が居る病院へ足を運んだ。
病院に着くと、主治医が私の元へ駆けつけた。
「健介君の容体ですが…先程、意識が戻りました!」
私はその言葉で先程より、一層世界が明るく視えた。
「そうかい…」
「しかし、まだ会話出来る程ではありません。それでも、確実に回復の見込みがあります!」
「ありがとう…」
それは健介の生命力が功を成したのか、それとも…
ーー
あの日、あの火事には私にも原因があると思っている。火事を起こした人間には、心当たりがないわけでもない。13年前、夫が経営していた会社をたたんだ理由は精神的なもの、でもそれは、自業自得でもあった。
夫は常日頃から部下達に対しての扱いが悪かった。上に立つ人間はそうならなくてはいけない事は私にもわかってはいたが、それでも人の人生を左右する者、部下達はそんな夫に怒りを覚え、業績を悪化させた。当然、会社が円滑に回る訳がなく、倒産した。
部下達の遺族は、経営者である夫に全責任を咎めた。夫はそこから精神的に衰弱していった。私もそんな夫を心の底から支える事が出来てなかったのかもしれない。
夫はせめてもの償いと言い、あの土地にあの家を建てた。それでも、かつての部下の遺族は夫をまだ許してなかったのだろう…あろう事か、このタイミングで…その事は悔やんでも悔やみきれない…
私は家に着くと、縁側に腰を落とす。今頃、春香は病院で健介の事を聞いているだろう。そして、私は決意した。今日、春香が帰ったら、全てを話そう。今までの事、一切、包み隠さずに。
ーー
戸が開く音が聞こえる。恐らく春香が帰って来たんだろう。
「おかえり、春香」
私はそう言うが、なぜか春香からの反応が伺えない。
「ねぇ、おばあちゃん?」
どこか、春香の声に違和感を覚えた。いつもより、声のトーンが随分と下がっている。
「なんだい?」
私がそう言うと、また少しの間が空いた。敢えて春香を見ないようにしているが、春香は私へ距離を詰めて来ている。
「ムスカリって別の花言葉があるの」
春香の声が、どこか不気味に満ちていた。
「別の言葉?」
私は相変わらず背を向けながら春香に問う。
「うん。『絶望』とも言われているの」
その濁った声色で私は確信した。あの店に行ったと…どうやら最期の時間のようだ。私はゆっくりと春香の方を向く。
「ねぇ、おばあちゃん?」
春香は包丁を振りかざしながら私に質問をする。
その質問内容は、いつその質問をされるのかずっとヒヤヒヤとしていた内容だった。
しかし今は、安堵している。なぜなら春香は微笑んでいるつもりかもしれないけど、その瞳からは、涙が溢れていたから。あの日以来、ずっと押さえ込んでいた感情がやっと表情で示してくれたから。ようやく、本当の春香に出逢えた気がした。
春香はあの店主に何を言って、何を言われたかは、わからないけど、少なくても私の願いは叶えてくれているように見えた。
私は質問に答えず、開いた瞳をそっと閉じ、自分の最期を悟った。どんな形でもいい、この子が幸せでいてくれたら、残念ながら私にはその幸せを側で見る権利はないようだが…
だから未来の事は、そうだね…神様にでもお願いしようかな…
私達のすれちがう心、それは決して交わる事を赦されないのだから…
『すれちがう心』〜完〜
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