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3
目が覚めると、少しだけ頭が重いような気がした。原因はわかっている。一色と顔を合わせるのがイヤなのだ。普通に考えれば顔も見たくないだろう。喧嘩別れのような形になったのだしそれも仕方ない。おそらく一色は気にしていないだろうが、俺は彼女の顔は見たくない気分だ。
朝食をとって早々に家をあとにした。千歳さんは締め切り前で徹夜だったのだろう、俺が登校するまでの間に部屋から出てこなかった。
外に出ると、ちょうど朱音ちゃんも登校するところだった。
「お、今日は一緒に学校行かれるな」
そう言って朱音ちゃんは歯を見せて笑った。彼女の笑顔を見るとわずかに心が軽くなった。快活で爽やかで相手を不快にさせない。出会ったときから、朱音ちゃんはそういう女の子だ。
「一緒に学校行くことは決まってるみたいな言い方だな」
「逆にここで無視して行くのはヒドくない?」
「まあ確かに。仲が悪かったら別だけど」
「じゃあもしここでミハルが一人で学校に行ったら私とは絶交ってことになるね」
「ケンカしたいわけでもないし一緒に行くか、仕方ない」
「仕方ないってなんだよ。ほら行くよ」
俺の肩を軽く叩き、彼女はエレベーターの方に向かってしまった。一緒に行こうと言い出した張本人のくせに俺を置いてこうとする。いや、厳密には言われていないのだから彼女の行動は正しいのかもしれない。
朱音ちゃんを先頭にして俺たちはマンションを出た。まだ早いので人通りもまばらだ。これなら一緒に登校しても学校内で噂になることはないだろう。
「おいミハル。なんでちょっと安心してるんだ?」
「なんでもないって」
「ははーん、もしかして私といると安心するんだな? さしずめ私は心のオアシスだな?」
「疑問形なのに自分で答え出しちゃったよ……」
こういうところも朱音ちゃんの良さだ。彼女と一緒にいるときに安心する、というのはあながち間違っていない。それを彼女に言うことはないとは思うけど。
「そういえばさ、ちょっと訊きたいことあるんだけどいい? この前ずぶ濡れの女の子連れ込んでたよね。あれ彼女? かーっ、やるねえこの色男!」
「待て待て待て、情報量が多すぎる。確かに女の子はうちに来たけど彼女じゃない」
「攫ってきたのか……?」
「見てたんだよね? なのに攫った感じだと思ったの?」
「手、引っ張ってたしね」
「クラスメイトが雨に打たれてたから連れてきただけだって。それにシャワーだけ浴びさせて帰らせたし」
「なるほど、お前早いのか。大変だな」
「なにが早いのかは訊かないけどそういう感じじゃないんだって」
「なるほど、必死になるくらい……」
「置いてくけどいい? 先いくよ」
一歩前に出て、歩幅を大きくした。その瞬間に腕を掴まれる。
「あー! ごめん! わかったわかったごめんって」
俺の腕を抱き込むようにしてすぐに追いかけてくる。なんだか子犬を相手にしている気持ちになってきた。
「でもね、ちょっと気になったんだよ」
「気になったってなにが? 女の子を連れ込んでるって?」
「それもあるんだけどさ、あれって転校してきた一色アマネちゃんだよね?」
「なんで朱音ちゃんが知ってんの?」
一色の名前が出ただけでドキッとしてしまった。
「あれだけの美人だしね。三年の間でも話題だったんだよ。美人で、頭が良さそうで、無表情で、でも近寄りがたくて」
俺も最初はそう思っていた。いや、今でも思っている。それに朱音ちゃんが言っていることは事実だ。一緒にいると緊張するほど美人で、勉強ができるだけじゃなく頭の回転も早くて、嬉しいのか怒っているのかもわからない。そしてなによりも近寄りがたい。その理由は彼女が美人だからでも、表情が変わらないからでもない。人と交流するつもりがなく、他人と関わろうとせず、自分以外の人間を突き放すようにしているからだ。
「確かに近づこうとは思わないかな。席が隣じゃなければ、俺だって話なんてしなかったと思う」
「席隣なんだ。大変だな」
「大変だよ。でも実害はないし、迷惑してるわけでもないからいいんだけど」
「実害、まだないんだ」
「まだってどういうこと?」
朱音ちゃんはバツが悪そうに眉根を寄せた。これで気づかないヤツはいない。良くない話、むしろ悪い話だというのはすぐにわかった。
「アマネちゃんが転校してきた理由って知ってる?」
「聞いてない。そういう話をするほど仲いいわけじゃないし」
「そっか。じゃあ言わない方がいいのかな」
「そこまで言っておいて止めるのはなしでしょ。むず痒くて仕方ない」
彼女は顎に人差し指を当て、トントンと何度が顎を叩いた。
「あの子ね、前の学校で暴れたみたいなんだよ。女子生徒四人を殴って、蹴って、カッターを取り出したところで教師に止められたんだって。それで学校に居づらくなって転校してきたみたい」
「誰がそんなこと……」
「話の出どころはわからないんだよね。私もクラスの女子が話してるの聞いただけだから」
「あの一色が暴れるなんて考えられない。感情で動くようなヤツじゃないぞ」
