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下校時、リュウがカラオケに行きたいというので二時間だけ付き合うことにした。俺と龍星の家は方角的には違うのだが、俺が龍星の家の方に足を伸ばせばカラオケがある。歌うことが好きなわけではないが、遊んでいる最中は遊ぶことに集中できる。楽しいという感情は時間を忘れさせてくれるのだ。
基本的にリュウが二曲入れる間に俺が一曲入れる。二人で遊ぶようになってからは、能動的に動くのがリュウで、コイツが休憩している間に行動を起こすのが俺という構図ができあがった。ゲームセンターに行っても、俺はリュウのゲームを見ている時間が多い。それでいいと思っているし、きっとこれからも変わらない。
カラオケを出ると昼間の晴天が嘘みたいに強い雨が降っていた。見上げた空には黒い雲が広がっていて、思わず大きく息を吸い込んでしまったがため息はぐっと堪えた。雨が振ると思い出したくないことを思い出してしまう。
「それじゃあ俺帰るから」
と、リュウは雨の中に飛び込んでいってしまった。
「アイツ、家が近いからって置き去りかよ」
独り言ちってから頭を掻いた。千歳さんには「八時までには帰る」と連絡をしておいたが雨は止みそうになかった。スマートフォンの天気予報では晴れのち雨であったが、さすがにここまでの豪雨になるとは想像していなかった。
急いでコンビニに駆け込みビニール傘を買った。刹那的にビニール傘を買ってしまうと、家の傘立てがビニール傘で溢れてまるで剣山に生けられた花のようになる。そうなる前に学校に持っていって処分しているが、傘を無言で寄贈しているのが俺だとバレるのも時間の問題だろう。
しかしこればかりはどうしようもない。
コンビニを出て傘を差した。傘があっても徒歩十分以上の距離は面倒くさい。常に腕を上げていなければいけないのもそうだが、湿気の上昇によって不快度も高くなるのだ。
商店街を通り抜け、駅を横目に歩き続けた。駅近くの公園に差し掛かったとき、ふと目端になにかが写り込んだ。顔を向けると制服姿の女子が傘も差さずにベンチに座っていた。俺が通っている学校の制服。リボンの色は赤なので学年は俺と一緒だ。俯いているので顔は見えないが、長くて黒い髪の毛はぺったりと張り付き、なにかの懺悔と言うように雨に打たれ続けていた。
もしもすでに具合いが悪くなっていて、その上でこの雨に打たれているのだとしたら大変なことだ。が、ここで話しかけていいものかどうか。わざとこの雨の中にいるとすれば、声をかけること自体が迷惑になるんじゃないか。雨に打たれるのが好きという理解の及ばない性癖なのかもしれない。
それでも見ているだけというわけにもいかなかった。
近づいて傘を前に出した。彼女に降りかかる雨を遮断してから「あの」と声をかけた。一度目はまったく反応がなかった。二度、三度と声をかけていると、ようやく彼女はゆっくりと顔を上げた。
思わず息を呑んだ。
「一色、さん?」
そう、ずぶ濡れでベンチに座っていたのは一色周だった。いつもと変わらず無表情でなにを考えているのかはわからない。それでも綺麗だと思ってしまった。こんな状況だというのに一色周は美しく、弱々しい可憐な少女のようだった。
「外村くん?」
「こんなとこでなにしてんだよ」
「別に、なにも」
「なにもじゃないだろ。風邪ひいたらどうすんだよ。肺炎になるかもしれないぞ」
「どうでもいいわ」
「親御さんも心配するだろ」
「しないわよ。放おっておいて」
「んなことできるわけないだろ」
小さな手を取った。細くてひんやりとしていて、まったくと言っていいほど力が込められていなかった。
「離して」
「ここにいたらダメだ」
「じゃあどこに行くの? もしかして家にでも連れ込むつもりなの?」
大きな黒い瞳を見つめ続けていると吸い込まれそうになる。
「ああ、そうしよう」
一色の手を引っ張って無理矢理立たせた。少しだけ身体がグラついたので抱きとめて支えた。
胸が大きく高鳴った。いつも凛としていて、いつも背筋を伸ばしているから気付かなかった。こんなにも小さく、か弱い存在だったのだと。
