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先生が目覚めの珈琲を飲み終わる頃、依頼人が扉をノックした。僕が扉を中から開けて出迎えると、そこにはピシリとと背筋を伸ばしたスーツの男性が立っていた。
「本日十七時に約束をしておりました中川敏男と申しますが」
こんな怪しい探偵社に頼るくらいだからどんな変人が来るのだろうと内心期待を持っていた僕はそれを全て打ち砕かれてしまった。
スーツにもシャツにも皺一つなく、テンプレートな七三分けに前髪を整え、嫌味にならない程度の香水をつけている。学校の先生にも同じくらいの年の男性はいるけれども、彼らよりもずっと清潔感があって上品だ。
「あ、はい、どうぞ」
「失礼致します」
と上品な返事をして中川さんは事務所の中に入ってきた。自席で僕たちのことを見ていた先生はよそ行きの笑顔を浮かべて「ようこそ大津怪奇探偵社へ」と言って部屋の中央にしつらえられた応接セットへと中川さんを誘導した。
「境くん、お茶を」
「はい、ただいま」
僕は奥の間に引っ込むと電気ポットから急須にお湯を入れて数分待つ。その間にお茶請けとして先日に並びの大黒屋で買っておいた煎餅を菓子盆に並べてお盆に乗せると、急須から充分に蒸らされた緑茶を来客用の茶碗へと注いだ。
一式揃えて事務所にもどると事務所入り口に近い方のソファに中川さんが、そしてその反対側に先生が座っていた。
僕はお茶と煎餅を中川さんに出して自分と先生の分も出すと、デスクの上にあらかじめ出しておいたノートと筆記具を持って先生の隣に座った。
「ずいぶんとお若い助手さんなんですね」
中川さんの第一声はそれだった。
確かに今日は学校帰りにそのままきたので制服のままだ。なんだか中川さんの落ち着き払った雰囲気の前では自分が本当にちっぽけな子供のように思えて少し恥ずかしい。
「若いだけで能力が無いとは、僕は思わないタチなのでね」
そんな僕を庇うように先生がそう弁護した。その横顔を覗き見るといつも通りの、凛とした横顔だ。先生だって探偵としては若い方だろう。それなのに僕とは違って胸を張ってそう言い切れるのだ。本人には言わないが、僕は先生の、信念に対していつも誠実であるところは美徳の一つと考えている。
中川さんは先生の言葉に、僕の方を向いて「すまない」と律儀に謝ってくる。「どうも」とこちらも頭を下げる先生は素知らぬ顔で茶を啜り、そうして「それで?」と口を開いた。
「『人を喰う館』というのは?」
確信をつく質問を投げかけると、中川さんはコクリと頷いて鞄からタブレット端末を取り出す。数度手元でタップして、僕と先生に画面を見せる。
「極楽寺にある加賀屋邸はご存知ですか? かつてさる侯爵家の別邸として建てられた建物を、戦後、貿易商をされていた加賀屋公顕様が買い取った屋敷です」
「聞いたことはあるよ。確か県の有形文化財に指定されている洋館だったね」
「はい。私はそこの使用人を勤めさせていただいております」
二人の会話を聞きながら、僕はタブレットに映った洋館の写真を見る。この探偵社の建物も洋風建築だが、また趣が違う。こちらが装飾をできるだけ排した合理主義を目指した建築だとするならば、加賀屋邸は装飾が鮮やかで緑の山に調和している豪華な屋敷だ。
「で? その加賀屋邸が人を喰うのかい?」
「……ええ、そうです」
先生は「ふむ」と唸り顎に右手を当てた。
「具体的にはどう人を喰らうんだい? 君はその喰らわれた瞬間を見たことがあるのかい?」
「いいえ、実のところ『人を喰らう』と言われてしまっている、と言うのが我が主人の悩みなのです」
「え?」
素っ頓狂な声を思わずあげてしまった。てっきり僕は、屋敷のどこかの部屋に入ると人が消えてしまうとか、そういう話だと思っていたからだ。
「言われている? ハテ、僕はてっきり館が牙をむき出しにして人間様をパックリと喰ってしまうのかと思っていたのだが?」
「そういう風に捉えられてしまっている、と言うのが実情です。詳しくお話しいたしましょう」
そう言って中川さんは一つ咳払いをして語り始めた。
