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――そうだ。私はかつて母を美しいと思ったのだ。確かあれは、冬の寒い日。その頃、いつも父の帰りは遅かった。私を寝かしつけた後、そっと寝室から出て行き、母は父の帰りをいつも待っていた。でも、その日は違った。玄関の扉が閉まる音で幼き頃の私は目を覚ました。母の姿は家のどこにもなく、母は外に出たことを理解した。心細く思いながらも、私はいつもの母の真似をしてダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。母も今の私と同じ気持ちで父の帰りを待っていたのだろうか。少しして喉が渇いたので、背伸びをしてキッチンの蛇口をひねり、コップに注いだ。思いのほか注いだ水の量は多くて、床に水が零れた。あ、と思ったところで玄関の開く音と、父と母の声が聞こえてくる。私は慌ててコップをシンクに置いて、寝室に隠れた。
「なんでこんなことするの⁉」
「声が大きいよ」
帰ってきた母は興奮しているようで父にいなされながらも、まくしたてるように叫び続けた。「落ち着け」としか言わない父の声が聞こえる。ひと際母の声が大きくなり、人が倒れる物音が聞こえた。私は堪えきれず、こっそりと扉の陰から父と母の様子を伺った。母は父の足に縋り付き「どうしてあの女のところに行くの」だとか、「私全部知ってたんだから」と意味不明のことを口走っていた。父には心覚えがあるのか、うなだれ、母にされるがままになっていた。俯いていた母の顔が父を見上げた。そこにはいつもの優しい母ではなく、髪を振り乱し、号泣する女がいた。私は今までそんな母の姿を見たことがなかった。床をどんどんと叩く振動が私まで伝わってきた。しかし、私はそんな母の姿に対して、恐怖感を抱くことはなかった。初めて母の人間らしさを見た気がしたのだ。そして、決して若くはない年齢だというのに、感情を振り乱しめちゃくちゃになった母を見て、私は美しいと思ったのだ。
女性が壊れる姿以上に綺麗なものを私は見たことがない。そういう意味では、私の初恋の人は母と言えるのかもしれない。私は母以上に美しい女にまだ出会ったことはない。私の幼少時の記憶はそこで途切れていて、次の日の母の様子だとかは覚えていないし、それ以来両親が喧嘩をしている姿を見たことはない。母は傍目から見たら少し地味なおばさん、私から見たらただの優しいお母さんに戻ってしまった。しかし、母にあの顔をさせることができるのは父しかいない。
だから、私は自分の手で他の女を壊したくなるのだろう。そんな偏った欲求を持つ私もどこかが壊れているのだろう。あの日以来、私は母を美しいと思ったことは一度もない。幼き私はあの日から母をわざと困らせるようになった。 しかし、母は反抗期が来たくらいにしか思っておらず、私をたしなめ、時々困った顔を見せるばかりだった。私は新しいおもちゃを見つけた子どものような気持ちで彼女の手を握る。
彼女を粗末な造りのアパートに連れ込むと髪の毛は頬に張り付き、彼女はみすぼらしいだけの女になった。外との寒暖差で今になって寒さを自覚したらしい彼女の手は急に小刻みに、そして徐々に大きく震えていく。
それを見た私はなんだか急に彼女に対する興味を失ってしまった。私は彼女を玄関に置いたまま、コートを脱ぎ捨て、煙草をふかす。彼女よりも彼女を壊した側の人間に会いたかった。会ってどんな仕打ちをしたら、彼女のあの表情を引き出すことができるのか教えて欲しかった。私は私自身が壊れて本当に最後の最後、動くことができなくなるまで、沢山の女を壊してやりたいと思った。壊して享楽を貪って、それだけが私の活力となる。美しくないものなどこの世に要らない。
「帰りなよ」
私は玄関先に立ち尽くす彼女に向かって、そう言った。冬の終わり、土に塗れる雪のように、人々に踏み潰されながら消えたらいいと思った。
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