「ほら、これ持って」
無理矢理傘を押し付けた。傘は一本しかないから、俺か一色のどちらかが濡れて歩かなきゃならない。ゆっくり歩くなら相合い傘でもいいのだが、一刻も早く一色を家に連れていかなければ風邪をひいてしまう。
手を強く握り、速歩きで公園の出口に向かった。
「どうして構うの」
豪雨の中ではあったが、これだけ距離が近ければ聞き取れる。
「心配だからだ」
「ただのクラスメイトじゃない。たった数ヶ月よ。友達でも家族でもなんでもない。ただの他人同士だわ」
「そんなこと言ったら人間同士なんてみんな他人だろ。自分以外の人間は全員他人だ。家族や友人っていう関係性はあっても物理的には別の人間。全く関係性のない人間が他人を心配することだってなくはないだろ」
「それは理論的とは言えないわ。関係性があるから心配するんでしょう?」
「もしもそうならこの世からはDVもネグレクトも消滅してることになる」
「それは……」
「人同士の関係性の有無はさ、心配するしないの要素にはなってもそれがすべてじゃないだろ」
「アナタって、変わってるわね」
「久しぶりに言われた」
ぐいぐいと手を引っ張って早足で歩き続ける。人の目はやや気になったが、そんなことを気にしている場合ではない。信号待ちなんかでは特に視線が痛かった。
「私を家に連れ込んでどうするつもり?」
横に並んだ一色が傘を傾けてきた。
「風呂に入れて着替えさせる」
「その後は?」
「親御さんに連絡して迎えに来てもらう」
「本当にそれだけ?」
「それだけに決まってるだろ。なにを期待してるかしらないけど家にはおばさんもいる。だから着替えも困らない」
「おばさん? お母さんではないの?」
そこまで言って、一色はハッと息を呑んでいた。
「ごめんなさい。訊かない方がよかったかもしれないわね」
「いや、いいよ」
信号が青に変わり、その頃には少しだけ周囲の視線にも慣れていた。
俺が足を前に出すと一色も同じように足を出す。俺の左肩は濡れているが、同じ傘の下で同じ速度で歩いていた。
「俺さ、両親がいないんだ」
一色の歩調は変わらなかった。
「八年前、俺が九歳のときに交通事故で死んだんだ。俺と弟と両親が乗っててさ、横から車が突っ込んできて俺だけ生き残った。で、おばさん……千歳さんが俺を引き取ってくれたんだ。引き取ったっていうか戸籍上は父さんのじいちゃんとばあちゃんが引き取ったことになってるんだけど家が遠いから」
「――どうしてその話を?」
「さあ、どうしてだろうな」
「私とアナタはただの他人なのに」
「他人だから無視することもあるけど、他人が命を救うこともある。他人だから親身になることもあるし、他人だからこそ忖度しない意見を言える」
「そういうこともあるっというだけでしょう?」
「そういうこともあるから他人かどうかだけで物事判断できないんだろ」
マンションの入り口でパスワードを入れて中に入った。人がいなかったのは幸いだ。
しかし、エレベーターの中はひどく気まずかった。ずぶ濡れの男女が二人。特に一色は夏服なので薄着だ。ここまで気にしなかったがブラウスに透ける水色の下着が妙に艶めかしかった。髪をかきあげる姿も色っぽく、俺はごまかすように天井を見続けていた。
鍵はかかっていなかった。中に入り「ただいま」と言えば、奥の部屋から「おかえりー」という千歳さんの気怠げな声が聞こえてきた。締め切りが近いので寝る間も惜しんでキーボードを叩き続け、その結果ダメ人間のようになってしまっていた。
靴を脱ぐとき、今までずっと一色の手を握り続けていたことに気がついた。気恥ずかしさが押し寄せて、顔が熱くなってくる。
「そこ風呂場だから。とりあえずシャワー浴びて」
真っ赤になっているであろう顔を見られたくなくて、突き放すようにそう言ってから家の中へと入っていった。背後でガチャリという音がしたので大丈夫だろう。問題なのは千歳さんにどう言ったら納得してもらえるかという点だけだ。
千歳さんの部屋をノックし「ちょっといい?」と言った。
「今休憩中だからいいよ」
