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午後の授業が終わった頃、リュウからメッセージが届いた。今日は用事があるから先に帰るとのことだった。
教室を出ると、前方にカバンを持った一色の姿が見えた。帰るのだろうなと思うのが普通だが、どうやらそんな感じではないらしい。少しだけ浮世離れした雰囲気があるのはやはり変わらないが、周囲の状況に違和感を覚えた。何人かの女生徒と一緒に歩いているのだ。お世辞にも真面目な学生とは言いづらい女生徒たち。まるで一色を囲むようにして歩いていた。そのまま二棟に続く渡り廊下の方へと曲がっていくが、嫌なの予感がぞわぞわと胸の内側から湧き出てくる。
急いで追いかけ、気取られないように渡り廊下の方へと曲がる。お昼休みも人気はないが放課後は特に顕著だ。ほとんどの生徒たちは部活か帰宅かのどちらかで、お喋りに興じる生徒も自分のクラスで話をする。教師も部活に行くか、職員室などで自分の仕事をすることが多い。この時間に二棟に行くということはそれを知っているということになる。知っていて一色を連れて行く。
女生徒の集団は二棟に入り階段を登って四階へ上っていく。一色は黙ったままだが、周りの女生徒たちは楽しそうにお喋りをしていた。品性の欠片もない笑い声は頭痛を誘うようだ。
「おい」
と背後から声をかけられ、口から心臓が飛び出そうになった。
口に手を当て、ゆっくりを振り返る。
「おまえ、急に声かけんなよ……!」
用事があるからと帰ったはずのリュウだった。
「悪い悪い、ハルが怪しい動きしてたから、つい」
「別に怪しくねえよ」
「でも尾行してたよな。女生徒の集団」
「それは一色が……」
「周ちゃんが?」
「親しくもない女の子を軽々しくちゃん付けで呼ぶな」
「で、周ちゃんがどうしたんだ?」
ここまで言っておいてしらばっくれることができるだろうか。いや無理だな。
一呼吸置いて、考えがまとまらないまま口を開いた。
「一色がその女生徒たちに連れてかれたんだ」
「マジか、そりゃヤベえな」
「なにがヤバい?」
「あの女生徒の集団な、あんまいい噂聞かないんだよ。OBのチンピラみたいなのと仲がいいみたいだしな。三田っているだろ、アイツとも繋がってるんじゃないかな」
「ああ、そういうことか……」
合点がいった。三田の名前が出てきた瞬間にこの状況を察する。
「三田とまたなにかあった?」
俺が三田とイザコザがあったことをリュウは知っている。というかリュウに助けてもらったから今の俺があると言ってもいい。
「一色さ、お昼休みに三田に告白されてたんだよ」
「ストーカーかよ怖すぎんだろ。お前いつから周ちゃんの追っかけ始めたんだよ」
「そう見えなくもないが断じて違う。読書をするために静かな場所を探してたら遭遇しただけだ」
「仕方ないから信じてやる。で、断ったんだよな?」
「断ったから、たぶんこういうことになってんだよ」
「これからどうするつもりだ? もう四階行っちまったけど」
気がつけば女生徒たちの喋り声はほとんど聞こえなくなっていた。
遠くの方でガラガラとドアがスライドする音が聞こえた。続いてガチンと、鍵が閉まる音がした。
「お前のせいで見失っただろ!」と小さな声で抗議した。が、リュウは笑って「なんとかなる」と俺の肩を叩いた。
リュウはいきなり駆け出して、一気に階段を上っていってしまった。大声を上げるわけにもいかず、俺はその後姿を追いかけることしかできなかった。
俺が四階に到着すると、廊下の奥の方でリュウがしゃがみこんでいた。たしかあそこは空き教室だったはずだ。手招きされるがままに俺も空き教室へと近づいていった。ドアの磨りガラスからはなにも見えなかった。三田や一色は教室の奥の方にいるんだろう。
「ここか」
リュウと同じようにドアに耳を当てる。中からボソボソと話し声が聞こえてくる。
「俺さ、傷ついちゃったんだよね。せっかく勇気出して告白したのにさ。だから責任取ってよ」
「責任、ですか?」
「そうだよ。俺の心を癒やすためにここで脱いでよ。それ以上はなにもしてくれなくていいからさ」
「下着もですか?」
「当たり前でしょ。大丈夫だって、写真とか撮ったりしないからさ。脱いでくれるだけでいいんだって」
「私にメリットがないように思えますが?」
「あるよ。言う通りにすれば痛いことしない」
「それはメリットとは言えないと思いますが」
「でもさー、ここまで来てなにもしないで逃げられるなんて思ってないよね?」
そんな会話だった。