「それだけのなにかがあったんじゃない?」
「理由とかそういうのもあるけど、相手は女子四人だったんだろ? 一対四で相手を打ち負かすって、非力そうな一色にできるかどうか」
「まあ噂は噂だしね。信憑性のほどは定かではない、と」
火のないところに煙は立たぬという言葉がある。けれど無理矢理火をおこすことは可能なのだ。火の出どころがわからない以上、朱音ちゃんが言うように信憑性にかける。四人とかカッターとか細部を具体的に表現するような噂である以上はなんとも言えないというのが俺の率直な感想だった。
「そんな怖い顔しないでよ」
朱音ちゃんが心配そうに下から覗き込んできた。こうして見ると、初めて会ったときよりも俺と朱音ちゃんの身長差は結構ついてしまったんだと実感する。
「俺、そんな顔してた?」
「もうこんな顔してたよ」
自分の人差し指を俺の目端に当てて目一杯まで引っ張り上げた。必死に踏ん張っていなければ今にでも後ろに倒れてしまいそうだ。
「痛い痛い痛い。そういうのって自分の顔でやるもんじゃないの?」
「え、やだよ。ブサイクな顔見せるの」
「こういうときでも自分のことが心配なのかよ」
彼女は「そりゃね」と、言いながら手を離した。
次の瞬間には前を向いてしまったが、少しだけ悲しそうな表情をしたのは気のせいだと思いたい。
学校に到着し、朱音ちゃんとは階段で別れた。教室に行くとやっぱりというかなんというか、一色が席に座っていた。背筋を伸ばし文庫本に視線を落としていた。
自分の顔がこわばっていくのがわかる。彼女の対応次第では俺の対応も変わってくるからだ。
彼女が顔を上げてこちらを見た。
「おはよう、外村くん」
無表情ではあるが、昨日のことは気にしていない様子だ。そんなことがあったのかと言われてしまうくらいにあっさりしている。
「おはよう。今日も早いな」
「中学時代からの日課だから」
「中学校からこんなに早く学校来てんのか。部活の朝練もまだ始まってないぞ」
「そう言う外村くんだって早いじゃない」
「できるだけ人がいない時間に来たいからな」
「電車通学というわけでもないのに?」
「人の視線が好きじゃないんだ。それに人がたくさんいる場所は落ち着かない」
「学校は常に人がいるけどね」
「そこは我慢だ。学校で我慢するために、人を避けられるときは避けるようにしてるんだよ」
俺はなにを喋ってるんだ。こんな話をしても盛り上がらないだろうに。
カバンを机の横にかけて座った。あまり喋らない二人が一緒にいても話が膨らむことはない。一色に習って本を読み始めた。最近出たばかりのミステリー小説だ。
「あら、それ買ったのね」
また一色が話しかけてきた。
「この作者の本はできるだけ読むようにしてるんだ」
「そうなのね」
そう言って、彼女は自分が読んでいた文庫本のカバーを外した。そこには俺が好きな作者、今俺が読んでいる本の作者と同じ作者の本だった。
「お前も好きなのか」
「好きな作者の一人ではあるわね。どの作品が一番好きなの?」
「俺は『合わせ鏡のキミとボク』だな。最後まで騙された」
「叙述トリックが奇抜で非常に彼らしい作品だったわね」
「一色はどれがいいんだ?」
「私は『ウインドウ・サイド・エクスプレス』かしら」
「あれも最後までわからなかったな。特急の乗客が全員被害者候補っていうのは面白かったよ」
「被害者一人一人のストーリーが描かれているのが非常によかったわ。外村くんが読んでるのは新作?」
「この前本屋に行ったら出てたから買ったんだ。ちょうどそのとき読んでた本が終わりそうだったし」
「私も買おうかしら。これもそろそろ終わりなの」
自分の本を僅かに持ち上げて言った。
「読み終わったら貸そうか? 早ければ一週間もかからない」
「申し出はありがたいけれどそれはやめておくわ。私、自分で買って置いておきたいの」
まあ気持ちはわかる。俺も好きな作家の本は自分で持っておきたいからだ。
しかし、こんなところでシンパシーを感じてしまうと昨日の言葉が蘇ってきてしまう。
『アナタには絶対にわからないわ』
共感できる部分もあればできない部分もある。それはわかっているのだが、絶対と言われたことが引っかかって仕方がないのだ。経験からくるものであることはわかるが、完全に否定されたことに違和感を感じてしまったのだ。
そのとき、クラスメイト数名が教室に入ってきた。
「そうか。じゃあ今度オススメでも教えてくれよ」
「ええ、考えておくわ」
俺たちの会話はそこで終わった。違う。俺が無理矢理終わらせたんだ。でもなぜ終わらせたのかは自分でもわからない。一色と仲良くしているところを見られるのが嫌だったのか。この無表情な少女に関わっていると思われるのが嫌だったのか。
結局その答えが出る前に志倉が教室に入ってきてしまった。きっと今日一日で回答を探すことはできないと思う。一色周という少女のことを理解する前に、俺はまだ自分のことさえもちゃんと理解できていないのだから。
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