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真夜中のポテトサラダ
中学時代の私には、深夜徘徊をする癖があった。
夜。10時45分。リビングのソファーでうたた寝していた私は、両親の罵声によって叩き起こされた。互いに大声で何か言っているようだが、その内容は全くと言って良いほど私の頭には入ってこない。入れないようにしているのだ。もう何年も前から。隣の部屋から聞こえてくるのは、もはや言葉ではなく、ただの雑音にすぎなかった。
そのはずなのに、私は毎回その雑音に耐えることができない。
父の酒癖のせいか、母の辛辣な物言いのせいかはわからない。しかし一度火蓋が切って落とされた以上、我が家から私の居場所は消える。父の呂律の回らない怒号は、私を心の底から苛つかせ、母の甲高い声は、私の鼓膜を引き裂いた。
「ポコちゃん。お散歩だよ。夜のお散歩」
愛犬のポコ。全身ふさふさのキャラメル色のポメラニアンだ。この家の中で、唯一の味方だった。私がハーネスとリードを持ってくると、ポコは自分のベッドから立ち上がって、一目散に駆け寄ってきた。
私が玄関のドアを開けても、両親はまったく気が付かなかった。前の時もそうだった。その前も。そのまた前も。
「バカが」
ボソッと呟いてから、ドアを閉めた。ガチャリという無機質な音が、飛び交う怒号と夜の闇に吸い込まれ、ふっと消えた。
私は何も考えず、まるで競歩の選手のような力強さで、ただひたすらに歩いた。住宅地を抜け、シャッターの下りた駅前商店街を通り抜け、歩道橋の上でまばらに走る車を眺め、それに飽きると、公園の前までやって来た。
夜の田舎町は一段と静かで、ひんやりとしていて、どうしようもなく寂しかった。それでもずっとあの家にいて、両親の罵り合いを聞かされ続けるよりは幾分マシだったのだ。
私はポコを抱いたまま、公園のベンチに腰を下ろした。街灯脇の時計に目をやると、すでに12時近かった。私はリュックからテニスボールを取り出して、いつもより一層広く見える広場の中心目掛け放り投げた。
ポコは私の膝からぴょんと飛び降りると、夢中で暗闇の中の黄色を追いかける。
それと同時だったろうか。遠くでパトカーのサイレンが聞こえ、私は思わず身構えた。警察に補導されたことは数日前にもあったが、それで当時の私の素行が改まることはなく、気付けば立派な札付きになっていた。学校へもろくに通えず、担任や学年主任に呼び出されても、たった独り反抗的な態度を取り続けた。明確な理由は、今となってもよくわからない。ただ、目に写るものすべてに不信感を募らせ、ひたすら腹を立てていた。正しい方向へ無責任に引っ張り戻されるあの感覚が嫌いなのは、今も昔も変わっていないと思う。
サイレンの音が段々と近付いてきて、私は慌ててポコを連れ、夜の町を疾走した。なんとかサイレンから逃げ切ると、懐かしい場所へ来ていることに気が付いた。
小学校時代の親友、陽葵の家のすぐ近くまで来ていたのだ。親友と言っても、中学に入り別々のクラスになってからは、殆ど疎遠になっていた。仮に同じクラスだったとしても、滅多に学校に来ない劣等生の私と、常に模範的な彼女とでは釣り合わなかったに違いないのだが。
時刻は12時を過ぎていたが、2階にある陽葵の部屋には、まだ明かりが点いていた。よく目を凝らしてみると、勉強机に頬杖をついている彼女の姿が見える。
勉強してるのか。
自分とはまるで正反対だ。私は暫く道の端に立ち、その姿を眺めていた。ただ、そうしているだけに留めておきたかった。
いったいどれくらいそうしていただろうか。幼い頃は感じることのなかった「距離感」に耐えかねて、私は踵を返した。そうして、大人しく自分の家に帰ろうとしたのだ。
その時、いつもなら絶対に鳴かないであろうポコが、大声でキャンキャン吠え始めた。終いには私の腕の中から飛び降りて、陽葵の家の玄関目掛け一目散に走り出してしまった。慌てて連れ戻そうとすると、ガチャリとドアが開き、コートを羽織った陽葵が顔を出した。
「瑠衣ちゃん。久しぶり」
