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「主人は優しい人間やった。捨てられたわしを拾って、体をきれいに洗ってくれて、毎日おいしいご飯をたらふく食べさせてくれはった」
猫は懐かしむように言った。
その表情は幸福に満ちていた。
「わしはご主人からぎょうさん幸せをもろた。やけどわしは最後まで何も返せんかった」
悲しげに語る猫に私はなんと答えればいいのかわからなかった。
「もし、今みたいに人間と話せたらご主人を助けられたかもしれへん。そう思い続けてたからあんたとは話せたのかもな」
私は橋で川を眺めていた自分を思い出した。
もし、人の言葉を話すこの不思議な猫が現れなかったら、私はどうなっていただろう。
「私、あの時死のうと思ったんです。全てを終わらせたかった。
でも、猫さんに出会って、一緒に過ごすうちにすごく温かい気持ちになりました。ここがとても冷たかったのに」
私は自分の胸に手を当てた。
「さっき猫さんは何も返せてないって言ってましたけど、ご主人は猫さんからたくさん幸せをもらってたと思いますよ」
猫はじっと私を見つめた。
「やったらなんでご主人は死んだ。なんでわしを置いていった」
猫の自分を責めるような言い方に、私は胸がキュッと締め付けられた。
「きっと優しい人だったんだと思います。優し過ぎて、自分が辛い時、他人に頼ることができなかったんです。それに……」
私は猫に微笑んだ。
「猫さんを残していったのは、自分の分まで幸せに生きてほしかったからですよ」
猫はハッとした表情で私を見上げた。
そして、ポロポロと涙をこぼした。
「わしは伝えたかった。心配してるって。わしは、わしだけはご主人の味方やって」
「そうですよね。心配してくれる人は誰にだっていますよね……」
私は猫の頭を撫でながら、両親の顔を思い浮かべた。
どうして私が死んだ後、悲しむ人たちのことを忘れていたんだろう。
「私、有給を取ろうと思います」
「ゆうきゅう?」
猫は首を傾げた。
「休むってことです。それで実家に帰って、両親に会ってきます」
猫は目を細めた。
「さよか。よおわからへんけど、あんた、顔が生き生きしとる」
「あはは。そうですか? 猫さんはこれからどうするんですか?」
「わしはどないしようかな。また野良にでも戻るかもな」
猫はポツンと呟いた。
その姿はとても寂しそうだった。
だから、私は気づいたらこう言っていた。
「一緒に住みますか?」
私の唐突な提案に猫は驚いているようだった。
「ええのか?」
「まあ、猫一匹くらいなら大丈夫ですよ。幸いこのマンションはペットも飼えますし」
「猫やない、トラや」
「トラ?」
「わしの名前や」
そう聞いた瞬間、この猫にぴったりの名前だと思った。
「素敵なお名前ですね」
「そうやろ!」
トラさんが嬉しそうに笑ったので、私もつられて笑った。
「あんたの名前は?」
「幸(サチ)です。幸せと書いて」
「ええ名前やな。両親の幸せになってほしいって思いが伝わってくる」
「あっ……」
昔、自分の名前の意味を母親に聞いたときのことを思い出した。
「何で私は幸って名前なの?」
「それはね、幸せになってほしいって願いを込めたんだよ」
そうだ。私は幸せにならないといけないんだ。
死ぬために生まれてきたわけじゃない。
「一緒に生活するにあたって一つお願いがあるんやけど」
「何ですか?」
高級餌が食べたいとかそんなことだろうか。
そう思ったが、トラさんの願いは違った。
「わしより一日でも長く生きてくれ」
トラさんは私をじっと見つめて祈るように言った。
長く生きてくれ、か。
私は心の中で呟いた。
一度死のうとした人間に難しいことを言う猫だ。
でも、
「頑張ります」
このわがままな猫の願いに付き合うのも悪くないかもしれない。
「そこは、はいと元気よく返事せえ」
猫は呆れたように言った。
「えへへ……」
「まあいいわ。これからよろしくな、幸」
トラさんはぴょんっと私の膝の上に乗った。
「こちらこそよろしくお願いします、トラさん」
私がトラさんの頭を撫でると、トラさんは気持ちよさそうに喉をゴロゴロと鳴らした。
何か。いいな。
幸せってこういうことかもしれない。
そう思ったときだった。
「う〜ん」
トラさんが悩ましげに首を傾げた。
「どうしたんですか?」
「なんかご主人とちごて、幸には硬さを感じるねん。何でやろ」
見ると、トラさんの頭は私の胸に当たっていた。
「猫の毛皮って高く売れるんですかね?」
「何で急に殺人鬼みたいなこと言うの!?」
こうして、私とトラさんの日常が始まった。
そして、新しい同居人の影響で、家にはカリカリとササミが常備されるようになった。
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