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 昨日あんなことがあったというのに、俺と一色の会話は「おはよう」「ええ、おはよう」だけだった。いきなり距離を縮められても困るが、なにもなかったかのように振る舞われるのも反応に困る。  夏休みまであと二週間というところだが、正直夏休みだから予定があるかと言われるとそうではない。ダラダラと過ごして気がつけば夏休みなんて終わっている。休み時間になれば教室は色めきだつ。それが騒がしくて、耳障りだった。  弁当を食べたあと、リュウが友人に呼ばれたからと自分の教室に戻ってしまった。一人で小説を読み続けてもいいのだが、できれば人がいないところで静かに読みたい。  そうと決まればあとは動くだけだ。幸い、一年の頃に静かな場所を求めて校内を散々歩き回った。そのおかげでどこに行けば静かに読書できるかは知っている。  カバンから文庫本を取り出して、喧騒の中を突っ切って教室を出た。  普段生徒たちが授業をする教室がある場所を一棟、渡り廊下を挟んで理科室や家庭科室なんかがある場所が二棟だ。二棟は用事がなければ使われることは少ないし、特に歴史資料室や世界史資料室がある三階は本当に誰も来ない。  渡り廊下を歩いて二棟へ。歴史資料室は鍵が掛かっていて入れないが、資料室の前は風も吹くし読書をするには最適だ。  そう思ったのだが、どうやら先客がいるようだ。 「俺、キミのこと好きなんだよね。付き合ってくれないかな?」  告白現場に遭遇するとは思わなかった。特に野次馬根性もないので顔を確認することもしないしそもそも人の色恋に興味がない。だがちょっとだけドキドキするのは、俺が正常な男子高校生だからだろう。 「私のどこが良かったんでしょうか」  踵を返したところで足を止めた。この声には聞き覚えがある。声だけで判断するというのは難しいけれど、この抑揚のない喋り方、それでいてよく通る低めの声。俺の耳が間違っていなれければ告白の相手は一色周だ。  壁に寄りかかり、少しずつ近づきながら聞き耳を立てた。自分でもどうしてこんなことをしているのかと疑問だが、おそらくは好奇心というものだろう。あの一色が告白されたというのもそうだが、どうやって断るのかが気になった。確かに一色は美人かもしれないがそれだけと言ってしまえばそこで終わりだ。 「まずアナタの名前を聞かせてもらっていいかしら?」 「俺は三年三組の三田だよ。三田克久」 「それでは三田先輩、私のどこが好きなんですか?」 「なんていうか大人っぽくて、いつもぴしっとしててそれがいいなって思ってるんだ。普通の女子とは違うし誰かと群れることもなくてカッコいいっていうか。はっきり言っちゃうと一目惚れなんだけどさ」  どんな表情をしているかわからないが、きっと三田はひどく恥ずかしがっていることだろう。だがこれが演技であるということを俺は知っている。  三年三組、三田克久。イケメン芸能事務所にいてもおかしくないくらいに顔立ちが整い、身長が高くスラリとした体躯で女子人気はかなり高い。キレイな顔に似合う服装を選んでいるため見た目は爽やかだし交友関係も非常に穏やか。  というのは建前だったりする。中学が一緒なので知っているが、三田という男は女にだらしなく、中学時代の友人は不良ばかりだった。悪い噂はその不良たちが全部引き受けて、その代わりに三田が引っ掛けた女を不良たちの遊び相手にあてがっていた。  ちなみにそれを知ってしまった俺は三田とその友人たちにボコボコにされた経験がある。同じ学校だと知ったときは本気でビビっていたが、三田は俺の顔を見るなり鼻で笑うだけだった。あれからちょっかいかけられることもないので安心していたのだが、まさかこんなときに関わることになろうとは予想外だ。 「つまり私の外見が好みということでよろしいのでしょうか」 「まあそうだね。こんな美人と付き合えたらどれだけ幸せかなって思ったんだ。それにさっきも言ったけど、他の女子みたいに群れないところも素敵だよ。高校生なのに本当にカッコいいと思う」 「群れないことがカッコいいと?」 「群れないことがカッコいいんじゃなくて、一人でいてもキチンと前を向いて歩いてるのがカッコいいんだ」 「そう、ですか」  ここからでも一色のため息が聞こえてきた。わざと声に出したのかもしれない。 「それでどうかな。付き合ってもらえないかな」  少しの間、二人の間に静かな空気が流れた。 「申し訳ありませんが、私は色恋に興味がありません」  その空気を一色が切り裂いた。鮮やかすぎるほどの一刀両断。 「とりあえずでも付き合ってみたら興味が出るかもしれないだろ?」 「たぶんですが、それもありえないと思いますよ」 「どういうこと? 理由、訊いてもいいかな?」 「簡単なことですよ。今の私を見て、一人で前を向いて歩いてるだなんて言う人に興味を抱くことなどないからです」  小さな衣擦れ音が聞こえたあとで「それでは失礼します」と一色が言った。  ペタペタと靴音が近づいてくるが、隠れる場所もなくその場でうずくまっていることしかできなかった。そうして、俺の身体に影が落ちた。 「行くわよ、外村くん」 「行くって、どこに?」 「教室に決まってるじゃない。ほら立って」  言われるがままに立ち上がった。 「俺がここにいること気付いてたのか?」 「ええ、見えたから」 「一応言っておくけど尾行してたわけじゃないからな。盗み聞きしたくてしたわけでもない。なんていうか動いたらここにいることバレそうだから動けなかっただけだ」 「そういうことにしておいてあげる」  彼女が歩き始めた。彼女の髪の毛がふわりとなびく。静かに歩くその姿はこの学校では間違いなく浮いていた。背筋はピンと伸び、足を動かしても身体が横に振られることはない。お嬢様学校にでも通っている方が似合う。  教室に戻ってしばらくすると授業が始まった。一応ノートはとっているが、退屈であることには変わりない。だからこそ考えてしまう。考えることなど一つしかない。一色周のことだ。  先程の一件でより一層彼女のことがわからなくなった。いや、告白を躱したこと自体は予想通りだったのだが気になることを口にしていた。 『一人で前を向いて歩いてるだなんて言う人に興味を抱くことなどないからです』  彼女ははっきりとそう言った。つまり一色は前を向いて歩いていないということだ。おそらく物理的な意味ではない。けれど後ろ向きに生きているというような印象も受けない。自信があるという感じでもないが、精神のほの暗さなども感じられないのだ。 「色覚異常、か」  こればかりは経験がないと理解なんてできない。例えば失恋だとか、身内が亡くなっただとか、そういうのであれば話を聞くだけでも理解を示すことは可能だと思う。理解できたかどうかではなく寄り添えるかどうかという意味合いでしかないが、それでもおそらくは誰しもが経験するであろう現実だからだ。  しかし一色は違う。病気だとか怪我だとか、そういうのは実際の経験がなければ寄り添うことが難しい。少なくとも俺はそう考えている。  ぼーっと窓の外を見た。俺は一色になにかをしてやりたいと考えているのだろうか。「してやりたい」だなんておこがましいにも程がある。わかってはいるが気になってしまった。一色は極力人と関わらないようにしているから、俺がなにかをしようとしても拒否するはずだ。そうやって距離を置かれるくらいならば、いっそのこと一色の色覚異常のことを忘れてしまった方が楽になれる。忘れられたら、の話しだが。
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