ドアを開けると異様な空気が流れ出す。栄養ドリンクとインスタントラーメンの匂いが混じってなんとも言えない淀んだ空気になっていた。資料や本やゴミなどが床を埋めておりいい年をした女性の部屋とは思えない。
「どうしたの? 締め切り前はいつも放おっておくのに」
ワークチェアが回転してこちらを向いた。ボサボサの頭、顔にはおおきなクマを作っていた。メガネは似合っていると思うしちゃんとしていれば美人なのだが、外に出る機会があまりないので「真人間モード」を拝むことはあまりない。
「ちょっと緊急事態で」
「私の力が必要だと。なんかヤバイことに首突っ込んだ? お金?」
「いや、服を貸してほしくて」
「目覚めたのかよヤバイじゃん。確かに緊急事態だ」
「俺が身につけるわけじゃなんだって」
「じゃあ誰? もしかして攫ってきた? ヤバイじゃん。確かに緊急事態だ」
「攫ってはない。連れてきただけ」
「彼女できた? ヤバイじゃん。緊急事態だ」
「アンタは壊れたオモチャか。クラスメイトがずぶ濡れで立ち往生してたから連れてきた。今シャワー浴びてもらってる」
「男? 女?」
「男だったら俺の服貸すでしょ……」
「アンタの友達だからな。さすがに男女の区別はつけられん」
「俺のことどういう目で見てるんだよ。女だ」
「そ、ならいいや」
つまらないとでも言いたげにため息をつき、ワークチェアから立ち上がってタンスへと向かった。ぽいっとワンピースと下着を投げてよこした。ワンピースの色が水色なので、一色の下着を思い出してしまった。
「ワンピースとかもう着ないしその下着もあげる」
千歳さんは右手で「しっしっ」と犬や猫でも払うような動きをし、ワークチェアに戻ってから再度パソコンに向き合った。こうなってはおそらく会話にはならない。一度仕事をし始めると尋常ではない集中力を発揮する。お腹が減るか便意を催さない限りは部屋から出ないだろう。
ワンピースを持ってバスルームに行くと、一色はまだシャワーを浴びているようだった。すりガラス一枚を挟んで見える肌色の景色は、年頃の高校生には少しだけ刺激が強い。
「服とバスタオル、ここに置いておくから」
「ええ、ありがとう」
風呂場の方を見ることなく脱衣所を出た。女子がシャワーを浴びている場所に長時間いるというのも問題だ。
時間も時間なので夕食を食べていってもらってもいいだろう。
千歳さんは忙しくしながらも毎朝の朝食と弁当は欠かさず作ってくれている。だから夕食を作るのは俺の仕事みたいなものだ。と言っても凝ったものは作れないし、俺も雨に打たれて疲れていた。
自室に戻ってタオルで髪の毛や身体を拭いた。部屋着に着替えたあとは夕食の内容を考えながらキッチンに足を向けた。
結局チャーハンとワンタンを作ることにした。簡単で美味しいというのは大事だ。時間がかからないのはいい。
三人分の料理が作り終わる頃、一色が髪の毛を拭きながらリビングに入ってきた。水色のワンピースがよく似合っている。
「お風呂、ありがとう」
「いいよ、気にすんな。そこ座ってて」
チャーハンを皿によそい、ワンタンをお椀に入れた。そこで一色がキッチンに入ってきた。
「二人分?」
「俺の分と一色の分」
「私の分も作ってくれたの?」
「夕食の時間だし親御さんに連絡しておいたら? もう作っちゃったし」
「外村くん、料理できるんだ」
「夕食は俺が作ることになってるから。何年もやってるからある程度は作れる。今日みたいに一品物で済ませることもあるけどさ」
「それでも偉いと思うわ」
一色は皿とお椀を一つずつ持ってリビングに戻っていった。食べていく、という意思の現れだと受け取った。
テーブルにつき、二人で手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます」
二人同時に食べ始めた。弁当を食べているときも思っていたが、やはり一色の食べ方は非常に綺麗だった。急ぐこともなく必要な分だけを口にいれ、一定の咀嚼の後で小さく飲み込む。それを五回ほど繰り返してワンタンを一口飲む。綺麗なのだが機械的で、美味しいのかどうかもわからない。
「美味しい?」