「あのクソ野郎」
ゲスにも程がある。なにもしないだなんて言って、アイツが本当になにもしないはずがない。中に何人いるかわからないが間違いなく複数人いるはずだ。そいつらの目の前で服を脱げって発想自体がどうかしてる。
「早めに手を打たないとマズイわな」
「つっても二人でなんとかできると思うか?」
「やってみりゃ案外できるとは思うけどな。でも鍵がかかってる。さてどうする?」
「どうするって言われても……」
この状況で考えられることなど多くない。俺がドアの前で騒いで時間を稼いで、その間にリュウに先生を――。
「先生そりゃ酷いっすよ!」
突如、リュウが大声を出した。同時にドアをガタガタと揺らし始めた。
空き教室の中が騒がしくなっていく。それでもリュウは気にすることなくガタガタ、ガタガタとドアを動かそうとしていた。
「あれ? 先生おかしいですよ? ここ空き教室ですよね? もしかしたらタバコとか吸ってるかもしれないですよ。はい、その方がいいと思います。わかりました、俺はここで待ってますね!」
一人芝居がやけに上手い。
と、関心している場合ではない。
リュウがなにを考えているかを考えろ。なにを思ってこうしたのか、俺になにをさせたくて大声を上げたのか。
腰を上げ、けれど磨りガラスからは見えないところで身構えた。
足音が一つ聞こえてきた。磨りガラスに一人の生徒。ガラリと一気にドアが開いた。
そして、俺は飛び込んでいく。
「なんだコイツ!」
俺が飛び込むのをわかっていたかのように、リュウがドアの前の男子生徒を抑えてくれた。
教室に入ると複数の先輩が立ち上がった。男子五人、女子四人。彼らは一色を中心にして円形に広がっていた。予想以上の人数に面食らったが、ここで「すいませんでした」と逃げ帰るわけにもいかない。
一色がこちらを振り返った。無表情でなにを考えているのかわからない。それでも俺は見逃すことができなかった。彼女の左手の僅かな震えを、見逃せなかったんだ。
「誰かと思えば外村くんじゃん。なに、仲間に入れてほしいわけ?」
ニヤニヤと、あのときと変わらぬ笑顔で三田がそう言った。自分はスクールカーストのトップなんだ、だから下の奴らは見下していいんだ。そう言っているようにも見えた。
強く、強く握りこぶしを作った。
「久しぶりですね三田先輩。悪いんですけど、別に仲間に入れてほしいわけじゃないんで」
「じゃあなんで来たの? もしかしてまたボコられたいとか?」
「そんなわけないじゃないですか。忘れ物、取りにきただけですよ」
「忘れ物? ああそうか、陰キャくんは人がいないところで読書とかしてるんだもんな。ここに忘れ物してもしかたないよな」
そこまで言って顔つきが変わった。
「じゃあ忘れ物持ってとっとと出てけよ」
怖い。知らないうちに左足が一歩下がっていた。
でも逃げるわけにはいかないのだ。さっきも言ったが、俺は忘れ物を取りにきたのだ。
「じゃあ、忘れ物もらっていきますね」
少しずつ中央へと歩いていく。そのへんのテキトーな机に向かって、一歩ずつ歩いていった。
そうして、一色との距離が一メートル弱まで近づいた。
「行くぞ!」
細く、小さな手を取った。
「外村てめえ!」
一色を引っ張り込み、猛ダッシュでドアの方へと向かった。先程ドアを開けた先輩がいなかったのですんなりと空き教室から脱出できた。
「終わったらしいな。さっさと行くぞ」
ドアを開けた先輩は、どうやらリュウがなんとかしてくれたらしい。なんとかというか、脱がされたであろうズボンを握りしめて廊下でうずくまっていた。
一色の手を引いたまま一段とばしで階段を降りた。運動神経は悪くないんだろう、一色もちゃんとついてきている。
「お前ら覚えてろよ!」
なんて声が上から聞こえてくるが、今は聞こえなかったということにしておこう。
そうして階段を全部降りきって、二棟をあとにし、下駄箱までやってきた。
「なんとか逃げ切れたな」
額の汗を拭いながらリュウが言った。
「なんとかって、これからどうすんだよ。完全に三田に目つけられたぞ」
「そこはまあ、なんとかするしかねーだろ」
「お前の生き方見習いたいけど絶対あとで後悔しそう」
「案外たのしいかもしれんぞ。なにより楽だ」
ははっと笑いながら、リュウは腕時計に視線を落とした。
「ってこんな時間じゃねーか! じゃあ俺用事あるから先帰るわ! じゃあな!」
ここまで引っ掻き回しておいて自分だけさっさと帰ってしまった。
「外村くん、手」
「手?」
右手を見ると、一色の左手を強く握りしめていた。