「元々あの館は主人である公顕様が戦後に別邸として買い求められた屋敷でした。公顕様のことはご存知ですか? ああ、先生はご存知のご様子。助手の彼にも分かるように説明させていただきますと、公顕様は戦後、その身一つで現在の加賀屋物産株式会社を立ち上げ日本有数の貿易会社に成長させた実業家でございます。主人には二人のお子さんがいらっしゃいまして、それが長男の公景様と長女の顕子様です。公景様が本来ならば会社をお継ぎになるはずだったのですが、彼は会社経営に全く向かず、画家としてその才能を開花させたそうです。お父様である公顕様も、御自身が大切に築き上げてきた会社を、血縁者と言うだけで興味がない公景様に託すことを諦められたそうです。そうして極楽寺の別邸は公景様のアトリエとして使用されることになったのです。しかし今から十五年は前のことでありましょうか。伝え聞くことになってしまうので曖昧になってしまいますが、確かにその頃のことだったと聞き及んでおります。公景様は創作をはじめられると連絡が取れなくなることもザラにあったとのことで、一人、使用人の娘が付いておりました。その使用人とある日連絡が取れなくなったそうです。しかし公顕様もお忙しい身の上。気ままな公景様のことなど気に留めなかったそうです。長女の顕子様もその頃には結婚なされ、孫娘の由希絵様の育児に忙しく、お兄様のことは気にされていませんでした。そうして、連絡が取れなくなって数ヶ月後、公景様のご友人がお屋敷を訪ねると、そこには亡くなられ、既に骨と成り果てた公景様が残されていた。そしてどんなに探しても使用人の向島静が居ないということで、一時は殺人事件として報道されたこともあったそうです」
「ああ! そうか、何か聞いたことがあるなと思っていたら!」
そこまで黙って話を聞いていた先生が突然弾かれたように立ち上がった。そうして鼻歌交じりにソファから立ち上がるとさっさと奥の間に行ってしまう。と、数分の後にスクラップ帳を小脇に抱えて戻ってきた。初対面なので中川さんは先生のこの奇行とも取れる一連の動作に困惑を隠しきれていなかった。僕だって慣れているとはいえ、困っている。
「アナタの言っている加賀屋邸って言うのはこの『極楽館』のことだね!」
そう言って先生がソファに腰を落ち着けながら開いたスクラップ帳のページには、十数年前の新聞の切り抜きとどこかのホームページを印刷した物が貼り付けられていた。
ホームページの内容は、どうやら県下の怪談を集めた匿名の掲示板だ。そこには確かに『極楽館』という文字と『かつて殺人事件があった』『今も犯人は見つかっていない』『いや、犯人は美しい悪魔で、被害者は契約によって魂を持ち去られたのだ』などと非常識な言葉が踊っている。
それを呆れながら見ていると、僕以上に困惑した様子の中川さんがそれを見て「ええ、これが当館ですが……」と言いながら胡乱げに先生を見た。
依頼をしにきた探偵の奇行に若干引いている依頼人。依頼人ではなかったが、あの事件の時の僕に似ている。僕だってこんなオカルトマニアじみた行動を取られたら困る。これで僕の反応が一般的であったことが証明されたわけだ。
「このように風潮されること自体が我が主人にとっての不都合なのです」
「まあそうでしょうな」
楽しくて仕方がない、とでも言いたげな先生は少し弾んだ声で答えてから、こほんと小さく咳払いをした。
「ああ、それで。その『極楽館』は今はどうなっているんだったかな?」
「今は我が主の公顕様と孫娘の由希絵様がお住まいになられています。ああ、あとは私ともう一人住み込みの使用人がおります」
そう言って彼は僕が淹れた茶を啜った。
「ふむ、それは不思議だね。公顕氏は引退していると聞いているからね。まあ隠居先として鎌倉を選ぶのはわかるが。何故、孫娘まで親元を離れて住んでいるんだい?」
先生はそう言いながらギシッと背もたれに体重をかけた。
「由希絵様は生まれつきの心臓の病をお持ちなのです。今から三年前に移植手術を受けられましたが静養のために当館にお住まいなのです」
「本当にそれだけかね? 何か僕に話し足りないんじゃないかいかい?」
先生の不躾な言い方に僕は驚いたが、中川さんは目を少し丸くしたのちに申し訳なさげに頭をかいて「困りましたね」と苦笑いをした。
「先生はもともとご存知だったのでは?」
「そんなわけないだろう。ただ単に、僕の中の探偵の血がそうさせたのさ」
ニヤリと笑った先生の横顔と困り顔の中川さんの顔を見比べる。一人だけ話についていけずにふて腐れるしかない。
「由希絵様は生まれつき心臓が悪く、そして盲目なのです」
「確か加賀屋物産は娘婿が継いだと聞いたが?」
「ええ。顕子様のご主人であられる定臣様は経営者として辣腕を振るわれておられます。それ故に――」
「盲目の娘を一人にしてしまうことも多い、と」
「その通りです。それを哀れに思われた公顕様が由希絵様と一緒に暮らすことを進言なされ」
「今に至るわけだね」
ふむふむ、と先生は頷いている。つまるところ、そういうことらしい。僕には大人の話など少しも分かりはしない。ただ、先生の持って来たスクラップ帳に載っている館の写真を見て、想像するだけだ。両親に煙たがれ、祖父と二人で暮らす女性の姿を。それはなんて寂しい姿だろうか。
「使用人はあなたと、もう一人は女性かい?」
「いいえ。田代と言う名の男ですが」
僕が想像を逞しくしている間に話は更に進んでいた。
「へぇ? 女性が暮らしているのだから一人くらいメイドを雇っては如何かな?」