陽葵はなに食わぬ顔でそう言うと、ポコを抱き上げてこちらにやって来た。私は薄暗がりのなか、ただ呆然と突っ立っているだけで、「うん」という一言を絞り出すのが精一杯だった。
「散歩? 一緒にいってもいい?」
不思議なことに、彼女は「何してるの?」とも「帰りなよ」とも言わなかった。それどころか、ついてくるつもりらしいのだ。
「どこ行くの?」
「いや、べつに。どことかないんだけど……っていうか、あんた怒られるでしょ。親御さん厳しいんだから」
私は陽葵の家を仰ぎ見た。相変わらず大きな家だった。この広い家のどこかで彼女の両親が眠っていることを考えると、胃の辺りがムカムカした。
「大丈夫だよ。今、2人とも長野に旅行中だし」
陽葵は何食わぬ顔でそう言った。
「はぁ? なんで?」
私は思わず間抜けな声をあげ、玄関を覗き込んだ。子供を独り家に残して夫婦で旅行に行くなど、私にとっては到底考えられない話だったのだ。
「ガチじゃん」
確かに陽葵の靴以外、見当たらない。
「結婚記念日なんだよね。私は学校があるし、秘書検定の試験日も近いからさ。残ることにした」
陽葵の言葉に、私は暫くの間言葉を失っていたが、なんだかんだで私たちは、近所を軽く散歩することになった。
相変わらず、深夜の住宅地に人の気配はない。私と陽葵の足音、そしてポコの爪の音が小さく響いている。
「瑠衣ちゃん、いつもこんな時間に外にいるの?」
「いや。今日がはじめてだよ」
「本当に?」
「……うん」
夜の町がどんなに危険かは知っていた。自分のような人間を付け狙う輩がいることも、毎日この世界のどこかで誰かが殺されていることも。
そのせいか、陽葵を連れて深夜の町を歩くのは、何とも言えない罪悪感があった。だが、同時に何か特別な感覚があることにも気が付いた。
道端に落ちて腐った柿の実と、街灯の明かりに群がる無数の虫たち、雲の切れ間から時折顔を出す満月が、独りでいた時とは違って、まるで何かの象徴のように思えたのだ。アスファルトを突き破って生えているキバナコスモスやセイタカアワダチソウも、奇妙なまでに印象的だった。
「そっか。もう秋になったのか」
不思議なことに、独りで歩いている時にはまったく気が付かなかった。
「そうだよ。今年ももうすぐ終わりだね。――あ、雨。今ポツってきたよ」
陽葵は真剣な面持ちで掌を空に向け、雨を受け止めようとしている。そのうち私の鼻先にも大粒の水滴が落ちてきて、深夜の散歩はものの15分足らずで終了した。
陽葵の家にお邪魔させてもらった私は、モノトーンで統一されたダイニングルームで、グラスに並々と注がれたオレンジジュースの上澄みをぼんやり眺めていた。モノクロの平面的な世界に、鮮やかなオレンジ色が映えている。
「飲まないの?」
陽葵はひとりジュースを飲み干すと、冷蔵庫から色々と作り置きを出してきた。鶏肉のトマト煮、ベーコンとほうれん草のオムレツ、山盛りのポテトサラダ。
「……お母さん、料理好きなの?」
「いや、作ったのはお父さん。作りすぎだよね。ポテトサラダとかめちゃくちゃカロリー高いのに……いっつも大量に作って余らせるんだよね。こんな時間に食べたら太りそう」
陽葵はそうは言いつつも、大きめのスプーンでポテトサラダをすくい取ると、無造作に口に突っ込んで言った。
「これ、普段やったら絶対怒られるわ」
私はそんな陽葵を見て、自分もオレンジジュースをひとくち飲んだ。酸っぱくて濃厚な味が口いっぱいに広がる。
「それ、私にもちょうだい」
私は陽葵からスプーンを受け取ると、ポテトサラダの山をえぐり取った。スーパーで売っている半額シールの付いた惣菜しか食べたことがなかったが、手間のかかる割に味は大して変わらないのだなと思った。
「最近、全然学校で会わなくなったよね。小学生の頃はほぼ毎日遊んでたのに」
陽葵が少ししょんぼりしているのが嬉しかった。2年ほど前までは、学校から帰るなりランドセルを投げ捨てて外へと繰り出していた。公園やショッピングモール、ボーリング場やゲームセンター。今では殆どが潰れてしまったい、廃墟になってしまったが。
