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僕の話をしよう。僕は境匠海。鎌倉市七里ガ浜の高台にある私立北条学園高校に通う二年生だ。ちょっとだけ人見知りで内気なだけの、本当に平凡な高校生だった。
『だった』なのは、僕の平凡な日常が、去年の暮れに見事に消し飛んでしまったからだ。北条学園高校演劇部で起きた怪事件の全容は、いまだに関係者の間だけが知っている。僕は関係者の末席としてその怪事件に巻き込まれ、そのさなかにこの探偵社の所長である人物に出会った。
まさに先ほど珈琲をのんびりと啜っていたその人物こそが、大津怪奇探偵社の所長にして怪奇探偵を自称する大津玉葉その人だ。男とも女ともつかないその怪人は、颯爽と現れ日常が崩壊した僕たちを大いに振り回した。僕はその過程で日常は常に意識の向こう側にある非日常からの侵略の可能性に晒されていることを知る。平和な毎日なんてものは、本当は奇跡の上に成り立っているのだ。人間は、本当に簡単に『魔』が差してしまう。そうなれば、最早人間のままではいられない。そこにいるのは悲しい形をした、古い時代には鬼や妖と呼ばれていた人外だ。
探偵は言った。彼女はもう『人間』ではないのだと。
僕は信じていたかった。彼女は『鬼』なんかではないと。
だから僕たちは互いに賭けをした。僕が賭けのテーブルにベットしたのは自分の時間だ。探偵がベットしたのは彼女の無罪だ。
そうして僕は見た。見てしまった。人が『人間』を辞めてしまうその瞬間を。その憐れな結末を。逢魔が時の教室で、連れて行かれる美貌の鬼を。
賭けは探偵の勝ちだった。
だから、僕はここにいる。
探偵助手のアルバイトと言っても、この事務所の主は都市伝説やら怪談やらが絡まない仕事は受ける気がないため常に閑古鳥が鳴いている。やることと言えば、素行調査などの一般的な探偵業務の依頼をしたいと電話をしてくる不運な人に「ここの探偵はちょっとおかしいのでおススメの同業をご案内します」と返答することくらいだ。
ここの探偵――僕は便宜上『先生』と呼んでいる――は本当に不愛想で全く愛想が無く、接客の類には全く向いていなかった。
「なんで僕が人間様なんぞに愛想を尽くさないといけないのだい?」
本当に理解が出来ない、といった顔で先生は言う。その時間があれば僕はより深く妖怪変化のことを理解しようと努める。などと平然と述べる。まだ高校生の僕がいうのもなんだが、先生は僕がいない時はどうやって仕事をしていたんだろうか。
「蛇の道は蛇というだろう? 僕にだって伝手というものがあってだね」
いつかそんなことを言っていたが、僕はその伝手とやらに未だに会った事が無いのでそれは先生の強がりだと思うことにしている。
今日も稀にかかってくる電話の番をする為だけにここにいるのだった。となるともちろん時間を持て余すので僕はもっぱらこの事務所に来ては本を読んで時間を潰す。雇い主である先生も営業時間中はほぼ、古今東西を問わずに妖怪やモンスターが出てくる伝承をまとめた本を読んでは楽しそうにしている。
そのため、この事務所に常に響くのはページをめくる音と時間が時を刻む音、それから事務所裏を十二分間隔で通る江ノ電の走行音が主だ。僕から先生に話しかける事はほぼない。先生が僕に妖怪に関するうんちくを楽しそうに語り掛けてくることは、間々ある事だが。
「僕は君が心配だよ」
普段通りに自分のデスクに座って取り出した文庫本を読み始めた僕を遮ったのは先生だ。先生はその言葉の内容とは裏腹に僕のことなんて全く心配をしていない様子で自分の本に視線を向けている。
「何にですか? こんな変な探偵事務所で雑用させられてることですか?」
「君の恋愛に対する姿勢についての話さ」
突飛な話に面食らう。唖然とする僕を置いて先生の口は止まる事を知らない。
「ここに君が通うようになって五ヶ月ほど経つが、その間に君が読みふけっている本が合計で十三冊。そしてそのうち十冊が恋愛小説だ。その中で更に結末までに主人公が死ぬ作品が三冊、ヒロインが死ぬ作品が六冊、もう一冊は心中。どれも悲恋だ。君が創作物として悲恋を好む分には構わないが、それはフィクションとしての嗜好にしたまえ」
指摘された内容に反論をしようとして、しかしうまく言葉にならない。先生の指摘は正しい。ただ一つだけ文句を言うのなら。
「……でも、心中はハッピーエンドでしたよ」
「そういうところだよ、危うい子だな君は」
呆れ果てたように言い放って先生は本を閉じた。それからカップを呷って中身を全て飲み干す。もう一杯飲むつもりなのか、先生がカップを片手に奥の給湯室に引っ込もうとしたちょうどその時、珍しい音が事務所に響く。
