序章

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序章

 春の江ノ電は潮の薫りを纏って僕を日常から非日常に連れて行く。  四月二十五日、土曜日。ゴールデンウィークを間近に控え、観光客も多い江ノ電は、住宅街をカタカタと揺れながら走って行く。藤沢駅で二本見送ったお陰で座ることの出来た座席の、緑のクッションに体を預けて僕は車内の人々を見上げていた。  向こう側の窓が見えないくらいにぎゅうぎゅうに押し込まれた人々は、楽しそうに笑顔を浮かべている。それを見て『良いなぁ』と思うのは、僕は彼らと違って遊びに行くために江ノ電に乗っているわけでは無いからだ。  ガタン、と音を立てて線路の上を進んだ電車は滑るように木製の駅舎に停車した。無人駅が続く区間では珍しい、有人の駅。多くの乗客が開いたドアに殺到する。小さな車両から驚くほどの人間が吐き出されていくのは何度見ても壮観だ。僕はその流れに身を任せるように立ち上がると人々の後方に付いた。降りる乗客の方が圧倒的に多いが、乗って来る乗客もそこそこいる。最後尾の僕が降りる頃には乗ろうとする人が僕を車内に押し込もうとするから、毎回苦労する。何とかホームに降りると、僕は構内の踏切を渡る人々を尻目にその奥にひっそりと存在する改札機に定期券を翳した。  ここは、江ノ電江の島駅。二番ホームに設置された小さな改札を使用する観光客はほぼいない。彼らはここから海へと真っ直ぐに伸びた洲鼻(すばな)通りを通って国道一三四号線へと出る。そこから藤沢市きっての観光名所、江ノ島を目指すか、海岸へ赴くか、そうでなければ水族館など海岸線沿いのレジャースポットへ行く。  華やかな線路の海側と違い、僕が降りた山側は静かなものだ。ゴールデンウィークを間近にした土曜の朝。僕は観光へと出かける人々を一瞥してから線路脇の細い小道を進んだ。  小道はすぐにそれなりの道幅を持つ道路へとぶつかる。この辺りは竜の口(たつのくち)商店街と呼ばれ、数件の商店やレストランが軒を連ねている。僕の目的地も、この商店街に名を連ねる一軒だ。  ……いや、そもそも普通の商店と並べて語っても良いものだろうか?  頭を過ぎる疑問を振り払い、僕は足を駅とは反対方向へと向ける。春のうららかな天気。初夏には少し早いが、昨今の地球温暖化の影響か、この時期でも既に気温は汗ばむくらいだ。今年はちょうど二〇二〇年。東京が夏のオリンピックの開催地に決まり、遂に紆余曲折を経て開催される年だ。この片瀬(かたせ)・江の島地区はセイリングが行われるということで、市を挙げて大々的に盛り上げていこうとしている。しかし、同じ藤沢市内に住むが、藤沢駅よりも北側に住む僕にはあまり実感はない。  この竜の口商店街にもオリンピックの影響はあまりないらしく、穏やかに、ただ穏やかに日々は過ぎている。日常がいかに尊いものか。そして、その日常はいかに脆いものなのか。僕は先の冬に痛いくらいにそれを実感した。  日常は、常に非日常に狙われている。  付け入る隙を見せたが最後、日常に覆われていた世界はぐるりと反転して非日常に取り込まれる。僕はそれを知っている。それを知っているからこそ、僕は今日もここに来たのだ。  それは商店街に並ぶには、いささか似つかわしくない建物だ。周囲の古い店々と同じように昭和に建てられたのだろうが、まず様式が全く違う。詳しいことは僕には分からないが、周りの店は良く見る『日本の古い商店』のだが、対してこの建物は西洋建築なのだ。  華やかな洋館、といった趣ではなく、もっと武骨で、だけどそれでいて懐かしい。大正か昭和か、とにかく戦前に建てられた物だろう。その建物はタイル張りの二階建てで、正面にローマ神殿に似た柱が二本立てられているのが特徴だ。そしてその間、歩道から数段登った先には木製の両開きの扉が客を待ちわびている。立派だが普通の商店街には不釣り合いの建物だ。もし何も知らずにこの建物の前を通ったのなら、博物館か何かだろうか?と一瞬疑ってしまう程度には不思議な建物。これで店舗兼住居だというのだから笑ってしまう。  僕は玄関へ向かう数段を登って木製の扉に手をかける。扉を押せば内側に取り付けられたドアベルがカランと透き通った音を立てる。それ以外の音は、中からは聞こえなかった。 「おはようございます」  扉を開いた先は洋風の広い部屋だ。板張りの床にはカーペットが敷いてある。扉から見て手前にはレトロな応接セットが部屋の中心にふんぞり返っている。その後ろにはこれまた木製のレトロなデスクが置かれている。白い壁は部屋の奥に続くドアが一つ。他はほとんどが本棚で埋まっていて、その棚にはハードカバーの難しそうな本が詰まっていた。そしてその部屋の中で唯一浮いているのが向かって右手側にある真新しい、やけに新しいデザインのデスクだ。一応部屋に合わせて木製の物ではあるものの、他の家具とは年代が違いすぎて、どうにも居心地が悪そうにしていた。  僕は今入ってきた扉を後ろ手で閉めて、その居心地が悪そうにしているデスクに向かった。そこがこの部屋における僕の居場所なのだから。 「おはよう」  奥の部屋に繋がる扉が開き、小柄な人物が顔を覗かせる。  白いオーバーサイズのシャツに橙色のネクタイ。砂色の太いスラックスをベルトではなくサスペンダーで吊っていた。生粋の黒髪を襟足は短く、前髪は野暮に見えない程度の長さに梳いて流している。顔立ちは少年のようにも青年のようにも、果たして乙女にも見える。その人物は手に持ったマグカップから珈琲の良い匂いをさせて部屋に入って来る。 「おはようございます、先生」 「今日あたりから江ノ電は人が増えただろう。ゴールデンウィークの賑わいを思うと今から僕は憂鬱だね」 「どうせこの辺りは静かでしょうに」 「馬鹿を言うなよ、境くん。君、この目の前の片瀬県道はそりゃあ夏やゴールデンウィークやらには混んで混んで仕方がないのだからね」  軽口の応酬をしているうちにその人物はあのレトロな木製デスクに座った。机上の本を横に退けて珈琲の場所を作ってカップを置いた。  その拍子に、木で出来た三角錐のオブジェがカタンと軽い音を立てて床に落ちた。気付いていないわけがないのに、机の主は椅子に座ったまま動こうとはしなかった。僕はため息をつくと、立ち上がり床に転がる三角錐を拾い上げてデスクに戻した。  木を黒く塗装した三角錐に白い筆文字で『探偵』と書かれた、いわゆる三角塔と呼ばれる卓上名札。それを戻されたことに感謝の言葉もなく、椅子の上の人は珈琲を啜りながら『現代都市伝説の噂』と書かれた怪しい本に視線を落としている。  別に、感謝されたかったわけではないが礼の一つくらい言ったらどうなのだ。僕は微かに憤慨しつつ、ふと玄関の扉を振り返った。  木製の扉にはめ込まれた大きめの曇りガラスには、この建物が何者であるのか表書きが書かれている。  ――大津怪奇探偵社。  ここは世にも奇妙なことに、魑魅魍魎が引き起こしていると噂されるような怪事件を専門に取り扱う……と、自称する日本で一番胡散臭い探偵社だ。
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