慌てて離し「ご、ごめん」と手を上げる。どうしてそうしたのかは自分でもわからない。
「帰りましょうか」
あんなことがあったというのに、一色は下駄箱から靴を取り出し、淑やかな動作でそれを履いた。それをぼーっと見つめていると「帰らないの?」と言われてしまったので、俺も靴を履き替えた。
グラウンドでは野球部が声を出しながら練習をしていた。テニスコートからはパコンパコンとボールを打つ音がする。三田に睨まれたのが嘘みたいな、そんな穏やかな帰り道だった。
「どうして来たの?」
ふいに、彼女がそう言った。
「どうしてって、連れてかれるのが見えたから」
「なんで助けたの?」
「嫌な予感がしたから、かな」
「またあとをつけてきたのね」
「結果的にそうなっただけだって。そしたら一色を連れていった女生徒たちが三田の知り合いだって知って、追いかけなきゃヤバそうだなと思った」
「あの三田っていう人、かなり素行が悪そうな感じだったわね。目をつけられたら面倒なことになりそう」
「たぶん一色はもう目をつけられてると思うけどな」
「それは外村くんも一緒なんじゃない?」
「まあ、そうだろうな」
「しかも外村くんは三田さんがどういう人かも知ってるんじゃないかしら」
「そうですけど」
助けたのは俺のはずなのに、助け出した人に糾弾されるような展開になっている。これじゃあなんのために燃え盛る火の中に飛び込んだのかわからない。感謝されたいわけじゃないし見返りを求めてるわけでもないが、こういう言い方をされると俺も傷つく。
「横柄で素行が悪く、なんでもかんでも力で抑え込もうとするタイプで気に入らない人間に対してキツく当たる。一緒にいる友人たちも同じ思考の持ち主ばかりでしょう。常識的な感覚が欠如し理論を語っても意に介さない」
「よく見てるな」
「わかりやすい典型的な不良だったから。そして外村くんはそれを知っていた。にも関わらず私を助けた」
「なにか問題でも?」
「外村くんに降りかかる火の粉はこれから火の玉みたいな大きさになる。それをわかった上でやったの?」
足を止めて空を見た。そんな俺に気付いたのか、一色は少し離れた場所で立ち止まって振り返った。
「考えなかったわけじゃないさ。俺は中学のとき、三田とちょっといろいろあったんだ。アイツの面倒くささはよく知ってる」
「じゃあなんであんなことを?」
風が吹き、一色の髪の毛がサラサラとなびいていた。
「正直わからん。でも一色が酷い目に遭うんだろうなってわかった。そしたらどうにかしなきゃって思った。それで三田に殴られたってのに」
「以前も同じようなことをしたのね」
「まあ、そういうことだな。完全に未遂だったから、三田も教師からの注意だけで済んだんだ。それに腹を立てた三田とその連れに殴られることになったわけだ」
「長い間続いたの?」
「いや、実は一週間くらい。回数にすれば五回」
実質毎日呼び出されてたことになる。
「一週間で済んだのが奇跡ね」
「奇跡じゃない。リュウが助けてくれたんだ。先生を呼んできてくれてな。アイツには隠してたのに」
「リュウ?」
「三組の来栖龍星。中学のクラスメイトでそれから一応友人だ」
「来栖くんのおかげで三田さんの暴力からは開放されたのね」
「ま、そういうことだ」
俺がもう一度歩きだせば、一色も横に並んで足を前に出す。
「それからはなにもなかったのね」
「これ以上やると面倒になるって思ったんじゃないか? 顔を合わせるたびに睨まれる間柄ではあったけど、それ以上のことはされなかった。同じ高校だって知ったときはさすがにビビったけど」
「でもその悪夢が再び蘇る、と」
「なんとかしないとマズイとは思う。でもいい案が浮かばない。このままだと俺は暴力を振るわれて、一色は今日みたいなことを強制される」
「ちなみに訊きたいのだけれど、三田さんの家はどんな感じか知ってる?」
「そこそこいい家だったと思うけど。間違いなく金持ちだ」
「それならやりようはあるかもしれないわ」
今度は彼女が立ち止まった。ややうつむき加減で人差し指を顎に当て、真剣な顔で思考していた。
「やりようって?」
「そうね、詳しい話をしましょう。それには協力者も必要だから来栖くんも呼んで欲しい」
「それはいいんだけどどこで会議すんの?」
一色の白い腕が上がり、人差し指が俺の胸元を指した。
「マジかよ……」
慎ましやかで人と群れない。そんな彼女のイメージがわずかに崩れた瞬間だった。
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