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途中のコンビニエンスストアで煙草を買うついでに彼女にはホットミルクを買って渡してやる。
その間彼女は店の前で佇んでおり、客がぎょっとしたような表情で彼女を先程と同じように一瞥していく。「あぁ、何で人ってこうかな」奥ゆかしいと言われる日本人には言葉ではなく、他人を視線で殺す力が備わっているのではないかと思う。
無意識にイライラしたことで彼女の腕を掴む右手に力が入る。私は自分を落ち着かせるように、さっきの続きを再考する。
元恋人に誕生日にもらった薔薇の花束。家に持ち帰ってから、インターネットでしつこいくらいに調べ、正しく生けたつもりだったのにすぐに枯れてしまった。刹那的な美しさだった。あとは、これもまた別の元恋人と見に行ったイルミネーション。まさに今日くらいの気温で、二人共歯がカタカタ鳴るくらい寒くて早々と屋内に避難した。初めて見た好きな人の裸体。線が細くて背中から腰にかけての滑かな曲線から私はしばらく目を逸らすことができなかった。彼女は今どうしているだろうか。元気でやっているだろうか。そして、今も私ではない誰かを魅了しているのだろうか。
彼女を振り返り「寒いか」と聞いた。彼女はまるで自分の顔を見られることを恥じるように俯いてしまい、特に返答も反応もなかった。彼女の顔をもう一度見ることができたのなら、この既視感と、感情の揺さぶられた正体が何なのか分かる気がした。
しかし、無理強いしたところで彼女が私の元を去って行ってしまえば私にはもう彼女と再会する手立てはない。私は努めて気にしてない風を装って、続きをまた考える。考えている時の癖でつい買ったばかりの煙草を吸いたくなったけれど、ただでさえ健康増進法やらなんやらで喫煙者に対する風当たりが強くなっている。その中で歩き煙草なんてもってのほかだ。思い出したくても思い出せずそのことに少しイライラしながらも、私は彼女の意思など一切の確認もすることなく足早に歩く。
そもそも、私が見てきた美しいものなどそれ程ないのではないかと思い始めてもいた。それでも私は半ば意地になって思い出そうとする。 もしかして幼少時のトラウマとか、そういうもので思い出せなくなっている?
私が思い出さないように無意識のうちに記憶に蓋をしている?
いや、それはない。私は割と幼少時の記憶は残っている方だし、当時の友人の名前まで覚えているくらい だ。両親は共に健在で当時も家族関係は良好であったと記憶している。私は早めの反抗期を迎え、高校を卒業と同時に実家を出た。晴れて自由の身となり、何人かの恋人と同棲しては別れを繰り返し、今はフリーだ。
つい最近まで一緒に暮らしていた美月のことを思い出す。もしもまだ美月と暮らしていたら、素性も知れぬ傍目から見たらおかしな女を部屋に連れ込もうものなら、大惨事だったに違いない。
美月は美しいというよりも、可愛らしい子だった。背丈は女性の中でもとりわけ低い方で、肌は透き通るように白く、小動物を彷彿とさせるような黒目がちな目をしていた。恋人ながらも私のことを姉のように慕い、どこへでもついてきた。しかし、従順そうな見た目から想像もつかない激しさを見せることもあった。元々の原因は私にあるのかもしれない。彼女は私が他の女の子と仲良くなることを極端に嫌がった。私も私で事なかれ主義でその度に取りなしてはいたのだが、今回に限っては彼女の怒りが収まることはなかった。美月は私を激しく愛し、激しく嫌悪し、いなくなった。
私の心は彼女がいてもいなくても凪のように静かなものだった。変わったことといえば、もう美月のご飯を食べられないことと、美月の柔らかい肌に触れたり、胸に顔を埋めることができないことくらいのものだった。私は最後に見た美月の泣き顔を思い出す。泣きながら怒る顔を、毎日のように思い出しながら、広い布団で私は穏やかな眠りにつく。
雪は止む気配はなかった。怒り狂った美月とこの女を重ねる。すると、記憶の中で若かりし頃の母の姿が残像のように蘇ってきた。
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