僕のデスクの上に置かれた電話のベルが声高に叫ぶ。一瞬驚いて目を丸くしてから、ハッと気が付いて慌てて受話器を取った。
その間に先生は特に興味も無さそうな顔をしてさっさと奥に引っ込んでいった。この探偵、本当に商売をする気はあるのだろうか。
「お待たせしました、大津怪奇探偵社です」
毎度のことながら、この社名をいうのも恥ずかしい。なんだ、このご時世に『怪奇探偵社』って。こんな社名のくせしてちゃっかりホームページが有ったりソーシャルネットワークサービスを利用していたり、現代に対応しているのが腹立たしい。
『……』
「もしもし? どうかいたしましたか?」
受話器の向こう側の見えない相手に問いかけるが、返事はない。ただ、無音というわけではなく息遣いは聞こえるので、確実に向こうに相手はいる。その息遣いは途切れ途切れで、まるで全力疾走した後のよう。僕は受けた経験はないのだが、その手の変態的倒錯者が異性の家に片っ端から電話をしていく姿を想像して寒気が起きる。
どうしてこんなところに来てまでそんな変態の相手をしなければならないのか。
理不尽さに少しだけ語気を強めて「切りますよ」と告げると、向こう側の人間は明らかに動揺したように『待ってくれ』と、やけに潜めた声で告げた。
その声の調子にぎょっとする。聞き覚えがある声の調子だったからだ。
これは、恐れる者の声だ。堪えきれぬ不安と恐怖を今から吐露しようとする者の縋るような声だ。
『申し訳ない、でも、切らないで欲しい……どうか、どうか依頼を受けて欲しいのです』
「えっと……申し訳ありません、どのような依頼でしょうか?」
そこで暫しの沈黙。僕は要件のメモをするためにデスクにノートとペンケースを出し、ペンを広げた。その辺りで先生も奥から戻ってきたようで、事務所の中にはふわりと珈琲の匂いが漂う。
『――喰らうのです』
「え? あの、もう一度よろしいでしょうか?」
『――館が人を喰らうのです』
その言葉に僕は「は?」と返した。
『疑いたくなるお気持ちも重々承知です。けれども、ええ、あの館は確かに人を喰らうです』
「人を食う……館ですか?」
聞き返した僕の言葉に、視界の隅で先生が反応したのが分かる。僕は直感した。これは、今まで僕が電話で他社へと案内していた類の話では、決してない。
これは、本物だ。
「……ご依頼人様は貴方で大丈夫ですか? お名前を頂戴しても?」
『ああ、これは申し訳ございません……気が動転しておりまして……私が依頼主で、名前は中川敏男と言います。』
「ナカガワトシオ様、漢字は……はい……では今から探偵にお繋ぎし」
ます、までは言えなかった。いつの間にか僕のデスクの側までやって来ていた先生が僕の手から電話の受話器を奪い取っていったからだ。あ、とも、う、とも言えない声を情けなく発する僕を尻目に先生は受話器を耳に当てて、もう片手でスピーカーフォン機能のボタンを押した。そして僕のデスクに決してお上品とは言えない事に腰を落ち着けて、トントンと僕のノートを指で叩く。どうやら会話内容から要点をメモしろとのお達しらしい。
「お待たせいたしました、僕がこの大津怪奇探偵社の探偵、大津玉葉だ。人を喰らう館とはこれまた怪奇なお話だ! 是非ともお聞かせ願いたい」
『あ、ああ……! ありがとうございます、私は、私はどうしてもこの話を……』
その時に『ブー』と唸るような短いブザーが相手の電話口で鳴った。その後、中川氏は少しばかり慌てた様子で動いていたがしばらくしてから話を続けた。
『今、詳しくお話しするのは難しいのです。私はあの館に帰らねばなりません』
「ふむ、ではいつならば詳しく聞かせて貰えるのかな?」
『ああ、ええと……ゴールデンウィークの直前になってしまうのですが……五月一日でいかがでしょうか……』
これには思わず僕は顔を顰めた。先にも言った通り、僕が通勤に使う江ノ電はゴールデンウィークともなると、それはそれは満員の通勤電車よりもよっぽどひどい混み方をするのだ。うっかり昨年の同時期に学校に行く用事を作ってしまった僕は大変ひどい目に遭った。僕はノートに『ゴールデンウィークの出勤は嫌です』と書きつけて先生に見せてみた。恐らく、あの混みあう時期にはあまり来客をもてなしたくないであろう先生も同じ気持ちだったのか、呆れたように苦笑いを浮かべて僕の額を小突く。
「申し訳ないのですが、ゴールデンウィーク明けの方がこちらとしてはありがたい。七日の木曜日ならば……」
と、手帳のカレンダーを見ながら先生が答えようとしたその瞬間だった。
『それではすべて遅いのです!』