「とても美味しいと思うわ」
「そうか。それならよかった」
どうやって会話を続けていいのかわからない。俺の脳内には彼女のパーソナルデータがほとんど入っていないのだ。読書家であることと、色覚異常があること以外はなにも知らないのだ。
「おばさんは食べなくていいの?」
いろいろと考えているとき、彼女の方から話を振ってくれた。
「千歳さんは仕事中だから。ほっとけば勝手に食べに来る」
「ご職業は在宅なのね」
「作家なんだ。あんまり名前は売れてないみたいだけど」
「なんていう名前なの?」
「ちとせしずく。全部ひらがな」
「聞いたことないわね」
「小説家って多いから仕方ないさ」
「今度買ってみるわ」
「そうしてくれると千歳さんも喜ぶよ。感想でも聞かせてやってくれ」
「そこまではちょっと」
スプーンを皿の中に落として言い淀む。残りのチャーハンを見つめているが、その顔からはなにも読み取れない。
「感想、聞きたいと思うけどな」
「人としゃべるのはあまり得意じゃないから」
「今話してるだろ。四ヶ月間ろくに会話もしなかったヤツと」
「アナタはなにか違うから」
そのとき、一色と目があった。真っ黒な瞳が射抜いたのは、きっと俺の目ではなく心だったのだろう。けれどドキっとしたわけではない。ゾクッと、背中に冷たいものが這うような感覚があった。
「なにが違うんだ?」
「最初見たときから雰囲気が他の生徒と少し違うなと思ったの」
「雰囲気なんて変えようと思えば変えられるだろ」
「上辺だけじゃなくて、もっと本質的はものが高校生らしくないというか、どこか達観している感じがしたわ」
「そんなこと言ったら一色さんだって高校生らしくないでしょ」
「それはきっと諦めているからよ」
「自分が諦めていることもわかってるし諦めた理由もわかってるのに、それでも諦めることを続けてるのか?」
「なにを諦めているのかは訊かないのね」
「それは、まあ、訊いていいのかわからなくて」
一色がなにを諦めたのかはわからない。好きな人かもしれないし、なりたかった職業かもしれない。スポーツかもしれないし勉強かもしれない。それでもなぜ諦めたのかはなんとなくわかっている。
「白と黒と灰色の世界では、人と同じように物を見ることができないの。赤だと気分が高ぶるとか、青だと気持ちが落ち着くとか、そういうのがまったくわからない。他人と同じ立場で気持ちを同調させるということができないのよ」
「色がわからないから諦めたのか?」
「そうよ。私は私という人間を諦めたの。諦めるしか、なかったのよ」
その後、一色はスプーンを動かし続けた。なにかを忘れるように食事を続けた。対話を続けたくないという意思の現れだったのかもしれない。そんなことをされなくても俺は会話を続けることができなかった。俺は彼女ではないから。彼女の気持ちを、彼女の思いを理解することはできないから。所詮、他人だから。
食事を終えた彼女はどこかに連絡をし、近くのコンビニまで迎えに来てもらうことにしたらしい。制服が入ったビニール袋を左手に持って部屋を出た。
マンションの入口まで彼女を送り傘を渡した。
「気をつけて帰れよ」
「ええ、ありがとう」
一歩、二歩と歩いた彼女がこちらへと振り向いた。
「今日の話、忘れてちょうだい」
わずかに頬が緩んだような気がした。一色周という少女の笑顔はみたことがない。けれど笑ったら今よりもずっと美しいのではないか。
それきり振り向くことなく、凛とした後ろ姿のまま消えていった。
『私は私という人間を諦めたの』
彼女の後ろ姿が見えなくなる瞬間にその言葉が脳内で再生された。
「自分であることを辞めたのはお前だけじゃないけどな」
誰も聞いてないという確証があるからこそ言えるセリフだった。今の俺を知っている人間には聞かれたくない。聞かれてしまえば今の生活が変わってしまうと思うから。昔に戻ることができないのなら、今の俺のまま前に進むしかない。そうして生きていくと決めたのだから、俺はそれを突き通すしかなかった。
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