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「私は江原南美。あなたが殺した江原才三の、妻だった人間です」
江原は右手をゆっくりと持ち上げると、俺のもとへと近づけた。首筋に出刃包丁の刃が当たる。氷のような冷たさに、思わず身震いがした。
「私はあなたに、すべてを奪われました。夫も住む場所も生活も。周りの人は『許してあげなよ』とか『顔上げて前に進みなよ』とか言ってくれたけれど、私はあなたを憎むことしかできなかった。出所してきたら、真っ先に殺してやりたいと思った」
首筋に滴る温かい血。だけれど、すぐに隙間風に冷やされる。
「私はあなたがどこに住んでいるか分からない。だから一か八か、あなたの実家に手紙を送りました。そしたら、あなたはまんまと返事を出してきた。しめた、と思いましたよ。これでようやく復讐ができると。私は八年間待ったんです。あなたを殺せるこの瞬間を」
頭は逃げたいと必死に叫んでいたけれど、身体は動かなかった。その時が来たのだと、直感していたのかもしれない。因果応報。悪事には必ず天罰が下る。
「ねぇ、知ってます? 頸動脈を切ってから、死ぬまでに一二秒かかるんですって。あなたはその一二秒でどんな光景を見るのでしょうね」
気絶から起きたばかり。口を塞がれて息は苦しく、首から出血もしている。
俺の意識は朦朧とし始めた。端から少しずつ視界が狭まっていく。
「最後に一言、なんて言わせませんよ。あなたはこのまま、惨たらしく死んでいくんです。そうして自分の犯した罪を、命をもって償うんです」
冷たい空気、埃の匂い、道路を車が走る音、ロープのざらざらとした感触。それらすべてが、薄まっていく。何も感じなくなっていく。
「では、さようなら。文通、つまんなかったですよ」
首筋に出刃包丁が深く食いこみ、引かれていくのが強烈な痛みとともに分かった。俺はどさっと横に崩れ落ちる。
薄れゆく視界で、埃と砂に赤黒い血が染み込んでいくのが見えた。
目を閉じても、まぶたの裏には何も映らない。ただ果てしない暗闇だけが広がっていた。
(完)
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