それは怒鳴り声ではなく、今にも泣き出しそうな叫び声だった。ああ、これが本物の『慟哭』なのか、と理解させられるような、心からの償いを求める者の叫び。驚愕に目を丸くしていた先生は、しかしその一瞬後には「では、一日に致しましょう」と事もなかったかのように自分の手帳に予定を書き込む。
「……ええ、では一日の午後五時に、こちらの事務所までお越しください。もし場所が分からなければ使いを出しますのでご連絡いただければ」
淡々と決まっていく予定を僕がノートにまとめているうちに、男性はどんどん落ち着きを取り戻していく。先生が話をまとめる頃にはもう先程までの焦燥は嘘のように静まって、彼は先生に取り乱したことを謝罪した。
「ああ、そう言えば聞いておかねば。貴方はどうして僕のことを知っているんです?言っちゃなんですが、僕は大して名声もないしがない駆け出し探偵ですよ?」
話のついで、と言わんばかりに先生が当然の疑問を投げかけた。それについては僕もちょうど疑問に思っていたところだ。何せ、先生はおかしな事件以外には興味が無く、仕事はあらかた断ってしまう。それ故に探偵としての実績があるとは到底言えないのだから。
『お噂を聞いたからです、先生は……北条学園の事件を解決された方だと』
流石にその言葉に僕の手は止まった。あの事件は――報道に関してはかなり慎重に取り扱われるように警察が指導しているはずだ。事実、僕が知る限りあの事件について先生が関わったなどというニュースは一度も聞いたことがない。この探偵の関与を知っているのはよほど事件に近い人間だけだ。
「そのお話は、どこから?」
『はあ、実はお子さんが北条に通っている方が近所にいらして……片瀬に住んでいる探偵が事件を解決した、と耳に挟みまして』
「……人の口に戸は立てられないものだね……」
僕はよほど動揺していたのか先生が僕の頭を軽く小突くまで意識をあの事件の日にまで飛ばしていたようだ。ハッとして先生のことを見上げると、先生は僕をただ見ていた。特に同情も、憐憫もなく、ただ見ていた。
「とにかく詳しい話は一日にお聞きしましょう」
『ええ、よろしくお願いいたします』
男性は最後には疲れ果てたような声で会話を締めて電話を切った。先生も受話器を置いて、ひと息ついたのちに僕のデスクから降りて自席へと戻っていった。
「館が人を喰うってなんでしょうね」
「サテ、詳しくは依頼人本人に聞かねば分かるまいね」
そういうと、先生は顎をさすった。
「人間を喰う魑魅魍魎はごまんと居るが、家が人間を喰うという話はそうそう聞かないねぇ」
「はあ、そういうものですか」
「うむ、そういうものだ。君は三枚のお札という昔話は知っているかい?」
「ええ、まあ何となく。山姥に食べられそうになったお使い帰りの小僧が住職に持たされた三枚のお札を使って逃げのびる話ですよね」
「そうだね。その話に出てくるような所謂〈山姥〉や生贄を求めるような……例えば〈八岐大蛇〉や〈五頭龍〉なんかが人を直接喰う怪異としては有名だね」
こうなると先生の妖怪話は長い。好きな物を語るとき、人間は自ずと饒舌になるものだ。
「逆に家の姿をした怪異というものもある。〈マヨイガ〉というものだが、これは遠野物語に詳しい。山中で迷っていると目の前に突然人家が現れる。これ幸い、一晩の宿を借りようと中に入ると人は居ないが、夕餉の支度はされていて寝床もある。そのまま泊まって翌朝その家から出て少し進むだけで自分の村に帰りつくことができるのだという」
「気前がいいですね」
「また、マヨイガから食器を持ち出すことが出来れば一生の幸せが約束されるという話もあるね。この話や〈浦島太郎〉やら〈舌切り雀〉の話のように〈館や宮殿や理想郷で歓待を受ける〉話はあれど、家自体が意思を持って人間をパクリと食べてしまうなんて話は僕の知る限りにおいてはないかな」
先生は一人で興味深げに納得をして、それからニヤニヤと口元に笑みを浮かべる。久しぶりの依頼に大満足なのだろう。きっと先生は今からあの混雑の中で出勤しなければならない僕の気持ちなどこれっぽっちも考えてはいないのだ。ため息混じりに僕はスマホのカレンダーの五月一日にバイトの予定を入れた。
「ああ、そうだ。境くんにお仕事をあげよう」
思い出した、とばかりに声をあげた先生は僕を自席に呼びつける。そして財布を取り出すとニコリと笑って、言った。
「来客のお茶請け用に大黒屋のせんべいを買ってきてくれたまえ。前買ってきてもらった分はついうっかり僕の腹の中に入ってしまったからね」
僕はこの傲岸不遜な探偵に、怒ってもいいと思う。
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