「それが問題なのです」
はぁ、とため息をつく中川さん。
「メイドを雇ってはいるのです。由希絵様のお世話にはやはり同性の者の方が都合がよろしいですからね。けれども長続きがしない。みな辞めてしまうのです」
「それはどうして?」
確信を先生が尋ねれば中川さんは心底不愉快そうにため息をもう一度ついてしまう。そして口を開いた。
「公景様の雇っていたメイド……向島静を見るのだそうです」
その言葉に、にわかに先生の目が輝く。ようやく幽霊の話になったのだから、このオカルトマニアにとってはよほど楽しいことだろう。
「幽霊を見る!」
「皆、口を揃えてそう言います。そして恐ろしいと言って辞めてしまう」
「幽霊メイドが本邦でも見られるとは」
「ご冗談を。先生、私はその噂を晴らして頂こうと思ってご相談に上がったのですよ」
まあ、それはそうだろう。先生みたいなオカルトマニアでもない限りそんなものは見たくない。
「なるほど。それで僕に依頼をしようと思ったわけだね?」
先生はさも面白い、と言わんばかりの態度でそう呟くと自分の前に置かれたお茶を啜り、そうして誰も手をつけていなかった大黒屋の煎餅をバリバリと食べ始めた。この人は自分が客人を迎える側だって自覚はあるのだろうか。僕はそう思いながらため息をついた。
「つきましては一度我が『極楽館』にご足労を頂けたならば幸いなのですが」
「ああ、もちろん構わないよ。彼を連れて行ってもいいだろう?」
「ええ、それはもちろん構いません。日時は――」
そこまで中川さんが言ったところで先生は思いがけない言葉を口にした。
「明日」
「はい?」
「はあ?」
僕と中川さんの言葉が重なった。当の先生は煎餅をお茶で喉の奥に流し込んで満足をしている。
「何言ってるんです、先生?」
「何って、明日行くと僕は言ったんだよ。ちょうどゴールデンウィークだしね。君は休みだろう」
「いやそうじゃなくて先方の都合なんかがあるでしょうに!」
「そ、そうですね」
ここに来て中川さんは目に見えて動揺をし始めた。当たり前だろう。突然明日訪ねるなどと言われれば困るに決まっている。
「ああ、気にしないでください。我々は適当に調査をしますのでそちらの手はわずらわせませんよ」
そう言って先生はニコニコと笑う。その有無を言わさない雰囲気に押されたのか、中川さんは「少々お待ちを」と言って席を立ち、懐から取り出したスマホでどこかに連絡を取り始めた。
「あのー、先生……流石に非常識では?」
「非常識に成らざるを得ない状況かもしれないよ、境くん」
「え?」
そこまで言ったところで中川さんの電話が終わったらしい。ニコリと先生は笑って「公顕氏からはいいお返事をいただけるのかい?」と言った。なるほど、確かに電話の相手は『極楽館』の主人のところに違いあるまい。
「ええ、明日で大丈夫だそうです。ただし――」
と、言葉を一旦切って、中川さんは言葉を少し濁してから言葉を続けた。
「明日は由希絵様とその許嫁様の顔合わせが有りまして」
「だ、大丈夫なのですか……そんな日に僕たちが行ってしまっても?」
「大丈夫です、その代わりあまりお二人のお手伝いはできないとは思いますが」
構わないさ、適当に僕らは調査をするから、と先生は言ってもう一枚、今度はザラメの煎餅を口にして咀嚼した。
その呑気な姿に、僕は溜め息を、中川さんは咳払いを一つした。先生はあいも変わらず呑気に煎餅を食べていた。
その後、明日早朝に迎えに来る旨を告げて、中川さんは帰って行った。僕はお茶を給湯室に下げて、ほとんど先生が食べてしまった煎餅の残りをバリッと噛んで咀嚼する。
「なんであんな無茶を言ったんですか?」
そう先生に尋ねると、先生は「んー?」と腑抜けた声を上げて例のスクラップファイルを見ながらチラリと僕を見た。そうして、はぁ、と溜め息をついてから黒髪をくしゃりと掻き混ぜた。
「言ったはずだよ。これ、ここに至っては非常識に成らざるを得ないかもしれない。まあそう成らないことを僕は願うがね」
その言葉の不吉さに、僕はポロリと机の上に煎餅を落としてしまった。慌てて拾ったその下には、いつか中川さんから初めて電話を受けた時のメモが書かれたノートが広げられている。
そこには当然自分の文字で単語がいくつかメモしてある。
『館が人を喰う』
その一文を見て、なんとも不吉な予感がしてぞくりと背筋に寒いものが流れるような気がした僕は慌てて煎餅を拾ってノートを閉じた。
「明日は朝からだからね。ご両親には遅くなるとでも言っておきたまえよ」
そんな言葉を聞きながら、僕はまた恐ろしい事件に自分が片足を突っ込んでしまったような気がしていた。
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