「まあ、1年の頃からクラス違うし、私も殆ど学校行かないから」
「えっ、学校来てないの? なんで? 何か嫌なことあった?」
「いや、べつに。ただダルいから行かないだけ」
妙な輩に目をつけられてしまい、居心地が悪いのだ。
「部活は? 瑠衣、テニスうまいじゃん」
「あんまり行ってない。正直、面白くもクソもないし」
ラケットだって隠されるし。調子乗った先輩方に。
「まあ、学校は基本面白い場所ではないけどさ……出席日数とかは大丈夫なの?」
「一応、計算して登校してるよ。先生は汚いマネするなって言うけど。うるせぇんだよなあのメガネ」
私を本気で気に掛けたことは一度もない。影で私を馬鹿と呼んでいることも知っている。
「神谷先生だっけ、担任。あの人、結構キツそうだよね。なんか暑苦しいっていうか。いちいち声が大きいし。小学生にはあんな先生1人もいなかったよね」
陽葵はまたひとくち分、同じところからサラダを削り取った。一方に盛大な穴を空けられたポテサラ山は、今にも土砂崩れを起こしそうだ。
「いや、いたよ。私怒鳴られたもん。小3の時、葉山って体育教師に」
「あの人、そんな人だったっけ?」
「陽葵は気に入られてたから怒られなかったんだよ。私はあの人の車に石投げてからずっと嫌われてた」
「なんで石を!?」
「事故だったんだよ。本当に当たるとは思ってなかったし、共犯者もいた。っていうか、陽葵覚えてないの? クラス全員集められてさ、授業終わりに2時間くらい拘束されたじゃん。皆目をつぶって、やった人は正直に手を上げなさいって言われて……そこで私が生け贄になった」
「瑠衣ちゃんだけが手を挙げたの……? ごめん。全然思い出せない」
「べつにいいよ。クソみたいな思い出だし」
「あ、でもその先生繋がりなら、結婚式用のビデオを皆で撮ったのは覚えてるよ。隣のクラスの担任と協力して、グラウンドに人文字作ったよね。それを屋上から撮影して――」
「陽葵、ごめん。それ、今度は私が覚えてないや」
「ええっ、なんでよ。あの時瑠衣ちゃんもいたよ」
「なんでって言われても……いや、駄目だ。全然思い出せない」
そこかしこがえぐり取られたポテトサラダは、かなり歪な形になっていた。白いじゃがいもの山から、赤いニンジンや緑のキュウリ、ピンクのハム、黄色いたまご、透き通るタマネギがごちゃごちゃと顔を覗かせている。改めて見てみると、案外カラフルで具だくさんであることに気付く。こんなに色々な野菜が入っていながら、どうして名前にはじゃがいもしか反映されていないのだろう。
時計の針が1時を過ぎたところで、私はサラダをつつき回すのをやめ、帰り支度をはじめた。ポコもさすがに眠いのか、座ったまま前後に揺れている。
「そろそろ行くわ。今日はありがと」
「泊まっていけばいいのに」
陽葵が名残惜しそうに言った。
「悪いよ。ずっと帰らなかったらさすがに親にバレちゃうし」
「電話入れれば?」
「めんどいし、話したくない」
「そっか。また遊ぼうね。もう深夜にってわけにはいかなくなりそうだけど……」
「高校入ったらさ、もうちょい自由になるし、学校もマシになるだろうから、そしたらどっか遊びに行こ」
「うん。――じゃあ、気を付けて帰ってね。途中まで送っていこうか?」
「やめて。大丈夫だから」
私は外までついてきそうな陽葵を家の中に押し込むと、ポコと共に帰路に着いた。もう雨は降っていない。たった1キロほどの距離だったが、その道のりはやたらと長く感じた。
アパートのすぐ近くまでやって来ると、不幸にも巡回中のパトカーに見つかり、声を掛けられた。
「瑠衣! アンタまたふらふら出歩いて、今何時だと思ってるの! お母さんに迷惑掛けるんじゃないの。帰りなさい!」
「またお前かよ、うるせぇな! 今からかえるんだよ!」
私は精一杯怒鳴り散らして、警察官に見守られながら、大人しくアパートの階段を登った。
その日を境に、私が夜の町を彷徨うことはなくなった。
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