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誰も居ないエレベーターホールでボソリと呟くと、スマホにイヤホンを繋いで再生リストをタップする。
ブブブ。
掌の中でスマホが震えると、新着メッセージの通知が三件届いていることに気がついた。そう言えば仕事中はずっとバタバタして、休憩中ですらスマホを確認している余裕がなかった。
新着の一件は母親からで、正社員として採用されたことを報告したからか、今回の転職を祝う内容だった。次の正月こそ実家に顔を出せとも書いてある。
「あれ、漯からだ」
仕事が終わったら連絡してと簡潔なメッセージが一つ、まだ終わらないかなと様子を窺うものがもう一つ。
エレベーターで正面玄関に降りながら、朱鳥は母親と漯にそれぞれ返信を送る。
セキュリティゲートを抜けると、またスマホが通知で震え、アプリをタップすると漯から出口で待ってて欲しいとメッセージが来た。
「なんだろ。迎えに来るのかな」
了解とイラストスタンプを送ると、朱鳥は社屋から出て、正面玄関の端の大きな柱にもたれて漯からの返事を待つことにした。
いつ雪が降り出してもおかしくないくらいの冷え込みに、外で漯を待っている朱鳥を不思議そうに、仕事帰りの人波の群れから幾つか視線が向けられる。
手袋も着けてくれば良かったと、指先に息を吹きかけながら、スマホを手に取りいつまで待てばいいのかと漯にメッセージを送る。
既読がつく様子はないので、漯は移動中なのだろう。
「中で待てば良かったかな……」
もう十分近く経つ。さすがに底冷えしてきて社屋に戻ろうとした時、朱鳥を呼ぶ声が聞こえてきた。
「朱鳥!ごめん、お待たせ」
お疲れ様と駆け寄ってくる漯に、メッセージに気付くのが遅れてごめんと謝ると、朱鳥はその手を握ってお疲れ様と返す。
「それよりどうしたの、急に迎えに来るなんて」
「ふふん。あれ見て」
得意げな漯が指さす先には、見慣れた朱鳥の車がある。
それがどうしたんだと怪訝な顔をしてから、なぜ自宅近くの駐車場に停めてあるはずの朱鳥の軽自動車が、こんなところにあるのか違和感が込み上げる。
「ジャジャーン。これ見てよ」
続けざま、漯はポケットから取り出したものを朱鳥に得意げに見せる。
「……免許、証?」
「そう。無事切り替え出来ました」
もともと、海外での免許は持っていると聞いていたが、このところ忙しそうに外出していたのはこのせいだったのか。
長くは停めておけないからと手を取ると、助手席の扉を開けて朱鳥に座るように急かす。言われるがまま車に乗り込むと、シートベルトをしてる間に、運転席に漯が乗り込んでくる。
「本当は車買おうと思ったんけど、停める場所の問題もあるし、なにより朱鳥に相談もなく大きな買い物するのも気が引けるし、とりあえずは驚かせようと思って迎えにきたんだよね」
「いや、まあ充分驚いたよ」
「そっか。いや、旅行の時は結局朱鳥一人に運転任せちゃって、なんだか申し訳なかったからね。あ、車出すよ?」
「うん。お願いします」
スムーズな運転で車が走り出すと、漯は迎えに来るまでの経緯を説明してくれた。
免許の切り替え自体はそう難しくないそうだが、走行車線や交通ルールの差異を埋めるため、自動車学校で自由練習に参加していたらしい。
運転技術に問題はないが、つい右車線に出るクセがなかなか抜けず苦労したのと、右ハンドルの感覚が掴めずに悪戦苦闘したと言う。
「それはそれは、お疲れ様でした」
「あ、もう完璧に大丈夫だから安心してね。それと勝手に運転しちゃってごめんね、大事な車だよね」
「びっくりはしたけど、別にいいわよ。大事な車ってほどじゃないし」
そう返すが、運転し慣れた車の助手席に乗るのは、なんとも奇妙な気分だ。
ソワソワと落ち着かない朱鳥の様子に気付いた漯が、少しドライブして帰ろうと提案する。
「それは構わないけど、明日も仕事だからあんまり遠くはやめてね」
「分かってるよ」
漯はそう答えると、どこがいいかなと車を走らせながら、ハンドルを握る手でリズミカルに指を弾かせる。
「決まってないなら海が見たいかな」
「海?」
「せっかく休みの間に色んなところに旅行したけど、部屋から出ないことの方が多かったし」
口にしてから顔に火がつくほど赤くなる朱鳥だが、漯はそうだねと部屋にこもってしていたことには言及せずに、夜の海も確かにいいねと進路を高速に変える。
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